小御門神社
成田市北部の小御門神社(こみかどじんじゃ)に参拝しました。この神社に祀られているのは贈太政大臣花山院師賢です。
小御門神社鳥居
花山院師賢は、藤原北家師実流の公家です。花山院家の祖である藤原家忠は、関白藤原師実の次男でした。父の師実と兄の師通が相次いで死去し、甥にあたる北家嫡流の藤原忠実が白河上皇の不興をかって長年失脚していたため、院政期に花山院家は重用されて清華家(最高で太政大臣までなれる家柄)として確立しました。
小御門神社の御祭神になった花山院師賢は鎌倉時代末期の人です。彼は生前に後醍醐天皇に重用されました。嘉歴二年(1327)に正二位大納言となります。そして後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵をあげた元弘元年(1331)の元弘の乱において、幕府軍を引き付けるために天皇の変装をして比叡山に上ります。延暦寺の僧兵を味方につけようとするも、それには失敗しました。しかし幕府の目を比叡山に引き付けることに成功し、後醍醐天皇はその隙に京都を脱出して大和に入ります。
比叡山から逃亡した師賢は、笠置山で後醍醐天皇(正確に言うとこの時点では廃帝)と合流し、幕府軍と戦いますが、衆寡敵せず、六波羅に敗れて捕らえられてしまいます。師賢は出家します。法名は素貞。下総に流罪となり、千葉貞胤に預けられました。
元弘二年(1332)の10月に配所にて病死。しかし死因には疑義があります。それというのも、半年前の4月には楠木正成が千早赤阪城を奪還して鎌倉幕府への抵抗を再開しています。今回は周辺の豪族も参加していたために、六波羅は鎮圧にてこずりました。そして9月20日に北条高時が坂東八カ国の御家人に楠木正成討伐令を出しています。師賢の死は正成討伐令の直後ですから、楠木正成と呼応することを恐れた幕府によって内密に始末された可能性があります。
その後鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が復位しました。史実を正確にいうと光厳天皇の即位がなかったことにされました。そのようなわけで、師賢の死は無駄にはなりませんでした。天皇は6月3日に帰京し、6月23日には師賢に太政大臣を贈っています。天皇から文貞公と贈り名されました。天皇が師賢を高く評価していたことが見て取れるでしょう。
坂東三十三ヶ所二十八番龍正院(滑河観音)の裏手、この辺りに建武二年建立の供養塔がある(実物の写真は撮りませんでした)。当時の人が作った師賢の供養塔かもしれません。
明治政府は国に功績があった人物を神として祀る制度を作りました。別格官弊社です。明治五年以降、楠木正成(湊川神社)、徳川家康(東照宮)、豊臣秀吉(皇国大明神)などが列格されます。明治十二年には靖国神社も加わります。
明治九年から、南朝に功績があった人たちの神社が別格官弊社に列せられました。新田義貞、肥後の菊池氏、名和長年、北畠顕家、親房、結城宗宏ときて、明治十五年に最後に神社ができたのが師賢でした。見てもわかるように祀られているのは武家ばかりです。北畠家も室町時代に伊勢に土着して戦国大名になっています。別格官弊社に祀られた純粋な公家は師賢が初めてでした。後醍醐天皇から鎌倉幕府討伐の最高の功績者とされた花山院師賢が入っていないのはおかしいという公家からの意見があって、明治政府もそれを認めたのだと思われます。明治天皇の外祖父である中山忠能は花山院家の分家ですから、それも影響したかもしれません。
別格官弊社という制度は、これ以降は華族がご先祖様を顕彰するための制度になっていきます。
戦前の総理大臣近衛文麿はことのほかこの神社に愛着を感じていたと言われています。鳥居横の社号は彼の揮毫です。
公爵近衛文麿と書いてありますね。
近衛文麿が愛好した神社ということで、怖いもの見たさもあって参拝してきました。成田線の久住駅から歩いて二時間くらいでした。滑河駅の方が近いのですが、周辺の景色や史跡も見たかったので、わざと遠回りをしました。
当の小御門神社ですが、特別な感じは受けませんでした。大木に囲まれた境内は静かで、厳かな雰囲気があります。御祭神の文貞公が後醍醐天皇の身代わりになったことから、災難から信者を守ってくれる身代わりの神様として信仰を集めているそうです。
小御門神社の社務所
個人的な想像ですけれども、文貞公は自分の人生に悔いはなかったのではないでしょうか。主君の身代わりとなって幕府と戦って殉じたのですから、男子の本懐を遂げたと言えます。後醍醐天皇のように遠島ではなくて関東に流されていますので、幕府も忠臣として敬意をもって遇したといえます。幸いにして?建武の新政を見ることなく亡くなったので、後醍醐天皇に幻滅することもありませんでした。当時としては、満足のいく人生を送ることができた人と言えるのではないかと思います。
神社からは特に怨念とかは感じ取れませんでした。近衛文麿もこの気負わない雰囲気が好きだったのではないでしょうか。
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更新有難うございます。毎回とても楽しみにしています。
今回特に目を引いたのは「師賢(文貞公)の死因」
の部分です。正成公討伐令の直後なのでもしかすると
「内密に始末された可能性」もあるとのご指摘。
勿論同じ時期に偶然病気が悪化したのかもしれませんが、
流罪から日が経っていないことを考えると
暗殺もまたない話ではないかもしれないと思いました。
最初から蓋をせず可能性を考察するのは大切なこと。
先入観にとらわれないというのもまた重要ですね。
「(文貞公は)自分の人生に悔いはなかったかも」
という仮説がその通りであれば良いとも思いました。
小御門神社は殊の外ひっそりとした印象を受けました。
写真も有難うございました。次号も楽しみにしています。
投稿: a jelly doughnut | 2020年8月24日 (月) 19時03分
a jelly doughnutさん、こんにちは
文貞公が生き残っていたら鎌倉幕府滅亡も違った展開があったかもしれません。例えば得宗が文貞公を宮方との交渉の使者に立てるとか、また建武の新政でもブレーキ役になれたかもしれません。
乳父の吉田定房の言うことすら聞かなかった後醍醐天皇を抑えるのは、文貞公でも無理かな(笑)
小御門神社がある集落は助崎というのですが、助崎の南側の入り口には乗願寺というお寺があり、なかなか趣があって良かったです。お参りした時にはきれいな紫陽花が満開でした。
小御門神社がある場所の字は「名古屋」です。名古屋という地名はちょこちょこ全国的にあります。ナゴヤは何からの地形を表す古語かもしれません。
投稿: べっちゃん | 2020年8月25日 (火) 22時25分