竹芝伝説と荏原郡の八幡神社
高輪から蒲田まで、旧東海道沿いを八幡神社を軸に史跡を巡りました。東京にも歴史好きをワクワクさせてくれるミステリーがたくさんあるのが分かりました。
地下鉄浅草線泉岳寺駅から、都心側に向かって数分、御田八幡神社があります。このあたりの地名は三田ですが、ここでは御田と書きます。その理由はあとでわかります。
縁起によると、和銅二年(709)牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)に、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。
稗田神社(薭田神社)は大田区蒲田にもあります。蒲田の稗田神社の創建伝承は僧行基が天照大神・八幡神・春日明神の三体神を造り、本社に安置したとなっています。稗田神社は一時期所在が不明になっていたらしいので、御田八幡神社は蒲田の稗田神社と同じ創建伝承を引いているのでしょう。
御田八幡神社の裏は公園になっていて、亀塚という古墳のような遺跡があります。外観はいかにも古墳に見えるものの、考古学調査ではまだ確証が得られていないそうです。しかし古墳時代以後の遺物が発掘されており、築造は古墳時代以後であるらしいです。
ここにも更級日記が出てきて、自分でもこの看板を読んだ時には驚きました。更級日記では武蔵国に入ったところで、竹芝寺の伝説を土地の者から聞くシーンがあります。上総国国府は千葉県の市原にありました。市原から武蔵(東京・埼玉・川崎市)に入るのに何で最初に高輪が出てくるのか不思議かもしれませんが、船で木更津から品川に渡ったとすればおかしくありません。品川は平安時代からある港町でした。逆に当時は葛飾・足立のあたりは湿地帯ですので、歩いて上総―下総ー武蔵と移動するのは現実的ではありません。
この竹芝寺の伝説とは、武蔵国から衛兵として働きに来ていた郡司の息子が、帝の姫君と仲良くなって故郷に駆け落ちするという話です。当然ながら追手が差し向けられるのですが、姫君は私はここが好きなのでこの者と一緒に暮らすときっぱり言い放って、それが認められてしまうという破天荒な話です。若者の家は武蔵の国主に任命されて税金も免除され、姫君のために内裏にもまがうような大邸宅を立てた、それが竹芝寺になったという伝説です。若者と姫君の子孫には武蔵という姓が与えられたと言われています。
気になって検索してみると、奈良時代に軍人として活躍した武蔵出身の武蔵(丈部)不破麻呂という地方豪族がいて、それがモデルになったのではという説がありました。なるほど、都で夢のような大活躍をして、貴族の娘をお嫁さんにもらって国に帰って来て大邸宅を立てるというのはありそうな話です。不破麻呂の史実に尾ひれがついたのかもしれません。
平将門の蜂起のきっかけとなった武蔵武芝というのがその一族ではないかという説もあります。かれは武蔵国造の末裔で、今の大宮市のあたりにも竹芝寺の伝説があります。武蔵国造は荏原郡にも領地を持っていたという記録があります。菅原孝標女さんが喜びそうなロマンチックな伝説です。目をキラキラとさせて聞き入る少女の姿が浮かびます。
もしも竹芝寺伝説が本当だとしたら、皇女の邸宅のおひざ元になりますから、三田が御田と書かれたのも納得です。亀塚は姫君のお墓かもしれません。さてどうでしょうか?
さてここから中世の東海道を通っていきます。おそらく大井町の見晴らし通りと目星を立てて歩いていくと、犬も歩けばなんとやら。梶原稲荷という神社に行き当たりました。
梶原稲荷の由来です。梶原景時が武蔵国大井村鹿島谷に万福寺を作るとあります。大井という地名は武蔵国造の記事に出てきます。このすぐ近くの大森貝塚のあたりに古い鹿島神社がありますので、この伝承は信憑性が高いと思われます。梶原氏は鎌倉を本拠地としていましたが、海上交通のつながりで品川に分家があってもおかしくありません。謀反人であった関係上、源頼朝の周りに集まったのは次男坊三男坊が多かったので、梶原景時も最初は分家だったのかもしれません。
鹿島谷?このあたりはちょっとした崖になっていますので、武士が砦を作るには適しています。東海道にも品川の湊にも近いので好立地と言えるでしょう。北条、三浦、千葉、源頼朝の旗揚げに付き従った御家人は海上交易の関係者が多いのですけれども、梶原景時も本業は海運であったのかもしれませんね。
更にここから歩いて三十分。大森のイトーヨーカドーの南側に磐井神社があります。ここは延喜式内社にも数えられている由緒ある神社です。公式記録に確認できるのは「三代実録」の貞観元年(859)武蔵国従五位磐井神社を官社に列すとあります。そしてこの神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたと言われています。神社に残る由緒書きでは創建は敏達天皇二年(573)となっています。
敏達天皇二年というのは妙にリアルな年代です。宇佐八幡宮の創建が、敏達天皇の父の欽明天皇の時代です。しかしこれは応神天皇が童子の姿で「私は菩薩だ」といって現れたという説話なので、後世に後付けされた代物であることは明確で、宇佐八幡宮が記録に出てくるのは奈良時代になってからです。武蔵国の八幡神社は宇佐の八幡信仰や、難波の誉田別命(応神天皇とされる)信仰に勝るとも劣らない歴史を持っている可能性があります。
蒲田の稗田神社については次回説明いたします。
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こんにちは。私は更級日記の時間を愛おしむような感覚が好きです。
人生と時代、いずれも「振り返る」時期にあり、それが創作に反映され、
時間を愛おしむような感覚がそこここに感じられます。
孝標女は自ら乳母という生き方を貫き、記録し、楽しかったと断言します。
あの時代、既に「誰かのいいなりにならない」人生の過ごし方を模索し、
肯定的にそれを締めくくろうとしたわけですね。そこに気高さを感じます。
これは、一般的な評価とは違う感想かもしれません。一般的な評価では、
「見目麗しくなかった」というようなことがいわれていますが、それは
「時代が下ると自立した女性像に理解が増えるかというとそうでもない」
ということの現れなのかな、と感じることがあります。
イプセンが自立した女性を描くのが19世紀末から20世紀初頭です。
日本という国が育んできた女性の強さにも思いを馳せました。
ところで梶原景時の話もありがとうございます。
「海と女性」というのが隠れテーマになっているのかもしれないな、
と思いながら拝読していました。
どこに砦を置くかということを考えながら地形を読み解くのも面白いです。
蒲田編も楽しみにしています。
投稿: a jelly doughnut | 2020年9月 8日 (火) 18時21分
こんにちは
梶原景時は蒲田の六郷神社を再建しています。六郷は平安時代からある古い集落で、六郷神社は八幡です。
水軍に縁がある人だから、平家攻めで水軍を率いた源義経に戦目付としてついていくんですね。その時に義経と対立したというのはあまり信用できません。平家物語は京都の人が作ったらしいので。
むしろ源義経の手柄とされていることの多くは、本来は梶原景時の手柄なのでは?と私は考えています。
更級日記は周辺の事情が明らかになるにつれ、評価が変わってきていますね。
痩せてもかれても受領階級ですし、管原家は塾を開いていましたので、無官でもそれなりに収入もあります。それなのに姪を子育てしているのは本来なら異常です。それをわざわざ記録して残しているのも異常です。
やなりよっぽど乳母という生き方に誇りを抱いていたと考えるべきと私も思います。
投稿: べっちゃん | 2020年9月 9日 (水) 22時48分
中公新書の「菅原道真」にありましたが、管原家の女性は、門人や学問の繋がりで輿入れするケースが多いらしいです。
橘家も学者の家ですから、結局孝標女さんもこのルートで嫁に入っています。
若い頃に縁談がなかったはずはなく、先生や同僚からの話ならば断ることは無いので、孝標女さん本人が断っていたと考えるのが自然です。
まあ二十代後半になると、孝標女さんが年老いた両親に代わってなんだか家長のような役割を果たすようになっていて、両親からも頼りにされていたのが読み取れます。
藤原詮子や藤原彰子が晩年皇室の家長であったことは明らかになりつつあり、こういうことは当時は珍しくありませんでした。
投稿: べっちゃん | 2020年9月 9日 (水) 22時59分