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2020年8月29日 (土)

芝山仁王尊と藤原継縄

千葉県の芝山町から匝瑳方面へ抜けました。

 

成田空港と成田不動がある成田市は下総国ですが、すぐ隣の芝山町は上総国です。芝山町・横芝光町・山武市は、かつては山武郡と呼ばれていて、下総国に北西に食い込むような形で、この部分は上総国になっています。飛鳥朝は利根川(当時は香取海周辺)を下総国とし、栗山川の流域を上総国としたようです。

じゃあ何で太平洋側で匝瑳だけが下総国なの?という疑問が生じます。実は匝瑳市から旭市にかけては、江戸時代までは椿海という大きな内海がありました。なので地理的に香取海の一部と捉えられ、匝瑳が下総国に含まれたのかもしれません。

上総国は平安時代には親王任国とされ、国司には親王が任命され、皇親の生活費はここの収入から支給されることになっていました。他には常陸国と上野国があります。大国とされ、古代からとても豊かな国でした。藤原氏の祖である中臣鎌足は常陸国の鹿島出身とされていますが、実際の生国は上総国ともいわれています。壬申の乱で大友皇子側の貴族がこのあたりに逃亡したり流されたりしたらしく、貴種にまつわる伝承が多く残る土地でもあります。

古代には東海道は相模国から東京湾を通って市原・木更津のあたりに上陸するようになっていました。尾張の熱田と伊勢の桑名の間の七里の渡しと同じです。この2つの海の東海道は日本武尊に関わりが深いのですが、それはまた別の機会に触れます。国府は市原にあったと言われています。有名な更級日記は、上総国司の菅原孝標の娘であった少女時代の作者が、任期が終わった父と一緒に市原から京都まで帰る旅から始まっています。

 

さて長々と上総国の説明をしたのは、正史にあまり登場しない下総国と比べて、上総国が平安時代には関東地方の中でも少し特別扱いされていた節があることに触れたかったからです。上掲記述がその紹介となり、理解の一助となればと思います。

 

芝山鉄道という観光用を除けば日本一短い鉄道(2.2㎞)に乗って成田市から芝山町に入ります。この鉄道は、成田空港の建設によって成田へ出ることが不便になる芝山町の交通の便を図るために建設されました。空港の補償事業です。他には久住や滑河の湿田の区画整理と乾田への改良などがあります。

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芝山町のコミュニティバスに乗って芝山仁王尊を目指します。利根川と栗山川の分水嶺はほとんど確認ができません。分水嶺マニアの見解がききたいところです。数分すると段丘涯があって、数mほど低くなるので、古代の感覚ではこの辺りから山武郡なのでしょう。上総国に入りました。

 

バスに乗って約30分。芝山仁王尊観音教寺に付きました。予想もしないほどお大きな山門に圧倒されました。

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主役の仁王様はこの門の中にいらっしゃいます。なお芝山仁王尊バス停側から向かうと直接に境内に入ってしまいます。先述の正門をご覧になりたい方は、芝山古墳・はにわ博物館側に回って入ってください。

 

由緒によりますと、「火事・泥棒除けの仁王尊天、本尊厄除け十一面観世音菩薩で知られる芝山仁王尊は、天応元年(AD781年)に征東大使中納言藤原継縄創建と伝えられ、日本でも有数の古刹です。天応山観音教寺福聚院が正式名称です。代々千葉氏の祈願所として栄え、特に鎌倉時代には近隣に八十余りの子院を置く大寺となります。徳川時代になると、十万石の格式を持つ伴頭拝領寺院にその名を連ね、今日でも杉・紅葉などの古木に囲まれた名山の面影を今に伝えています。」とのことです。すなわち比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺よりも古いのです。江戸時代に至るまで成田山よりも格式は上でした。

江戸の火消しから崇敬を受けて、さまざまな伝承が残っています。本堂のパンフレットに書いてあるので興味がある方は是非。

 

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芝山町と横芝光町は、考古学ファンには芝山古墳群のある町として有名です。芝山古墳群は観音教寺の南側にあります。

今回ははにわ博物館には行く時間はありませんでしたが、芝山古墳群は、埴輪が埋葬されたときの配置のまま、ほぼ完全な姿で見つかった古墳として有名です。教科書に載っているような見事な埴輪の多くはここの出土品です。築造された時期は7世紀、推古天皇の時代ではないかと言われています。はにわ博物館は芝山仁王尊のすぐ近くにあります。境内の博物館にも一部出土品が展示されています。

 

さてここで話題は藤原継縄に移ります。継縄は桓武天皇の腹心でした。天皇の数多くの事業の立ち上げに関わっています。長岡京造営、続日本紀編纂、蝦夷征伐、平安京造営。葛野(平安京の当時の名前)には藤原継縄の領地と別荘がありました。

 

継縄の関東視察は、蝦夷征伐の下調べだったと考えられます。その後、継縄は健児制を作りました。これは豪族の子弟を武装させて、領地を自衛させる制度です。

でも奈良時代の軍備は、徴兵を中心とする防人制でした。唐と新羅が攻めてくることを警戒した奈良の朝廷は、主に東国の豪族に兵士を出させて、北九州の防衛をさせました。

 

なぜ東国の兵士が中心であったかというと定説はありませんが、以下の四点が推察されます。

1)白村江の戦いの主力は西国の兵だった。そのため唐・新羅連合軍への敗戦で西国は疲弊していた

2)東国は壬申の乱で天武天皇側についたので奈良の朝廷は東国の兵士は信用ができた

3)2の裏返しで、西国の兵士の忠誠心に疑問符があった

4)西国には兵站や城砦の維持管理の役割があった

奈良時代も後半になると、唐が内乱で混乱して西の脅威が弱まり、朝廷は陸奥の蝦夷平定に軸足を移します。この頃の戦線は岩手県や秋田県のあたりまで進んでいました。蝦夷平定の主兵力となったのが関東地方の健児でした。戦場が彼らの本拠地に近いために征服地に入植させやすかったのも、蝦夷征服の主力を東国の兵士にした一因でしょう。この健児制が武士団に成長していったと言われています。

推古天皇の時代に大きな古墳が作られた芝山、そこに桓武天皇の腹心が視察に行き、大寺院を建立した。その後に兵制が整備されて、本格的な蝦夷征伐開始。観音教寺には朝廷の政治的な意図がありそうです。でも桓武天皇と藤原継縄の心の内を記録したものは無く、埴輪と仁王様がミステリアスな表情を向けるだけです。ではその健児を率いたのは誰かと言うことで、匝瑳物部氏に話は移ります。

2020年8月22日 (土)

小御門神社

成田市北部の小御門神社(こみかどじんじゃ)に参拝しました。この神社に祀られているのは贈太政大臣花山院師賢です。

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小御門神社鳥居

花山院師賢は、藤原北家師実流の公家です。花山院家の祖である藤原家忠は、関白藤原師実の次男でした。父の師実と兄の師通が相次いで死去し、甥にあたる北家嫡流の藤原忠実が白河上皇の不興をかって長年失脚していたため、院政期に花山院家は重用されて清華家(最高で太政大臣までなれる家柄)として確立しました。

小御門神社の御祭神になった花山院師賢は鎌倉時代末期の人です。彼は生前に後醍醐天皇に重用されました。嘉歴二年(1327)に正二位大納言となります。そして後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵をあげた元弘元年(1331)の元弘の乱において、幕府軍を引き付けるために天皇の変装をして比叡山に上ります。延暦寺の僧兵を味方につけようとするも、それには失敗しました。しかし幕府の目を比叡山に引き付けることに成功し、後醍醐天皇はその隙に京都を脱出して大和に入ります。

比叡山から逃亡した師賢は、笠置山で後醍醐天皇(正確に言うとこの時点では廃帝)と合流し、幕府軍と戦いますが、衆寡敵せず、六波羅に敗れて捕らえられてしまいます。師賢は出家します。法名は素貞。下総に流罪となり、千葉貞胤に預けられました。

元弘二年(1332)の10月に配所にて病死。しかし死因には疑義があります。それというのも、半年前の4月には楠木正成が千早赤阪城を奪還して鎌倉幕府への抵抗を再開しています。今回は周辺の豪族も参加していたために、六波羅は鎮圧にてこずりました。そして9月20日に北条高時が坂東八カ国の御家人に楠木正成討伐令を出しています。師賢の死は正成討伐令の直後ですから、楠木正成と呼応することを恐れた幕府によって内密に始末された可能性があります。

その後鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が復位しました。史実を正確にいうと光厳天皇の即位がなかったことにされました。そのようなわけで、師賢の死は無駄にはなりませんでした。天皇は6月3日に帰京し、6月23日には師賢に太政大臣を贈っています。天皇から文貞公と贈り名されました。天皇が師賢を高く評価していたことが見て取れるでしょう。

 

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坂東三十三ヶ所二十八番龍正院(滑河観音)の裏手、この辺りに建武二年建立の供養塔がある(実物の写真は撮りませんでした)。当時の人が作った師賢の供養塔かもしれません。

 

明治政府は国に功績があった人物を神として祀る制度を作りました。別格官弊社です。明治五年以降、楠木正成(湊川神社)、徳川家康(東照宮)、豊臣秀吉(皇国大明神)などが列格されます。明治十二年には靖国神社も加わります。

明治九年から、南朝に功績があった人たちの神社が別格官弊社に列せられました。新田義貞、肥後の菊池氏、名和長年、北畠顕家、親房、結城宗宏ときて、明治十五年に最後に神社ができたのが師賢でした。見てもわかるように祀られているのは武家ばかりです。北畠家も室町時代に伊勢に土着して戦国大名になっています。別格官弊社に祀られた純粋な公家は師賢が初めてでした。後醍醐天皇から鎌倉幕府討伐の最高の功績者とされた花山院師賢が入っていないのはおかしいという公家からの意見があって、明治政府もそれを認めたのだと思われます。明治天皇の外祖父である中山忠能は花山院家の分家ですから、それも影響したかもしれません。

別格官弊社という制度は、これ以降は華族がご先祖様を顕彰するための制度になっていきます。

 

戦前の総理大臣近衛文麿はことのほかこの神社に愛着を感じていたと言われています。鳥居横の社号は彼の揮毫です。

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公爵近衛文麿と書いてありますね。

 

近衛文麿が愛好した神社ということで、怖いもの見たさもあって参拝してきました。成田線の久住駅から歩いて二時間くらいでした。滑河駅の方が近いのですが、周辺の景色や史跡も見たかったので、わざと遠回りをしました。

当の小御門神社ですが、特別な感じは受けませんでした。大木に囲まれた境内は静かで、厳かな雰囲気があります。御祭神の文貞公が後醍醐天皇の身代わりになったことから、災難から信者を守ってくれる身代わりの神様として信仰を集めているそうです。

 

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小御門神社の社務所

 

個人的な想像ですけれども、文貞公は自分の人生に悔いはなかったのではないでしょうか。主君の身代わりとなって幕府と戦って殉じたのですから、男子の本懐を遂げたと言えます。後醍醐天皇のように遠島ではなくて関東に流されていますので、幕府も忠臣として敬意をもって遇したといえます。幸いにして?建武の新政を見ることなく亡くなったので、後醍醐天皇に幻滅することもありませんでした。当時としては、満足のいく人生を送ることができた人と言えるのではないかと思います。

神社からは特に怨念とかは感じ取れませんでした。近衛文麿もこの気負わない雰囲気が好きだったのではないでしょうか。

2020年8月15日 (土)

麻賀多神社と鳥見神社

大佐倉から印旛沼干拓地と印旛沼の西湖をハイキングしました。大佐倉にある麻賀多神社の石碑に面白いことが書いてありました。

 

(引用)当麻賀多神社の御祭神稚産霊命(わかむすびのみこと)は、豊受大神の御親神にまします。社殿の創建は極めて古く私共の祖先が住みついた頃当地で一番高く清浄なこの丘を卜して奉祭したものと伝承し子孫また朝夕神威を仰ぎ神恩を畏みつつ今日に及ぶ(引用終わり)

 

台方と舟形の麻賀多神社には稚日女尊と稚産霊命がセットで祀られていました。稚日女尊は天照大神の別名ともいわれています。私が思うに、下総では太陽神である稚日女尊と生命の神である稚産霊命が主神として崇拝されていて、この神様は夫婦とみなされていたのではないかと思います。そして夫婦神の子供が豊受大神なのでしょう。豊受大神は生産と家庭を司る豊穣の神です。伊勢神宮の外宮に祀られています。全国の天祖神社にも祀られているポピュラーな神様です。しかし由来がよくわからないとされています。

大和朝廷が記紀神話を編集するまでは、各地に特色ある信仰がありました。記紀神話と違うからといって、嘘だとか間違いだとか決めつける必要はないと私は考えています。太陽神を未婚の女神とする海部族以外にも、太陽神が男の神様と夫婦になっていて、子供がいる信仰を持つ部族がいてもおかしくありません。

 

さて古代には印旛沼はもっと大きくて印旛浦という入江でした。利根川からは西国や北国の船が出入りし、網の目のような水路を通って房総の物産が集まる湊でした。漁業も盛んでした(鯉ヘルペスが猛威を振るうまでは、印旛沼では年間100tの淡水魚が水揚げされていました)。

稚日女尊は、関西では生田神社や今宮戎神社など海運と縁が深い場所に祀られています。佐倉は印旛浦の南岸です。印旛国造は近畿地方と海運で結びついていたのかもしれません。

 

印旛国造の同盟相手を知る手掛かりがあります。印旛沼の北岸の印西市に分布する鳥見神社です。鳥見神社の御祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)です。饒速日命は物部氏の祖先神です。神武東征以前に大和盆地を支配していたとされています。なぜ物部氏の神様が下総にるのでしょうか。

下総の匝瑳には物部氏が入植したという伝承もあり、どうやら印旛国造は物部氏と同盟関係にあったようです。

麻賀多神社や鳥見神社は、物部氏の信仰を解き明かすカギになりそうです。

 

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萩原の鳥見神社

古代の〇〇氏というものは緩いフランチャイズのようなものでした。似たような神話を持っているとか、大昔に血縁があったとか、そのようなつながりで中央と地方の部族が同盟関係を結んでいました。そして通商関係にあって、もしもの時には軍事的な支援をしていたといわれています。

饒速日尊は私が以前「星座で見る日本神話」で船を神格化した神様と分析しました。舟運は海部族の専売特許ではないです。物部氏もまた海上交通を担う一族でした。それでおそらく稚日女尊と稚産霊命の夫婦とその御子神である豊受大神を信仰していたのでしょう。そして豊受大神からの神意を受けて天孫降臨したのが饒速日尊だったと思われます。かつては村ごとに独自の天孫降臨の神話があったのかもしれません。

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本埜の愛宕・鳥見神社

2020年8月 8日 (土)

麻賀多神社

宗吾霊廟と、佐倉宗吾旧宅の間には麻賀多神社があります。オカルトファンの間では、日月神示が書かれた場所としても有名です。

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台方の麻賀多神社鳥居。

 

麻賀多神社でいただいた縁起には以下のように書かれていました。

(1)景行天皇の時代に日本武尊が印旛沼から下総に上陸して、道暗山(手黒)の大杉に七つの玉を埋めて,鏡をかけて、天照大神に先勝祈願したのが祭祀の起源とされている。この鏡は印旛国魂澳津鏡として祭られ、祭神は雅日霊女神(ワカヒルメノカミ、稚日女尊)とされる。 

(2)応神天皇の時代、伊都許利命が印旛国国造に任命され、雅日霊大神を祀る麻賀多真大神宮を創建。霊示によって七つの玉を掘り出して雅産霊神(ワカムスビノカミ、稚産霊命)を祭神として祀る。

(3)推古天皇の時代、印旛国造の広鋤手黒彦が雅産霊神(稚産霊命)を台方に遷宮して麻賀多真の大神として祀る。以降、台方を大宮殿、船形を澳津宮と呼ぶようになる。

(4)延期式神名帳に国幣小社として記載される。ここにおいて、麻賀多真大神宮を麻賀多神社と改名。

となっています。麻賀多神社は印旛沼東岸の産土神で、古墳時代からこの地域の国造の崇敬を受けていたようです。 

 

以下は私個人の推測です。麻賀多は「あがた」と読めますから、延喜式に載っている麻賀多神社が元からの名前でしょう。あがたとは県のことです。つまり縣神社であり、ここからは産土神を祭った神社というそのままの意味であったと言う風に読み取ることができます。麻賀多真大神宮というのは、麻賀多が「まがた」とも読めることから、勾玉を連想した後世の府会ではないかと考えられます。

しかし「あがた」が「縣」という意味でとどまるかどうかは予断を許さぬところです。例えば山城国(京都府)の宇治にも縣神社という古い神社があります。小さい神社なのですが、格はとても高いです。宇治は天照大神信仰とは縁の深い土地ですので、縣神社・麻賀多神社というのは単なる「産土神の神社」という意味だけではなくて、もっと深い意味がある可能性もあります。

 

伝承から想像できる麻賀多神社の祭祀は、南側の台方に穀物神の稚産霊命を祭り、北側で印旛沼沿いの船形に太陽神の稚日女尊を祀る、男女の神様をセットにしたものだったと考えられます。後述しますが印旛沼の西岸には饒速日尊を祭った鳥見神社が分布しています。饒速日尊の神格は、太陽神を船に乗せて空を航行することです。古墳時代には利根川は入り江で印旛沼まで海水が来ていましたので、太陽信仰と舟運が深く結びついた信仰がこの地域にあったのでしょう。 

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船形の澳津宮の鳥居、宗吾旧宅から歩いて20分くらいです。右側には古墳があります。伊都許利命が眠っているとされています。

 

澳津宮では地元の方々が番をされており、ご朱印がいただけました。達筆でした。歌舞伎の佐倉惣五郎の話を聞かせてもらえました。佐倉宗吾はこの地の誇りなのだなと思いました。

 

さて日月神示ですが、昭和19年から35年にかけて、画家で神職でもあった岡本天明氏に下されたお告げといわれています。戦時中に日本の敗北を予言する内容を書いていたということで当時から軍人や官僚に注目されていました。20年ほど前にほぼ全文が解読されて出版されたことで、オカルトファンの間で広まりました。

事の始まりは昭和19年の四月、東京の原宿で古代史の研究家や軍人を集めた降霊実験が開催されました。昭和の前期までは、国家の上層部の人間がオカルトに凝っていました。これは日本だけでなくて世界的な傾向です。ウィキペディアによると、岡本天明氏はこの降霊実験の司会進行及び審神者(さにわ)役であったそうです。審神者とは降りて来た霊が神様なのか、良い霊なのか悪い霊なのかを判定する役割の人です。その時に降りてきた神様が国常立尊だったそうです。

その2か月後に、岡本天明氏は知人の誘いで台方の麻賀多神社にお参りし、そこで強い衝撃を受けて、以来お告げを書くようになったと言われています。wikipediaによると岡本氏は昭和21年から28年にかけて麻賀多神社の近くに滞在して、お告げを書きつづけました。

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岡本天明氏の住居跡。麻賀多神社から歩いて10分くらいです。

 

日月神示は権力者に対して辛辣な内容です。与えることや真の意味で愛し合うことを重視しているともいわれています。私が思うに、この辺りは宗吾霊廟と宗吾の旧宅があって、戦前でも生活に苦しむ庶民が切実な祈りを捧げていた場所です。麻賀多神社というのは宗吾霊廟本堂の真後ろにあるのです。

国常立尊という神様については、私は知識を持っていませんので、日月神示の具体的な内容の検証はこの場ではしないことにします。岡本氏が日月神示の骨格を書いた麻賀多神社には、これまで見てきたように、佐倉宗吾信仰の本拠地、天照大神―邇邇芸命のラインとは別系統の、稚日女尊ー饒速日尊の信仰が残っている地域であるという特殊性を持っています。これが岡本氏の心理になんらかの影響を与えたのではないかと言うのが今回の訪問を通じて感じたことです。

霊的に敏感な岡本氏はこのような思いが集まる土地に滞在したから、庶民の「こんな戦争を早く終わらせてください」という切実な願いをキャッチしてああいう内容の文章を書いたんではないかなと私は思うのです。

2020年8月 1日 (土)

宗吾霊廟

先日成田の方へハイキングに行ってきました。当初の目的は麻賀多神社と松虫寺の参詣だったのですが、地図で調べてみたところ、江戸時代初期の代表的な義民である佐倉宗吾(佐倉惣五郎)ゆかりの土地だったことが分かり、佐倉宗吾関連の史跡も歩くことにしました。

 

京成の宗吾参道駅を降りて、まず東勝寺(宗吾霊堂)と佐倉宗吾の旧宅におまいりしました。

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東勝寺は佐倉宗吾のお墓があります。これはその山門です。大きいですね。

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本堂です。

東勝寺から北に1.5㎞くらい小径を歩いたところに、佐倉宗吾の旧宅があります。ふらっと尋ねると、奥から十七代目の当主が出てきて、詳しくご説明をしてくださいました。家の伝承と郷土史家の研究成果を交えた大変に詳細で専門的な内容で、とても勉強になりましたので紹介します。

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旧宅の写真。今でもご子孫が住んでらっしゃいます。屋根や壁は改築されているようですが、柱と梁は江戸時代から受け継いだものであるようです。

 

義民とは、民衆のために自分を犠牲にして、大名と戦った一揆のリーダーです。佐倉宗吾(佐倉惣五郎)、歴史上の人物としての本名は木内惣五郎です。彼は下総国印旛郡の公津村の名主でした(現在の千葉県成田市)。

木内家は下総の御家人千葉介氏の末裔です。源頼朝の腹心、千葉常胤の六男胤頼は下総国香取の所領を受け継いで木内氏を称しました。戦国時代まで下総国の有力な国人として続きましたが、小田原の陣で北条方として参陣したため、豊臣秀吉によってお取り潰しにあい、帰農していました。惣五郎は帰農して二代目でした。元々この地を400年にわたって支配していた御家人の末裔で、かつては城まで持っていたというのが重要です。

 

佐倉藩初代の堀田正盛は三代将軍徳川家光の寵臣でした。つまり衆道の相手です。振り出しは佐倉一万石だったのですが、どんどん加増されて最終的には12万石の大名になりました。譜代大名としては大身です。慶安四年(1651)に家光が死去した時に正盛は殉死します。子供の正信が二代目の藩主となりました。

堀田正信は領内に重税を敷いたと言われています。検地なども行われたようです。そのころ利根川の河道付け替え工事が行われており、そのための費用や人足の徴発があったのではないかともいわれています。名主は決められた額の年貢を藩に納めなければなりません。生活が苦しい領民の年貢を肩代わりすることも珍しくありませんでした。税率は七公三民(70%)に達したともいわれています。

 

常識的に考えて収入の70%を税金としてとられれば生活できません。でも江戸時代の税率というのは摘発されている財産に対してかかる税率です。税率70%でも、隠し田がある場合は全然苦しくはありません。検地は百年に一回くらいしかありませんでした。例えば新しい一万円札の意匠に選ばれた渋沢栄一の家のように、新田開発や手工業など手広くやっていた豪農の場合、実質的な税率は所得の1%未満ということもありました。七公三民はさすがに額面通りではないかもしれません。でも佐倉藩の場合はかなり厳しかったようで、このままでは生活が立ち行かないということで、公津村の名主6人は江戸の佐倉藩上屋敷に訴え出ることにします。

名主たちは江戸藩邸や堀田家の親戚筋に訴えてみたのですが、何の音沙汰もありませんでした。そこで老中に籠訴しました。これは当時の法律に反する行為でした。

しかし六人が罰せられていないところを見ると、幕府内部はこの名主たちの訴えに理解を示したのではないかと推測されます。しかし惣五郎たちには江戸城内部の動きを知る由もありません。堀田家の前藩主は家光の寵臣でしたし、堀田正信の母親は若狭小浜の酒井家の出身です。酒井家というのは譜代大名の筆頭ですから、このような華麗な家柄の藩政に口出しをするとなると、幕閣が対応するとしても相当な根回しが必要とされます。

 

しかしそうこうしている間にも領民たちは苦しんでいるわけで、痺れを切らした木内惣五郎は四代将軍家綱への直訴を決意します。累を及ぼさないために、まず他の五人の名主を佐倉に帰しました。そして、妻を離縁し、4人の子供を勘当しました。そして承応二年(1653)に家光の月命日で寛永寺に向かう家綱の行列に駆け込んで直訴をしました。これによって問題は将軍の知るところとなり、堀田家の苛政は弛められたと言われています。ただし堀田家はこの後取り潰されてしまうのでどこまで改善したのかは確認ができません。

しかし、面目を潰された堀田家は激怒し、木内惣五郎に対して厳罰で臨みます。惣五郎本人が磔死罪は当然として、離縁していたにもかかわらず幼い子供四人も死罪にしてしまいました。しかも四人の子供のうち三人は女児でした。これは江戸時代の慣例でもあまり例を見ないことです。この時に死罪になったのは、木内惣五郎42歳、長男彦七11歳、三女ホウ9歳、四女トク6歳、五女トヂ3歳でした。女児3人は男の名前に改名させられてから処刑されたと言われています。妻だけは離縁が認められて殺されずに済みました。尼となって家族の菩提を弔ったと言われています。

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 宗吾旧宅の内部、奥に仏壇があります。位牌も見せていただくことができました。

講談や歴史書でもこの時処刑されたのは男児4人ということになっています。ウィキペディアにも男児と書いてあります。しかしご子孫の伝承からは、講談の内容以上の厳しい現実が垣間見えます。

堀田家がかくなる厳罰で臨んだ理由は、木内氏が有力な国人であったからと思われます。おそらく反乱であると早とちりしたのでしょう。堀田家は惣五郎と四人の子供の墓を作ることを許しませんでした。木内家の宗旨は曹洞宗ですが、菩提寺も堀田家を恐れて五人の供養をしませんでした。しかしその時に五人の供養をかって出たのが真言宗の東勝寺だったそそのこと。したがって宗吾霊廟は真言宗です。

堀田家は一年後に後悔して、惣五郎の供養を認め、木内家の再興も認めました。常陸国水戸領内の名主に嫁いでいた次女を呼び返して、土地の者と再婚させたそうです。藩が違ったので、累が及ばなかったのです。伝承によると嫁いだ先の旦那さんとは死別していたそうです。現在の木内家はその子孫にあたります。木内家は代々利左エ門を名乗ったそうです。慌てて家を再興させているところから、当時としてもかなり評判の悪い措置だったのではないかと推察されます。

 

これがこのたびの訪問から推測した史実です。ここで重要なことは、木内家が有力な国人だったことです。それならば堀田家が慌ててやり過ぎてしまったことは理解はできます。一年で後悔したことからも、堀田家の木内家に対する処断が当時から不評だったことが伺えます。10歳にもならない子供、しかも女の子を3人も殺すというのも江戸時代としてはかえって藩の評判を落とすような措置ということもできるでしょう。

 

堀田正信は万治三年(1660)に、幕政批判の上奏文を老中に提出して佐倉に無断帰国してしまい、佐倉藩はお取り潰しになります。正信はその20年後の延宝八年(1680)に、預け先の徳島で徳川家綱死去の報を聞き、鋏で喉をついて殉死してしまいます。この後佐倉藩は別の家を転々とした後、延享三年(1746)に奇しくも再び堀田家(正信の弟の子孫)の手に戻ってきます。堀田家もその後は、代々東勝寺への寄進を欠かさないようにして、木内惣五郎を供養します。百回忌は堀田家の手で盛大に行われ、木内惣五郎は公に認められた義民となりました。宗吾というのは百回忌の戒名の一部です。

義民佐倉惣五郎・佐倉宗吾の伝説は江戸時代から講談などで広まっていましたが、明治以降は自由民権運動家がこれを取り上げたためにさらに大流行していったのでした。歌舞伎にもなります。こうして、佐倉宗吾は民衆を救った義民の代表として、日本全国に広く知れ渡るようになったのです。

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