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2020年10月31日 (土)

荏原郡の八幡神社(東海道沿い) 地図を追記

荏原郡(港区、品川区、大田区)にはたくさんの八幡神社が鎮座しています。これらの八幡神社は、二つのグループに分けられそうなことに気が付きました。

ダウンロード(荏原郡八幡神社マップ) - ebarahachimanmap.pdf

 

東海道沿いには奈良時代までさかのぼる非常に古い創建伝承を持つ八幡神社が並んでいます。磐井神社と御田八幡神社もこれに含めてよいでしょう。

六郷神社・洗足池・旗の台・目黒を結ぶラインには、清和源氏と密接に結びついた伝承を持つ八幡神社が多いです。鎌倉から武蔵北部へ抜ける鎌倉街道沿いに並んでいます。

東海道と鎌倉街道という二つの街道と、結節点にある六郷を支点としながら荏原郡の八幡神社を調べていきましょう。

 

(1)御田八幡神社(東京都港区三田)

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稗田神社としては敏達天皇二年創始です。三田の地での祭祀が確認できるのは寛弘七年(1011)からです。誉田別命、天之児屋禰命、武内宿禰を祭っています。裏山に古墳時代の古墳の可能性がある亀塚があり、竹芝寺伝説の舞台です。古代にはこの辺りに湊町があったらしいことが更級日記からわかります。嵯峨源氏の渡辺党の尊崇を受けました。

 

(2)高輪神社(東京都港区高輪)

高輪神社は青面金剛を祀った神仏混交の神社だったが明治時代に稲荷神社に衣替え、一村一社令に伴い明治十年に近郷の鵜来の森にあった鵜来八幡を合祀しました。高知県宿毛市の足摺岬に鵜来島があるが、関連は今のところ不明です。

 

(3)磐井神社(東京都大田区大森北)

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敏達天皇二年に創始の伝承を持っており、伝承では貞観元年(859)に武蔵国八幡総社に指定されたとされています。延暦年間に武蔵国司石川豊人(蘇我氏)が持ち込んだ石があります。平安時代までは周囲は海で、磐井神社は東京湾に浮かぶ島だったのではないかと言われています。

誉田別命と共に出雲系の大己貴命を祀っています。先に見たように、石川豊人共に入間から移住した部族が大己貴命を持ち込んだ可能性があります。この一族が御家人の大井氏となりました。ただし大井氏は紀氏を自称しているので、大井氏は大井に住んだ複数の古代豪族が、姻戚関係を結んで合体してできたのではないかと私は推測しています。

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敏達天皇二年創始なので、真実であるとすると荏原郡では最も古い八幡神社です。全国的にも八幡神社としてはかなり古い部類に入ります。

 

(4)稗田神社(薭田神社、東京都大田区蒲田)

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式内社の稗田神社、伝承では和銅二年(709)に行基が神像を刻んで安置したと伝えています。

しかし、この土地には戦前まで古墳があり、縄文時代の遺物も発掘されており、垂仁天皇の時代から聖地であったという伝承を持っています。

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注目すべきは、神社創始の時からあるとされる蒲田井(ほたい)の井戸です。薭というのは蒲の古字です。即ち薭田と蒲田は同じ意味なのです。かつては境内の井戸を薭田井と書いて「ほたい」と読ませていました。やがて薭の字がより簡単な蒲に変わり蒲田井と書かれるようになり、この神社は蒲田神社と呼ばれるようになったそうです。

江戸時代初期に薭田から新宿村が分村してそれが現在の蒲田の町として発展していきました。即ち薭田神社は「蒲田」という地名の語源であるこのです。

では蒲田井(ほたい)とは何なのか?誉田別命を古くから信仰する土地では「ほむた」「ほんだ」「ほった」という読みの地名が残っているので、これは恐らく誉田井だったと考えられます。従って荏原郡の八幡神社としては、実は薭田神社が最古である可能性が高いのです。

御祭神の荒木田襲津彦から、伊勢神宮や葛城氏とのつながりが推測されます。

 

(5)久が原西部八幡神社、久が原東部八幡神社(東京都大田区久が原)

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久が原西部八幡神社

天平神護年間(765)に宇佐八幡を迎えたとされます。東部と西部に分かれたのは、江戸時代に久が原の集落が馬込領(東部)と六郷領(西部)に別けられた際に神社を分祀したからです。

久が原の丘陵地帯には、旧石器時代からの大量の遺跡が発見されていて知る人ぞ知る南関東最大級の石器時代の遺跡群があります。これまでに千軒の竪穴式住居が発掘されており、横穴墓も数十個発見されています。全て同時代ではないものの、常時百人以上の人が居住していたのは確実と思われます。貝塚も多く分布するため、海産物の採集や交易で栄えたのでしょう。

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久が原東部八幡神社

大胆に推測すると、久が原に縄文時代から続く集落があり、その外港が薭田(蒲田)であったと考えられます。そして薭田で久が原の人々と、外部から来た人が接触して荏原郡の八幡信仰が始まったのではないでしょうか。それ古墳時代の頃だとして、それから数百年後の奈良時代になって久が原の人たちも八幡信仰を受け入れたと考えられます。

 

(6)蒲田八幡神社

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慶長年間(1600頃)に薭田村から新宿村が分村しました。その時に薭田神社のご神霊を分祀したのが始まりです。やがて新宿村が蒲田の中心となっていったので、こちらの方が蒲田神社と呼ばれるようになりました。薭田ではなくて蒲田としたのは、元の土地である薭田を憚って文字を変えたのかもしれません。

 

このように、荏原郡の東海道沿いの八幡信仰は、かなり古い伝承を持ちます。そして御田八幡は平安時代の港があり、磐井神社は東京湾の島の上であり、稗田神社も伊勢とのつながりが想定され、海運との強いつながりがあることがわかります。

遺跡の分布からは荏原群沿岸部の古くからの人口の中心は久が原であったはずです。そして磐井や稗田と言った港町で、外部と接触することで八幡信仰が生まれ、やがて内陸部の久が原も八幡信仰を受け入れていったものと思われます。

これとは別に古代の宿場であった大井と大森では、朝廷から送り込まれた官人と、朝廷に忠実な武蔵国造勢力が外来の神様を荏原郡に持ち込みました。磐井神社や大森神社の出雲系の神、天之児屋禰命、品川貴船神社の貴船の神や大森浅間神社の木之花咲夜姫等の外来神を持ち込み、それが荏原郡で一般的であった八幡信仰と習合していったものと思われる。

そして蒲田の語源に八幡信仰が関わっている可能性があることもわかりました。

 

次回は鎌倉街道沿いの、武家の神としての八幡神を見ていきましょう。

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