柴又八幡神社古墳と飛鳥
荏原郡とは東京湾を挟んで向かい側、足立郡と葛飾郡の八幡神社を廻る旅です。
山手線の田端駅から千住・柴又・高砂・市川にかけてはかつては東海道が走っていました。京成電車のルートです。市川には下総国府がありました。このラインには八幡神社が数多く並んでいます。
京成本線の町屋駅から、まず荒木田に行ってみました。蒲田の稗田神社の御祭神荒木田襲津彦の手掛かりを探すためです。残念ながら何もありませんでした。この辺りは空襲で徹底的に焼き払われたので、歴史をたどる手掛かりとなる物がほとんど残っていません。空襲の犠牲者の慰霊碑が置いてある神社やお寺も多くて、かなり被害がひどかったのだなと感じました。
荒木田から隅田川と荒川を渡ったあたりに出戸八幡神社と関原八幡神社があります。ここにはかつて千葉氏が中曽根城を作っていて、八幡神社はその守り神だったそうです。古代とは関係ありませんでした。下総には各地に千葉氏が根を張っていて、戦国時代にも武将として活躍しています。しかも交通の要衝を確保していました。それなのにどうして戦国大名にならなかったのか不思議です。
出戸八幡(でとはちまん)の由緒
旧愛恵園。関原八幡の近くにあります。キリスト教系慈善団体で、この地域の生活改善に取り組んでいました。20年前に活動を終了、建物がコミュニティーセンターになっています。
関原不動大聖寺の縁起。応永年間の創立。この辺りが開発されたのは室町時代のようです。平安時代には地球が温暖化して、低い土地が海になったことがあります。これを平安海進と呼びます。この地域は古代にも街道が通っていましたが、平安海進によって一度水没し、室町時代に再び陸地になって人が戻ってきたのかもしれません。
そこから30分ほど歩くと西新井大師総持寺があります。天長三年(826)開創ですので、有名な関東地方の真言宗寺院である川崎大師(12世紀)や高幡不動(十世紀)よりもずっと古いです。本尊は十一面観世音菩薩で関東ではポピュラーな観音様です。坂東三十三ヶ所にも十一面観音は多く、芝山仁王尊もそうです。総持寺はおそらく最初は高野山とは関係なく建てられ、後から真言宗の寺院になったのだと考えられます。
南下して北千住へ向かいます。古代には堀切のあたりまで海が来ていました。荒川と隅田川に挟まれた三角地帯、即ち墨田区は海の底でした。浅草の東側は遠浅の海が広がっていました。良い漁場であったことでしょう。であるから、浅草寺の縁起で漁民が観音様を網で引き上げるという話ができるわけです。
北千住はほぼゼロメートル地帯です。堤防がなければ、満ち潮で水浸しになりかねない湿地帯です。室町時代に細々と進行した東京湾の干拓事業の伝承が、やがて太田道灌の伝説にまとめられます。江戸幕府ができたことで干拓事業はより大規模に進められることになりました。
北千住の鎮守は千住神社です。延長四年(926)に伏見稲荷から分霊を勧請して稲荷神社を創立したのが始まりと言われています。集落の開始とほぼ同時期らしいです。そのころの北千住は中州だったと考えられます。9世紀には新井が海岸線で、百年経って北千住まで土砂で埋まって人が住めるようになったのでしょう。
千住神社では古くから稲荷神社と氷川神社が並んで祭祀されていて、二柱の神様がいるということで二ッ森と呼ばれていました。今回フィールドワークした地域にも、数多くの稲荷神社があります。江戸は稲荷神社が多いことで有名ですが、徳川家康による開府以前からその傾向があるのかもしれません。
前九年の役の時に、源義家は千住大橋付近で荒川を渡り、二ッ森(千住神社)に宿営したと古記録に記載されているそうです。千住神社のすぐ南に白幡八幡神社があり、源氏の宿営地という伝説が残っています。
荒川を渡り、葛飾区に入ります。宝町八幡宮、中原八幡宮、諏訪野八幡神社があります。宝町の地名の由来や中原八幡神社の由緒から、これらの八幡神社の創始は室町時代であるようです。
中原八幡の由緒。京成電鉄青砥駅の横です。室町時代の創建です。
柴又は空襲の被害を逃れていて、「男はつらいよ」の撮影地として選ばれたのも、古い町並みが残る貴重な土地だったからかもしれません。ここ以外は浅草も、墨田も焼け野原になってしまったので、戦前からの町並みは下町にはほとんど残ってはいませんでした。柴又帝釈天の隣に柴又八幡神社があります。この八幡様は古墳の上に立っています。1960年代から発掘が行われ、石室の跡や、埴輪の破片も多数見つかりました。20年前には帽子をかぶった愛嬌のある表情の埴輪も見つかり、寅さん埴輪として地域の人に愛されています。
古墳は6世紀後半の築造らしいです。敏達天皇や推古天皇の時代。柴又は養老年間(8世紀初頭)の正倉院文書にも出てくる古い町です。敏達二年創建の伝承が残る、荏原郡の磐井神社と同程度の歴史を持つ神社かもしれません。
柴又帝釈天遺跡の説明。正倉院に紙背文書として残った養老時代の下総国葛飾郡の戸籍に、嶋俣里(しままた)として書かれています。なんとそこには孔王部刀良(あなほべとら)という男性7人と孔王部佐久良売(あなほべさくらめ)という女性2人が記録されています。奈良時代の柴又でポピュラーな名前であったようです。何たる偶然かと山田洋二監督も驚きのコメントを残しています。
孔王部・穴穂部は文字通り穴を掘って、土木事業をしたり、陶器の材料や鉱物を採掘する人たちだったと推測されます。冒頭の荒木田では良質の粘土が今も採取されています。先述の正倉院に残る戸籍はほとんど氏が孔王部でした。葛飾のあたりに孔王部が支配する地域があったのではないかともいわれています。部民というのはそれぞれの得意分野で朝廷に仕えます。葛飾の孔王部も陶器を税として納めたり、土木工事に従事したりしていたのでしょう。
穴穂部皇子という飛鳥時代の皇族がいます。欽明天皇の皇子です。姉が穴穂部皇女(聖徳太子の生母)で兄に崇峻天皇がいます。物部氏と親密でした。皇位に近い地位にありましたが、蘇我氏に殺されてしまいます。穴穂部皇子が殺された後に即位するのが推古天皇です。
欽明天皇ーー崇峻天皇・穴穂部皇女・穴穂部皇子
崇峻天皇の忌み名は迫瀬部(はつせべ・はせべ)でした。通常は奈良県の長谷寺のあたりに縁があった人物と考えます。しかし丈部(はせべ)氏というのは武蔵国造の有力な一派です。奈良時代には鎮守部将軍で藤原仲麻呂を討伐した丈部不破麻呂が出ています。竹芝寺伝説の元になったのではとされる人です。崇峻天皇と武蔵の丈部氏の間につながりを想定するのは無理があるでしょうか。
物部氏は下総国に基盤を持っていましたので、武蔵国造と強いつながりを持つ崇峻天皇や穴穂部皇子の一族をバックアップするのは自然です。
崇峻天皇・穴穂部皇女・穴穂部皇子は足立や葛飾のあたりに経済基盤を持つ皇族だったのかもしれません。このあたりが皇室の直轄地であったことを示唆する材料が他にもあります。足立区にある「舎人」という地名です。舎人とは皇族を守ったり雑役をする労働者のことです。足立や葛飾も、意外に中央と深いつながりを持っていたようです。東京の古代史を調べることで、日本全体の歴史もより考察が進むのではないでしょうか。
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