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2020年8月15日 (土)

麻賀多神社と鳥見神社

大佐倉から印旛沼干拓地と印旛沼の西湖をハイキングしました。大佐倉にある麻賀多神社の石碑に面白いことが書いてありました。

 

(引用)当麻賀多神社の御祭神稚産霊命(わかむすびのみこと)は、豊受大神の御親神にまします。社殿の創建は極めて古く私共の祖先が住みついた頃当地で一番高く清浄なこの丘を卜して奉祭したものと伝承し子孫また朝夕神威を仰ぎ神恩を畏みつつ今日に及ぶ(引用終わり)

 

台方と舟形の麻賀多神社には稚日女尊と稚産霊命がセットで祀られていました。稚日女尊は天照大神の別名ともいわれています。私が思うに、下総では太陽神である稚日女尊と生命の神である稚産霊命が主神として崇拝されていて、この神様は夫婦とみなされていたのではないかと思います。そして夫婦神の子供が豊受大神なのでしょう。豊受大神は生産と家庭を司る豊穣の神です。伊勢神宮の外宮に祀られています。全国の天祖神社にも祀られているポピュラーな神様です。しかし由来がよくわからないとされています。

大和朝廷が記紀神話を編集するまでは、各地に特色ある信仰がありました。記紀神話と違うからといって、嘘だとか間違いだとか決めつける必要はないと私は考えています。太陽神を未婚の女神とする海部族以外にも、太陽神が男の神様と夫婦になっていて、子供がいる信仰を持つ部族がいてもおかしくありません。

 

さて古代には印旛沼はもっと大きくて印旛浦という入江でした。利根川からは西国や北国の船が出入りし、網の目のような水路を通って房総の物産が集まる湊でした。漁業も盛んでした(鯉ヘルペスが猛威を振るうまでは、印旛沼では年間100tの淡水魚が水揚げされていました)。

稚日女尊は、関西では生田神社や今宮戎神社など海運と縁が深い場所に祀られています。佐倉は印旛浦の南岸です。印旛国造は近畿地方と海運で結びついていたのかもしれません。

 

印旛国造の同盟相手を知る手掛かりがあります。印旛沼の北岸の印西市に分布する鳥見神社です。鳥見神社の御祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)です。饒速日命は物部氏の祖先神です。神武東征以前に大和盆地を支配していたとされています。なぜ物部氏の神様が下総にるのでしょうか。

下総の匝瑳には物部氏が入植したという伝承もあり、どうやら印旛国造は物部氏と同盟関係にあったようです。

麻賀多神社や鳥見神社は、物部氏の信仰を解き明かすカギになりそうです。

 

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萩原の鳥見神社

古代の〇〇氏というものは緩いフランチャイズのようなものでした。似たような神話を持っているとか、大昔に血縁があったとか、そのようなつながりで中央と地方の部族が同盟関係を結んでいました。そして通商関係にあって、もしもの時には軍事的な支援をしていたといわれています。

饒速日尊は私が以前「星座で見る日本神話」で船を神格化した神様と分析しました。舟運は海部族の専売特許ではないです。物部氏もまた海上交通を担う一族でした。それでおそらく稚日女尊と稚産霊命の夫婦とその御子神である豊受大神を信仰していたのでしょう。そして豊受大神からの神意を受けて天孫降臨したのが饒速日尊だったと思われます。かつては村ごとに独自の天孫降臨の神話があったのかもしれません。

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本埜の愛宕・鳥見神社

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コメント

おはようございます。いつも楽しく読ませてもらってます。
まず豊受大神の「謎解き」の部分がとても面白かったです。
前に生田神社のホームページを見たことがあるのですが、
稚日女尊について「天照大神の和魂または妹君」と説明されていました。
この辺は何かと謎が多いです。
そして今回特にスリリングだなと感じたのは、
石碑や物部氏のくだりから近畿との繋がりに行き着く部分。
それに「フランチャイズ」というのがユニークな表現でした。
例えば血盟などよりもフリーハンドの部分が大きい印象を持ちました。
確かにそんな感じだったのかもしれませんね。有難うございました。

a jelly doughnutさん、おはようございます。

天照大神、稚日女尊、大日孁貴神はわからないことが多いですね。同一の神様と言いつつ、地域性があったり、合祀されている神様に傾向がみられます。

豊受大神は中世になってから伊勢の度会氏が大々的に祭り上げて全国に広がりました。しかし分布地を調べると、物部氏と関連が強いように思えます。関東では稲荷神(保食命)と同一視されていたりします。

各地域ごとに天地創造の夫婦神とその子供の人間を見守る女神、という組み合わせが見られます。丹波や丹後であればそれは伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大神という組み合わせになるのでしょうし、北総では稚産霊命・稚日女尊・豊受大神という組み合わせになります。

記紀神話は各地にあった神話を接ぎ木して作ったのは間違いないでしょう。今時皇国史観でもないでしょうし、各地に残る神話を復元することで、見えてくるものがあるのではないかと考えています。

同じ稚日女尊でも、生田神社に残る神話と麻賀多神社に残る神話では異なっているかもしれません。しかしそれで良いのだと思います。

その変わった理由を調べていくことでより深く歴史を知ることができそうです。

私は物部氏というのはどっちかというと東国にシンパを多く持つ豪族だったのではないかと考えています。蘇我物部戦争で、河内の物部氏が滅ぼされた後も、特に東国で動揺が起きていないところを見ると、近畿の物部氏は、物部ネットワークの中では実はそんなに偉くはなかったのかもしれません。

河内の物部が滅びた?あれは物部四天王の中でも最弱…なんちゃって

お返事有難うございます。
「物部四天王の中でも・・・」にはお茶吹きました。
ところで地域差についてのご指摘、なるほどと思いました。
「豊受大神が稲荷神と同一されている」というのを読んで、
「誰が」より「何を」を重視している印象を持ちました。
曖昧であることを尊ぶ国民性というのもあると思いますが。

また、どこかで作られた「神話」をおらが村に持ち帰り、
それを無理やり唯一無二の真理だと言って押し付けたりしない
(同時に自分の周りの伝承を無下にしたりしない)からこそ
宗教が無理なく国民の(潜在)意識の中に根付いているのかも
しれないな、とも思いました。

日本国内の多様性は明治維新までかなり保存されていました。フィールドワークをしていると、日本の文化に与えたインパクトは、実は太平洋戦争の戦災による文化財の消失やその後の欧米化よりも、明治維新による画一化の方が大きかったのではないかという思いが強くなります。

戦後は、むしろ江戸時代以前への回帰が見られますね。すなわち明治期に加えられた政治色の除去、煩雑な手続きを簡略化し、参加者が楽しめる形式になっていくのですが、これは日本の文化の本来の姿です。

「誰が」より「何を」をですが、その地域特有の信仰の携帯があって、時代に合わせて神様の名前を変えていくような感じですね。例えば女神という部分は変わらない、けれども時代によってそれは豊受大神になったり、宗像神になったり、鬼子母神になったり、弁天様になったりするわけです。

豊受大神がいるから度会神道といったように早急に決めつけると間違えてしまいそうです。

あまり名前にとらわれると見えなくなってくるので、配役やストーリー展開のパターンから類型を導き出すような手法が求めれます。

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