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2020年9月26日 (土)

柴又八幡神社古墳と飛鳥

荏原郡とは東京湾を挟んで向かい側、足立郡と葛飾郡の八幡神社を廻る旅です。

山手線の田端駅から千住・柴又・高砂・市川にかけてはかつては東海道が走っていました。京成電車のルートです。市川には下総国府がありました。このラインには八幡神社が数多く並んでいます。

京成本線の町屋駅から、まず荒木田に行ってみました。蒲田の稗田神社の御祭神荒木田襲津彦の手掛かりを探すためです。残念ながら何もありませんでした。この辺りは空襲で徹底的に焼き払われたので、歴史をたどる手掛かりとなる物がほとんど残っていません。空襲の犠牲者の慰霊碑が置いてある神社やお寺も多くて、かなり被害がひどかったのだなと感じました。

 

荒木田から隅田川と荒川を渡ったあたりに出戸八幡神社と関原八幡神社があります。ここにはかつて千葉氏が中曽根城を作っていて、八幡神社はその守り神だったそうです。古代とは関係ありませんでした。下総には各地に千葉氏が根を張っていて、戦国時代にも武将として活躍しています。しかも交通の要衝を確保していました。それなのにどうして戦国大名にならなかったのか不思議です。

Detohachiman

出戸八幡(でとはちまん)の由緒

Aikeien

旧愛恵園。関原八幡の近くにあります。キリスト教系慈善団体で、この地域の生活改善に取り組んでいました。20年前に活動を終了、建物がコミュニティーセンターになっています。

Daiseiji

関原不動大聖寺の縁起。応永年間の創立。この辺りが開発されたのは室町時代のようです。平安時代には地球が温暖化して、低い土地が海になったことがあります。これを平安海進と呼びます。この地域は古代にも街道が通っていましたが、平安海進によって一度水没し、室町時代に再び陸地になって人が戻ってきたのかもしれません。

そこから30分ほど歩くと西新井大師総持寺があります。天長三年(826)開創ですので、有名な関東地方の真言宗寺院である川崎大師(12世紀)や高幡不動(十世紀)よりもずっと古いです。本尊は十一面観世音菩薩で関東ではポピュラーな観音様です。坂東三十三ヶ所にも十一面観音は多く、芝山仁王尊もそうです。総持寺はおそらく最初は高野山とは関係なく建てられ、後から真言宗の寺院になったのだと考えられます。

 

南下して北千住へ向かいます。古代には堀切のあたりまで海が来ていました。荒川と隅田川に挟まれた三角地帯、即ち墨田区は海の底でした。浅草の東側は遠浅の海が広がっていました。良い漁場であったことでしょう。であるから、浅草寺の縁起で漁民が観音様を網で引き上げるという話ができるわけです。

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北千住はほぼゼロメートル地帯です。堤防がなければ、満ち潮で水浸しになりかねない湿地帯です。室町時代に細々と進行した東京湾の干拓事業の伝承が、やがて太田道灌の伝説にまとめられます。江戸幕府ができたことで干拓事業はより大規模に進められることになりました。

北千住の鎮守は千住神社です。延長四年(926)に伏見稲荷から分霊を勧請して稲荷神社を創立したのが始まりと言われています。集落の開始とほぼ同時期らしいです。そのころの北千住は中州だったと考えられます。9世紀には新井が海岸線で、百年経って北千住まで土砂で埋まって人が住めるようになったのでしょう。

千住神社では古くから稲荷神社と氷川神社が並んで祭祀されていて、二柱の神様がいるということで二ッ森と呼ばれていました。今回フィールドワークした地域にも、数多くの稲荷神社があります。江戸は稲荷神社が多いことで有名ですが、徳川家康による開府以前からその傾向があるのかもしれません。

前九年の役の時に、源義家は千住大橋付近で荒川を渡り、二ッ森(千住神社)に宿営したと古記録に記載されているそうです。千住神社のすぐ南に白幡八幡神社があり、源氏の宿営地という伝説が残っています。

 

荒川を渡り、葛飾区に入ります。宝町八幡宮、中原八幡宮、諏訪野八幡神社があります。宝町の地名の由来や中原八幡神社の由緒から、これらの八幡神社の創始は室町時代であるようです。

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中原八幡の由緒。京成電鉄青砥駅の横です。室町時代の創建です。

 

 

柴又は空襲の被害を逃れていて、「男はつらいよ」の撮影地として選ばれたのも、古い町並みが残る貴重な土地だったからかもしれません。ここ以外は浅草も、墨田も焼け野原になってしまったので、戦前からの町並みは下町にはほとんど残ってはいませんでした。柴又帝釈天の隣に柴又八幡神社があります。この八幡様は古墳の上に立っています。1960年代から発掘が行われ、石室の跡や、埴輪の破片も多数見つかりました。20年前には帽子をかぶった愛嬌のある表情の埴輪も見つかり、寅さん埴輪として地域の人に愛されています。

 

 

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古墳は6世紀後半の築造らしいです。敏達天皇や推古天皇の時代。柴又は養老年間(8世紀初頭)の正倉院文書にも出てくる古い町です。敏達二年創建の伝承が残る、荏原郡の磐井神社と同程度の歴史を持つ神社かもしれません。

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柴又帝釈天遺跡の説明。正倉院に紙背文書として残った養老時代の下総国葛飾郡の戸籍に、嶋俣里(しままた)として書かれています。なんとそこには孔王部刀良(あなほべとら)という男性7人と孔王部佐久良売(あなほべさくらめ)という女性2人が記録されています。奈良時代の柴又でポピュラーな名前であったようです。何たる偶然かと山田洋二監督も驚きのコメントを残しています。

 

孔王部・穴穂部は文字通り穴を掘って、土木事業をしたり、陶器の材料や鉱物を採掘する人たちだったと推測されます。冒頭の荒木田では良質の粘土が今も採取されています。先述の正倉院に残る戸籍はほとんど氏が孔王部でした。葛飾のあたりに孔王部が支配する地域があったのではないかともいわれています。部民というのはそれぞれの得意分野で朝廷に仕えます。葛飾の孔王部も陶器を税として納めたり、土木工事に従事したりしていたのでしょう。

穴穂部皇子という飛鳥時代の皇族がいます。欽明天皇の皇子です。姉が穴穂部皇女(聖徳太子の生母)で兄に崇峻天皇がいます。物部氏と親密でした。皇位に近い地位にありましたが、蘇我氏に殺されてしまいます。穴穂部皇子が殺された後に即位するのが推古天皇です。

欽明天皇ーー崇峻天皇・穴穂部皇女・穴穂部皇子

崇峻天皇の忌み名は迫瀬部(はつせべ・はせべ)でした。通常は奈良県の長谷寺のあたりに縁があった人物と考えます。しかし丈部(はせべ)氏というのは武蔵国造の有力な一派です。奈良時代には鎮守部将軍で藤原仲麻呂を討伐した丈部不破麻呂が出ています。竹芝寺伝説の元になったのではとされる人です。崇峻天皇と武蔵の丈部氏の間につながりを想定するのは無理があるでしょうか。

物部氏は下総国に基盤を持っていましたので、武蔵国造と強いつながりを持つ崇峻天皇や穴穂部皇子の一族をバックアップするのは自然です。

崇峻天皇・穴穂部皇女・穴穂部皇子は足立や葛飾のあたりに経済基盤を持つ皇族だったのかもしれません。このあたりが皇室の直轄地であったことを示唆する材料が他にもあります。足立区にある「舎人」という地名です。舎人とは皇族を守ったり雑役をする労働者のことです。足立や葛飾も、意外に中央と深いつながりを持っていたようです。東京の古代史を調べることで、日本全体の歴史もより考察が進むのではないでしょうか。

2020年9月19日 (土)

大井氏と古代の荏原

品川区と大田区の郷土史料を調べるにつれて、大井町から蒲田にかけての荏原郡海岸部に、古代豪族の紀氏が残した痕跡が浮かび上がってきました。

 

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大井町駅、品川区の中心部で区役所の最寄り駅(品川駅は港区です)

この地域にはかつて大井氏という御家人がいました。分家に品川氏(品河氏)がいます。「品川区史」によると、大井氏は国衙領(朝廷の管理地)を管理する豪族でした。元暦元年(1184)に武蔵国が源頼朝の知行国になり、品川清実が源頼朝から雑公事を免除されています。品川氏は私有地の税金を免除されたわけで、ここから品川氏が荏原郡の中で有力な御家人であったことが分かるのです。

大井氏は武士の中では珍しく古代豪族の紀氏を称していました。紀氏は神話では武内宿禰に始祖とします。一族からは菅原道真と同時代に生きて学者として名を成した中納言紀長谷雄、「土佐日記」の作者である紀貫之、「古今和歌集」の撰者である紀友則を出しています。各氏族の系図を集めた「尊卑文脈」には、荏原郡の大井氏が紀氏の一派として収録されています。

紀長谷雄(中納言)-(六代)ー紀守澄(摂津守)ー大井実直(国衙役人)ー大井実春(六郷保の領主)

大井実春は御家人として「吾妻鏡」に登場します。源頼朝の命令で伊勢・伊賀に攻め込み、奥州藤原氏との戦いにも従軍しています。

 

薩摩(鹿児島県)にも大井氏がいて、荏原郡の大井氏の子孫を称しています。「品川区史」は薩摩大井氏に伝わる系図と尊卑文脈を比較しています。大井系図では実春の直接の祖先は紀長谷雄ではなく、紀国守となっています。薩摩大井氏系図では大井実直の時に初めて武蔵に住むと書いてあり、そこから大井氏は院政期の後半に荏原郡に土着したのであろうと、「品川区史」は推測しています。

しかし我々は紀氏がもっと古くから荏原郡に痕跡を残しているのを知っています。蒲田の稗田神社です。稗田神社の御祭神に荒木田襲津彦がいることはすでに触れました。これは応神天皇の将軍として新羅と戦った葛城襲津彦に名前が酷似しています。さらに葛城襲津彦の母を荒木氏としている系図もあります。一見誤伝に見えるこの名前も、古い伝承を継承した紀氏が蒲田に住みついていて、何らかの伝承を受け継いでいたと考えれば辻褄があいます。

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稗田神社の縁起

大井町も古くからある地名です。初出は延喜式の大井駅です。平安時代前期の東海道は相模国府(厚木市・海老名市)から町田市町屋あたりの店屋駅(「まちや」と読みます)で北と東に分岐。北に向かう道は府中市の武蔵国府へ向かい、東に向かう道は大井駅に至るとされていました。大井駅から豊島駅(豊島区)そして下総国府(市川市)へと進みます。

大井町の地名はさらに昔からあった可能性もあります。六世紀初めにあったとされる武蔵国造の乱で、大和朝廷の力を借りて内紛に勝利した笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は、朝廷に四つの屯倉を差し出しました。屯倉とは朝廷に納める税金を保管する倉のことで、朝廷の直轄領であることを指します。その四つの屯倉とは横渟屯倉(よこい:埼玉県比企郡吉見町か?)、橘花屯倉(たちばな:武蔵国橘樹郡で現在の川崎市をと重なる地域)、倉<木巣>屯倉(くらす:倉木の誤記とみて武蔵国久良岐郡、大体横浜市南東部)、多氷屯倉でした。

多氷は通説では多末の誤記と考え、多摩郡のことだろうとしています。しかし、よこい、たちばな、くらす、はいずれも訓読みなのに、ここだけ音読みにするのもおかしな話です。しかも橘樹と久良岐は武蔵国南西部の東京湾沿いですから、ここは多氷を素直に訓読みして「おおひ」で大井町付近とみなすべきではないかと私は考えます。

横渟屯倉も吉見とはだいぶ音がずれていますので、埼玉県西部ではなくてあるいは武蔵国南西部にふさわしい土地があるかもしれません。

 

大田区にはもっと明白な紀氏の痕跡があります。大森神社(寄来明神)です。京急平和島駅付近にあります。御祭神は久久能智命といいます。この神様は伊耶那岐命と伊耶那美命の御子で、紀伊国に天下りしたと言われています。大山祇神と共に生まれており、木の神様とされています。大森神社は戦国時代の天正年間の創建と伝わっています。しかしもっと古い可能性も捨てきれません。寄来明神という別名も、遠くから技術を持った人たちが移住してきたことを示唆する名前なのかもしれません。

 

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大森神社、京急平和島駅から徒歩5分くらいです。

 

大井氏の系図に話を戻します。私が推測する経緯はこうです。古代に紀氏が荏原郡に移住しました。多氷屯倉ができた時に官人として派遣されて、そのまま土着したのかもしれません。彼らは葛城襲津彦に関する古い伝承を保持していました。やがて蒲田に先住する人たちと融合していったのでしょう。そして稗田神社を作りました。延喜式にも記録されます。

そのうちに荏原郡の紀氏から武士が誕生します。しかし古代の紀氏の末裔を称しても誰も相手にしてくれませんし、実益もありません。そこで院政期の紀氏に接ぎ木するような形で系図を作った。それが尊卑文脈や薩摩大井氏に残る大井氏の系図なのでしょう。

 

他にも紀氏と八幡信仰は深いかかわりがあるのです。山城国男山に石清水八幡宮を創建した行教という僧侶は紀氏の出身です。紀氏と清和源氏と八幡信仰の間には密接な関わりがありそうですね。

 

このように、古代の荏原郡は朝廷と密接なつながりを持っていたことは重層的に裏付けられました。そのキーとなるのは海運でしょう。品川湊や六郷川(多摩川)の水運は、古代からかなり活発であったことが推測可能です。どうやら八幡信仰がキーになりそうです。

 

追記

この文章を書いた後、地元の図書館で大森の伝承を集めた本「大森山王と周辺の歴史を探る」を見つけました。それによると、山王を含めた大井郷は、延暦三年(784)に中納言石川豊人が武蔵国国司として下向して、大森に住んだ際に、守護職として国司の身辺を守った人たちが住んでいたのだそうです。その末裔が大井氏であるそうです。

 

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大森の磐井神社、御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、姫大神に加えて出雲系の大己貴命

延暦年間に石川豊人がもたらしたという石がご神体。

 

この大井氏は元々は武蔵国入間郷(現埼玉県)を本拠とする村山党であったが、大井に住んだのでそれを姓としたと伝承にはあるそうです。

そして大井一族は承久年間(1220年頃)に、幕府から伊勢に領地をもらって移住し、大森には梶原家が地頭として入部したとありました。この梶原家は梶原景時と同じ一族なのだそうです。初代地頭は梶原景望、景俊、景氏、基景、経祐と地頭職を継いでいき、梶原経祐の代に足利方につきました。梶原景望から数えて11代目の信景が後北条氏に負けて臣従したとのことです。鹿島谷には梶原景時の墓もあるとしています。

 

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大井町の梶原稲荷、大森鹿島神社の裏手当たり



とこのように、大井氏と梶原氏について詳細な伝承が記録してありました。とても興味深い内容です。

磐井神社、大森神社等には出雲系の神様も祭られていて、これが従来は謎とされていました。研究者によっては、武蔵国北部では出雲系の神社が卓越することから、出雲系の神様が荏原郡でも先行する神様で、八幡神は平安時代後期に源氏によってもたらされたとする人もいます。

入間市がある狭山丘陵には現在でも多数の出雲系神社があります。古い古墳も多いです。武蔵国造発祥の地ともいわれています。大井氏がそこから大森に入部したのだとすると、大森に出雲系の神様が祀られていることが上手く説明できます。大井氏が出雲系の神様を大森に持ち込んだのです。

その時に八幡神(誉田別命)が既に荏原にいたのかどうかはこの伝承だけではわかりませんが、私としては荏原郡では八幡神が古代から先行する信仰だったのではないかと考えています。これについては、追ってご説明します。

2020年9月12日 (土)

蒲田の稗田神社

JR蒲田駅と京急蒲田駅の中間あたりに稗田神社(正確な表記は薭田神社)はあります。延喜式に磐井神社と並んで八幡神を祀る神社として記録されています。稗田神社の祭祀は中世に一時期中断していたようで、正確な位置はわかりません。先に見たように三田の御田八幡神社も稗田神社の後継者であると主張しています。

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稗田神社

 

この神社の御祭神が興味深いです。天照大神、誉田別命(応神天皇)、春日明神、武内宿禰までは普通です。武内宿禰は応神天皇を助けたスーパー軍師ですので、八幡神社ではよく祀られています。問題は荒木田襲津彦命です。彼は何者なのでしょうか。

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由緒を刻んだ石碑。鳥居を入ってすぐ左側です。

 

荒木田襲津彦命を検索すると葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)が出てきます。ここがネットの良いところです。関連がありそうな単語を自動的に拾ってくれます。

葛城襲津彦は神功皇后、応神天皇の時代の軍人で、海を渡って新羅と戦ったと言われています。朝鮮半島側の記録にも沙至比跪(さちひこ)として登場します。大和朝廷の使者として朝鮮半島に渡って活動していたらしいです。古事記では武内宿禰の七男となっています。娘の磐之媛命が仁徳天皇の后になっていることが日本書紀に見えて、葛城氏のかなり有力な族長であったようです。

紀氏の系図である紀氏家牒の逸文によると、葛城襲津彦の母は荒田彦の娘である葛比売としています。紀氏家牒によると、荒田彦は葛城国造なのだそうです。荒木田と似ています。


普通に考えると、葛城襲津彦の母方の姓が誤って関東に伝わったで片づけられてしまうのでしょうが、ここに見過ごせない万葉集の歌があります。

葛城の 襲津彦真弓 荒木(新木)にも 頼めや君が 我が名告りけむ(万葉集11-2639) 

これは通常は葛城襲津彦が使った強弓を引けるような頼もしいあなたが、私の名前を呼んだ(求婚した)のだから、これは私のことを強く愛している証拠でしょう。と読むそうです。荒木の部分が意味不明とされてきました。新しい木で作った弓という解釈がありますが、弓を作るときには木を乾かします。白木は弱くて弓には使えませんのでこの解釈は間違っています。

 

これは素直に読めば、「葛城襲津彦、あるいは荒木とも言われているが、その人が使ったような強弓を」となります。つまり荒木田襲津彦と葛城襲津彦が、当時から混同されていたことを示唆しています。

 

 

荒木田が見過ごせない理由は他にもあります。荒木田氏は歴史に残るような重要な氏族です。成務天皇の時代に荒木田の姓を与えられて、伊勢神宮に仕えるようになったとされています。代々伊勢神宮の内宮の禰宜をしていました。成務天皇は日本武尊の弟で、応神天皇にとっては大叔父に当たります。

 

では荒木田という地名はないかと探すと、これは東京都の荒川区にあります。荒川区の荒木田というのは造園家には荒木田土の産地として有名です。荒川沿いの田んぼの底から採取される粘土で、目が細かくて水持ちがよいので、陶器作りや園芸作物の栽培に適しています。園芸用の土の代名詞となっています。そして足立・荒川・葛飾にも八幡神社が多く分布していることも見過ごせません。

 

荒木田襲津彦が何者であるかについて、3パターンの推測を立ててみました。

 

1つ目は、荒木田襲津彦、伊勢出身説です。

稗田神社は、和銅二年に天照大神、誉田別命、春日明神を合祀したという伝説を持っています。伊勢神宮の御霊を蒲田まで運び、正式な神道の祭祀をこの地に移植したのが荒木田襲津彦であるのかもしれません。

この説の良いところは、どうしてこの3点セットであるのか説明がつくことです。天武持統朝は伊勢神宮を国家祭祀の中心に据えました。伊勢神宮の祭祀を全国に広めるために、全国に神職が派遣されたのでしょう。

稗田神社には、ここが垂仁天皇の時代から神を祭る霊地であったという伝承が残っています。実際に付近で縄文時代の遺物が発掘されています。日本では新しい神様が来ても、古い神様を追い出したり消したりはしません。誉田別命は荏原郡ではポピュラーな神様ですから、伊勢神宮の信仰を取り入れる前から信仰されていたのでしょう。

そして荒木田氏は中臣氏の一派という説があります。春日明神(鹿島神社)は藤原氏・中臣氏の氏神ですので、個人的な信仰として春日明神を加えたとも考えられます。

 

2つ目は、荒木田襲津彦、武蔵国出身説です。

武蔵国の荒木田襲津彦が応神天皇の時代に武将として活躍した。故郷の人たちはこの武将を記念して神として名前を残したのです。荒木田氏は葛城氏と縁戚関係にあったのかもしれません。それで近畿地方には彼の活躍は葛城氏の功績として残りました。そして荒木田氏は伊勢の禰宜として働くようになったとは考えられないでしょうか。

 

3つ目は、紀氏が独自の伝承を持ち込んだという説ですが、これについては別二爻を立てて検討していますのでお楽しみに。

 

古事記では神功皇后に西の国を討てとお告げをしたのは天照大神となっています。日本武尊を保護したのは、天照大神を伊勢までお連れした倭姫命でした。日本武尊・神功皇后・誉田別命は天照大神と縁が深いのです。特に関東では伊勢神宮・日本武尊伝説・八幡信仰は混然一体となっています。応神天皇の将軍である葛城襲津彦と同じ名前を持ち、伊勢神宮の禰宜を務めた一族の氏をもつ荒木田襲津彦が、武蔵国の蒲田で、天照大神、誉田別命、武内宿禰とともに祀られている。その理由はわかりませんが、必然のような気もします。単なる誤伝では片づけられないのではないでしょうか。

2020年9月 5日 (土)

竹芝伝説と荏原郡の八幡神社

高輪から蒲田まで、旧東海道沿いを八幡神社を軸に史跡を巡りました。東京にも歴史好きをワクワクさせてくれるミステリーがたくさんあるのが分かりました。

 

地下鉄浅草線泉岳寺駅から、都心側に向かって数分、御田八幡神社があります。このあたりの地名は三田ですが、ここでは御田と書きます。その理由はあとでわかります。

縁起によると、和銅二年(709)牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)に、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。

稗田神社(薭田神社)は大田区蒲田にもあります。蒲田の稗田神社の創建伝承は僧行基が天照大神・八幡神・春日明神の三体神を造り、本社に安置したとなっています。稗田神社は一時期所在が不明になっていたらしいので、御田八幡神社は蒲田の稗田神社と同じ創建伝承を引いているのでしょう。

 

御田八幡神社の裏は公園になっていて、亀塚という古墳のような遺跡があります。外観はいかにも古墳に見えるものの、考古学調査ではまだ確証が得られていないそうです。しかし古墳時代以後の遺物が発掘されており、築造は古墳時代以後であるらしいです。

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ここにも更級日記が出てきて、自分でもこの看板を読んだ時には驚きました。更級日記では武蔵国に入ったところで、竹芝寺の伝説を土地の者から聞くシーンがあります。上総国国府は千葉県の市原にありました。市原から武蔵(東京・埼玉・川崎市)に入るのに何で最初に高輪が出てくるのか不思議かもしれませんが、船で木更津から品川に渡ったとすればおかしくありません。品川は平安時代からある港町でした。逆に当時は葛飾・足立のあたりは湿地帯ですので、歩いて上総―下総ー武蔵と移動するのは現実的ではありません。

この竹芝寺の伝説とは、武蔵国から衛兵として働きに来ていた郡司の息子が、帝の姫君と仲良くなって故郷に駆け落ちするという話です。当然ながら追手が差し向けられるのですが、姫君は私はここが好きなのでこの者と一緒に暮らすときっぱり言い放って、それが認められてしまうという破天荒な話です。若者の家は武蔵の国主に任命されて税金も免除され、姫君のために内裏にもまがうような大邸宅を立てた、それが竹芝寺になったという伝説です。若者と姫君の子孫には武蔵という姓が与えられたと言われています。

気になって検索してみると、奈良時代に軍人として活躍した武蔵出身の武蔵(丈部)不破麻呂という地方豪族がいて、それがモデルになったのではという説がありました。なるほど、都で夢のような大活躍をして、貴族の娘をお嫁さんにもらって国に帰って来て大邸宅を立てるというのはありそうな話です。不破麻呂の史実に尾ひれがついたのかもしれません。

平将門の蜂起のきっかけとなった武蔵武芝というのがその一族ではないかという説もあります。かれは武蔵国造の末裔で、今の大宮市のあたりにも竹芝寺の伝説があります。武蔵国造は荏原郡にも領地を持っていたという記録があります。菅原孝標女さんが喜びそうなロマンチックな伝説です。目をキラキラとさせて聞き入る少女の姿が浮かびます。

もしも竹芝寺伝説が本当だとしたら、皇女の邸宅のおひざ元になりますから、三田が御田と書かれたのも納得です。亀塚は姫君のお墓かもしれません。さてどうでしょうか?

 

さてここから中世の東海道を通っていきます。おそらく大井町の見晴らし通りと目星を立てて歩いていくと、犬も歩けばなんとやら。梶原稲荷という神社に行き当たりました。

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梶原稲荷の由来です。梶原景時が武蔵国大井村鹿島谷に万福寺を作るとあります。大井という地名は武蔵国造の記事に出てきます。このすぐ近くの大森貝塚のあたりに古い鹿島神社がありますので、この伝承は信憑性が高いと思われます。梶原氏は鎌倉を本拠地としていましたが、海上交通のつながりで品川に分家があってもおかしくありません。謀反人であった関係上、源頼朝の周りに集まったのは次男坊三男坊が多かったので、梶原景時も最初は分家だったのかもしれません。

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鹿島谷?このあたりはちょっとした崖になっていますので、武士が砦を作るには適しています。東海道にも品川の湊にも近いので好立地と言えるでしょう。北条、三浦、千葉、源頼朝の旗揚げに付き従った御家人は海上交易の関係者が多いのですけれども、梶原景時も本業は海運であったのかもしれませんね。

 

更にここから歩いて三十分。大森のイトーヨーカドーの南側に磐井神社があります。ここは延喜式内社にも数えられている由緒ある神社です。公式記録に確認できるのは「三代実録」の貞観元年(859)武蔵国従五位磐井神社を官社に列すとあります。そしてこの神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたと言われています。神社に残る由緒書きでは創建は敏達天皇二年(573)となっています。

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敏達天皇二年というのは妙にリアルな年代です。宇佐八幡宮の創建が、敏達天皇の父の欽明天皇の時代です。しかしこれは応神天皇が童子の姿で「私は菩薩だ」といって現れたという説話なので、後世に後付けされた代物であることは明確で、宇佐八幡宮が記録に出てくるのは奈良時代になってからです。武蔵国の八幡神社は宇佐の八幡信仰や、難波の誉田別命(応神天皇とされる)信仰に勝るとも劣らない歴史を持っている可能性があります。

 

蒲田の稗田神社については次回説明いたします。

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