2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

« 宗吾霊廟 | トップページ | 麻賀多神社と鳥見神社 »

2020年8月 8日 (土)

麻賀多神社

宗吾霊廟と、佐倉宗吾旧宅の間には麻賀多神社があります。オカルトファンの間では、日月神示が書かれた場所としても有名です。

Dsc_0831

台方の麻賀多神社鳥居。

 

麻賀多神社でいただいた縁起には以下のように書かれていました。

(1)景行天皇の時代に日本武尊が印旛沼から下総に上陸して、道暗山(手黒)の大杉に七つの玉を埋めて,鏡をかけて、天照大神に先勝祈願したのが祭祀の起源とされている。この鏡は印旛国魂澳津鏡として祭られ、祭神は雅日霊女神(ワカヒルメノカミ、稚日女尊)とされる。 

(2)応神天皇の時代、伊都許利命が印旛国国造に任命され、雅日霊大神を祀る麻賀多真大神宮を創建。霊示によって七つの玉を掘り出して雅産霊神(ワカムスビノカミ、稚産霊命)を祭神として祀る。

(3)推古天皇の時代、印旛国造の広鋤手黒彦が雅産霊神(稚産霊命)を台方に遷宮して麻賀多真の大神として祀る。以降、台方を大宮殿、船形を澳津宮と呼ぶようになる。

(4)延期式神名帳に国幣小社として記載される。ここにおいて、麻賀多真大神宮を麻賀多神社と改名。

となっています。麻賀多神社は印旛沼東岸の産土神で、古墳時代からこの地域の国造の崇敬を受けていたようです。 

 

以下は私個人の推測です。麻賀多は「あがた」と読めますから、延喜式に載っている麻賀多神社が元からの名前でしょう。あがたとは県のことです。つまり縣神社であり、ここからは産土神を祭った神社というそのままの意味であったと言う風に読み取ることができます。麻賀多真大神宮というのは、麻賀多が「まがた」とも読めることから、勾玉を連想した後世の府会ではないかと考えられます。

しかし「あがた」が「縣」という意味でとどまるかどうかは予断を許さぬところです。例えば山城国(京都府)の宇治にも縣神社という古い神社があります。小さい神社なのですが、格はとても高いです。宇治は天照大神信仰とは縁の深い土地ですので、縣神社・麻賀多神社というのは単なる「産土神の神社」という意味だけではなくて、もっと深い意味がある可能性もあります。

 

伝承から想像できる麻賀多神社の祭祀は、南側の台方に穀物神の稚産霊命を祭り、北側で印旛沼沿いの船形に太陽神の稚日女尊を祀る、男女の神様をセットにしたものだったと考えられます。後述しますが印旛沼の西岸には饒速日尊を祭った鳥見神社が分布しています。饒速日尊の神格は、太陽神を船に乗せて空を航行することです。古墳時代には利根川は入り江で印旛沼まで海水が来ていましたので、太陽信仰と舟運が深く結びついた信仰がこの地域にあったのでしょう。 

Dsc_0852

船形の澳津宮の鳥居、宗吾旧宅から歩いて20分くらいです。右側には古墳があります。伊都許利命が眠っているとされています。

 

澳津宮では地元の方々が番をされており、ご朱印がいただけました。達筆でした。歌舞伎の佐倉惣五郎の話を聞かせてもらえました。佐倉宗吾はこの地の誇りなのだなと思いました。

 

さて日月神示ですが、昭和19年から35年にかけて、画家で神職でもあった岡本天明氏に下されたお告げといわれています。戦時中に日本の敗北を予言する内容を書いていたということで当時から軍人や官僚に注目されていました。20年ほど前にほぼ全文が解読されて出版されたことで、オカルトファンの間で広まりました。

事の始まりは昭和19年の四月、東京の原宿で古代史の研究家や軍人を集めた降霊実験が開催されました。昭和の前期までは、国家の上層部の人間がオカルトに凝っていました。これは日本だけでなくて世界的な傾向です。ウィキペディアによると、岡本天明氏はこの降霊実験の司会進行及び審神者(さにわ)役であったそうです。審神者とは降りて来た霊が神様なのか、良い霊なのか悪い霊なのかを判定する役割の人です。その時に降りてきた神様が国常立尊だったそうです。

その2か月後に、岡本天明氏は知人の誘いで台方の麻賀多神社にお参りし、そこで強い衝撃を受けて、以来お告げを書くようになったと言われています。wikipediaによると岡本氏は昭和21年から28年にかけて麻賀多神社の近くに滞在して、お告げを書きつづけました。

Dsc_0829

 

岡本天明氏の住居跡。麻賀多神社から歩いて10分くらいです。

 

日月神示は権力者に対して辛辣な内容です。与えることや真の意味で愛し合うことを重視しているともいわれています。私が思うに、この辺りは宗吾霊廟と宗吾の旧宅があって、戦前でも生活に苦しむ庶民が切実な祈りを捧げていた場所です。麻賀多神社というのは宗吾霊廟本堂の真後ろにあるのです。

国常立尊という神様については、私は知識を持っていませんので、日月神示の具体的な内容の検証はこの場ではしないことにします。岡本氏が日月神示の骨格を書いた麻賀多神社には、これまで見てきたように、佐倉宗吾信仰の本拠地、天照大神―邇邇芸命のラインとは別系統の、稚日女尊ー饒速日尊の信仰が残っている地域であるという特殊性を持っています。これが岡本氏の心理になんらかの影響を与えたのではないかと言うのが今回の訪問を通じて感じたことです。

霊的に敏感な岡本氏はこのような思いが集まる土地に滞在したから、庶民の「こんな戦争を早く終わらせてください」という切実な願いをキャッチしてああいう内容の文章を書いたんではないかなと私は思うのです。

« 宗吾霊廟 | トップページ | 麻賀多神社と鳥見神社 »

コメント

こんにちは。
先日はご丁寧にコメントを返して頂き有難うございました。
今日も楽しく拝読しました。
特に「麻賀多」→あがた→宇治の縣神社、と進む部分、
連想、比較と類推がテンポよく結びついていくところが
とてもスリリングだなと感じました。
印旛沼西岸の鳥見神社についても後述されるとのこと、
その段も楽しみにしています。

a jelly doughnutさん、こんにちは、楽しんでいただけて何よりです。

学問的には飛躍なのでしょうけれども、そこはアマチュアの気安さで、多少の飛躍は楽しむつもりで読んでいただけるとありがたいです。

地域の特色ある信仰や伝承を調べることで、日本史を立体的に理解していきたいですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 宗吾霊廟 | トップページ | 麻賀多神社と鳥見神社 »