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2020年8月29日 (土)

芝山仁王尊と藤原継縄

千葉県の芝山町から匝瑳方面へ抜けました。

 

成田空港と成田不動がある成田市は下総国ですが、すぐ隣の芝山町は上総国です。芝山町・横芝光町・山武市は、かつては山武郡と呼ばれていて、下総国に北西に食い込むような形で、この部分は上総国になっています。飛鳥朝は利根川(当時は香取海周辺)を下総国とし、栗山川の流域を上総国としたようです。

じゃあ何で太平洋側で匝瑳だけが下総国なの?という疑問が生じます。実は匝瑳市から旭市にかけては、江戸時代までは椿海という大きな内海がありました。なので地理的に香取海の一部と捉えられ、匝瑳が下総国に含まれたのかもしれません。

上総国は平安時代には親王任国とされ、国司には親王が任命され、皇親の生活費はここの収入から支給されることになっていました。他には常陸国と上野国があります。大国とされ、古代からとても豊かな国でした。藤原氏の祖である中臣鎌足は常陸国の鹿島出身とされていますが、実際の生国は上総国ともいわれています。壬申の乱で大友皇子側の貴族がこのあたりに逃亡したり流されたりしたらしく、貴種にまつわる伝承が多く残る土地でもあります。

古代には東海道は相模国から東京湾を通って市原・木更津のあたりに上陸するようになっていました。尾張の熱田と伊勢の桑名の間の七里の渡しと同じです。この2つの海の東海道は日本武尊に関わりが深いのですが、それはまた別の機会に触れます。国府は市原にあったと言われています。有名な更級日記は、上総国司の菅原孝標の娘であった少女時代の作者が、任期が終わった父と一緒に市原から京都まで帰る旅から始まっています。

 

さて長々と上総国の説明をしたのは、正史にあまり登場しない下総国と比べて、上総国が平安時代には関東地方の中でも少し特別扱いされていた節があることに触れたかったからです。上掲記述がその紹介となり、理解の一助となればと思います。

 

芝山鉄道という観光用を除けば日本一短い鉄道(2.2㎞)に乗って成田市から芝山町に入ります。この鉄道は、成田空港の建設によって成田へ出ることが不便になる芝山町の交通の便を図るために建設されました。空港の補償事業です。他には久住や滑河の湿田の区画整理と乾田への改良などがあります。

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芝山町のコミュニティバスに乗って芝山仁王尊を目指します。利根川と栗山川の分水嶺はほとんど確認ができません。分水嶺マニアの見解がききたいところです。数分すると段丘涯があって、数mほど低くなるので、古代の感覚ではこの辺りから山武郡なのでしょう。上総国に入りました。

 

バスに乗って約30分。芝山仁王尊観音教寺に付きました。予想もしないほどお大きな山門に圧倒されました。

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主役の仁王様はこの門の中にいらっしゃいます。なお芝山仁王尊バス停側から向かうと直接に境内に入ってしまいます。先述の正門をご覧になりたい方は、芝山古墳・はにわ博物館側に回って入ってください。

 

由緒によりますと、「火事・泥棒除けの仁王尊天、本尊厄除け十一面観世音菩薩で知られる芝山仁王尊は、天応元年(AD781年)に征東大使中納言藤原継縄創建と伝えられ、日本でも有数の古刹です。天応山観音教寺福聚院が正式名称です。代々千葉氏の祈願所として栄え、特に鎌倉時代には近隣に八十余りの子院を置く大寺となります。徳川時代になると、十万石の格式を持つ伴頭拝領寺院にその名を連ね、今日でも杉・紅葉などの古木に囲まれた名山の面影を今に伝えています。」とのことです。すなわち比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺よりも古いのです。江戸時代に至るまで成田山よりも格式は上でした。

江戸の火消しから崇敬を受けて、さまざまな伝承が残っています。本堂のパンフレットに書いてあるので興味がある方は是非。

 

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芝山町と横芝光町は、考古学ファンには芝山古墳群のある町として有名です。芝山古墳群は観音教寺の南側にあります。

今回ははにわ博物館には行く時間はありませんでしたが、芝山古墳群は、埴輪が埋葬されたときの配置のまま、ほぼ完全な姿で見つかった古墳として有名です。教科書に載っているような見事な埴輪の多くはここの出土品です。築造された時期は7世紀、推古天皇の時代ではないかと言われています。はにわ博物館は芝山仁王尊のすぐ近くにあります。境内の博物館にも一部出土品が展示されています。

 

さてここで話題は藤原継縄に移ります。継縄は桓武天皇の腹心でした。天皇の数多くの事業の立ち上げに関わっています。長岡京造営、続日本紀編纂、蝦夷征伐、平安京造営。葛野(平安京の当時の名前)には藤原継縄の領地と別荘がありました。

 

継縄の関東視察は、蝦夷征伐の下調べだったと考えられます。その後、継縄は健児制を作りました。これは豪族の子弟を武装させて、領地を自衛させる制度です。

でも奈良時代の軍備は、徴兵を中心とする防人制でした。唐と新羅が攻めてくることを警戒した奈良の朝廷は、主に東国の豪族に兵士を出させて、北九州の防衛をさせました。

 

なぜ東国の兵士が中心であったかというと定説はありませんが、以下の四点が推察されます。

1)白村江の戦いの主力は西国の兵だった。そのため唐・新羅連合軍への敗戦で西国は疲弊していた

2)東国は壬申の乱で天武天皇側についたので奈良の朝廷は東国の兵士は信用ができた

3)2の裏返しで、西国の兵士の忠誠心に疑問符があった

4)西国には兵站や城砦の維持管理の役割があった

奈良時代も後半になると、唐が内乱で混乱して西の脅威が弱まり、朝廷は陸奥の蝦夷平定に軸足を移します。この頃の戦線は岩手県や秋田県のあたりまで進んでいました。蝦夷平定の主兵力となったのが関東地方の健児でした。戦場が彼らの本拠地に近いために征服地に入植させやすかったのも、蝦夷征服の主力を東国の兵士にした一因でしょう。この健児制が武士団に成長していったと言われています。

推古天皇の時代に大きな古墳が作られた芝山、そこに桓武天皇の腹心が視察に行き、大寺院を建立した。その後に兵制が整備されて、本格的な蝦夷征伐開始。観音教寺には朝廷の政治的な意図がありそうです。でも桓武天皇と藤原継縄の心の内を記録したものは無く、埴輪と仁王様がミステリアスな表情を向けるだけです。ではその健児を率いたのは誰かと言うことで、匝瑳物部氏に話は移ります。

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コメント

こんばんは。何時も楽しく拝読しています。
今回の舞台はまずもって古墳群のイメージが強いのですが、
ご指摘の通り山門の豪壮さに驚きました。
お掃除中のようですが良い写真も有難うございます。
交通の弁はあまり良くないようですが、
コロナの騒動が落ち着いたらぜひ一度伺ってみようと思います。

また白村江の戦いで西国が疲弊し、なおかつ壬申の乱の経緯から、
東国の武士が北九州の防衛・・・というのはなるほどと思いました。
当時としては消去法的なところもあったかもしれませんが、
後で振り返って見ると意外なところで意外なものがつながっていく
ようにも見えます。匝瑳氏編も期待しています。

おはようございます。

芝山・横芝古墳群のことは迂闊にも訪問するまで忘れていました。
門は本当にびっくりしますよ。仁王尊ですので、門の中に安置されている仁王様が主役という珍しいお寺です。

この地域が上総国であるということは、写真のお掃除中のご婦人に聞きました。

ぜひご訪問ください。後悔はさせません。バスは時間を逃すと半日動けなくなるので、自家用車で行くのが良いでしょうね。

天武朝というのは、東国に基盤を置いた政権です。続日本紀には旧国造クラス出身の役人も多数登場します。相当に広範囲な地域的、そして身分的な広がりを持った人材登用が行われていたようです。挙国一致政権だったんでしょう。

それが平安時代になると、朝廷は京都出身者だけで完結してしまうようになっていきます。地方は自治に任されるようになり、地方から中央への人材の流入はなくなっていきます。世の中が安定し、律令制、仏教などの新しい価値観が根付いて、中央が直接コントロールする必要が薄れてきたのだと思います。

もしくは、地方側に中央に人を送って勉強をする必要性がなくなったのかもしれません。
日本の地方というのは、中央政権が地方をないがしろにするような動きをすれば、必ず異議を表面しますので(鎌倉幕府の成立など)、平安時代の前期200年間、地方が大人しかったのは、その状態に対して異論はなかったということかもしれません。

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