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2020年11月28日 (土)

誉津別命と誉田別命(系図を追記)

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ダウンロード (前期古墳時代皇室系図)- zenkikofunnkeizu01.pdf

を傍らに開いて読むのが分かりやすいです。

 

実は応神天皇が障碍者であった可能性を示す伝承があります。応神天皇の別名として大鞆和気命があります。これは天皇が生まれた時に、肩が武具(大鞆)のように盛り上がっていたからそういう名がついたのですが、これはおそらくせむしを表しているのではないかと私は思います。

せむしは正面から見ると肩が盛り上がっているようにみえます。

 

さらに応神天皇の神名は誉田別命(ほむたわけのみこと)ですが、この中には「たわけ」という言葉が入っています。たわけの由来の俗説は、田んぼを分割して相続することによって子孫が困窮することですが、誉田別命という神名の中に田別けが含まれています。

とはいえ「たわけ」の本当の語源は、気まぐれであることを意味する「戯く」であるらしいです。であるとしてもやはり「戯け」が神名に入っています。

ほむたわけのみこととは品たわけ命になりますので、とても不敬な呼び名になるはずですが、不思議と誰も問題視していません。「たわけ」という罵り言葉は成立が中世です。私は恐らく誉田別命は白痴であったという伝承があって、そこから「たわけ」という言葉が生まれたのではなかろうかと考えています。白痴を神聖視する風習も古くから世界中にあります。

 

応神天皇の治世の前半は、母親の神功皇后が摂政をしていました。江戸時代までは神功皇后を天皇としてカウントしています。応神天皇は補助が必要な人であったのかもしれません。長い間母親の胎内にいたという伝説は、そのような意味を含んでいるのかもしれません。

 

誉津別命と日本武尊の伝説と組み合わせることで、古代人が神格化していた応神天皇には、身体的、もしくは知能的な障害があった可能性が浮かび上がってきました。古事記の著者も大っぴらには言いにくかったので、後世に伝えるために推理のヒントをちりばめたのでしょう。

 

誉津別命と誉田別命の関係です。この2人は同一人物(神様)と考えられます。ホンジナシが訛ってホデナシと言われるように、ホンヂワケノミコトは、東の方に行くにつれて「ホンズワケノミコト」や「ホンデワケノミコト」と呼ばれるようになるはずです。東国ではジ・ヂ・ズ・ヅの区別がなくなってザ・ダになっていく傾向があるからです。

ホンデワケノミコトを漢字に直すと誉田別命になるでしょう。これはおそらく、坂東における誉津別命の呼び名が誉田別命であり、再び近畿地方へ帰ってきて、別の神様として記録された可能性を示唆します。

障碍者の保護者である誉津別命と、障碍者であり関東地方で支持されていた応神天皇とが同一視されて、誉田別命という新しい神様として河内で定着したという説をここに提示したいです。

2020年11月21日 (土)

古事記に登場する障碍者(系図を追記)

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ダウンロード (前期古墳時代皇室系図)- zenkikofunnkeizu01.pdf

を傍らに開いて読むのが分かりやすいです。

 

障碍者や癩病(ハンセン病)に関する記述が出てきますが、千年以上前の日本の風習を解明しようとしたもので、差別を助長する意図はありません。

 

古事記の垂仁天皇の段は、癩病や障碍者を表すと考えられる描写が出てきます。

 

(1)癩病

まず割合有名な沙本毗古王の叛逆の物語。これは癩病を表す神話と考えられます。垂仁天皇には沙本毗売(さほびめ)という皇后がいました。沙本毗売は日子坐王(ひこにいますのおおきみ)の女子で、垂仁天皇とは従姉妹に当たります。

 

開化天皇ー崇神天皇ー垂仁天皇

開化天皇ー日子坐王ー沙本毗古王・沙本毗売

 

日子坐王は、事績は伝わっていないものの、古事記に詳細な系譜が伝わっている皇族です。非常に強い勢力を持っていたか、もしくは神話上の人物が天皇家の系譜に混ざったと考えられます。

沙本毗古王は妹の沙本毗売に、垂仁天皇の寝首をかいて皇位を奪おうと反乱を呼びかけます。しかし沙本毗売は実行することができなくて垂仁天皇に計画を白状してしまいました。当然のことながら垂仁天皇は沙本毗古王を討伐しようとします。沙本毗売は兄の城に逃げ込みました。その時に沙本毗売は妊娠していました。

皇后をまだ愛していた天皇は、力士に命じて皇后を取り返そうとします。それに対して皇后は捕まらないように、髪を剃ってかつらをかぶり、ネックレスやブレスレッドの紐も腐らせ、服を酒で腐らせました。力士が皇后を捕まえに来ますが、髪を掴もうとするとかつらが落ちて、ネックレスを掴めばちぎれてバラバラになり、服を掴んでも破けて捕まえることができませんでした。

力士は仕方がなく、王子だけを連れて帰りました。やがて沙本毗古王は天皇に誅殺され、皇后も兄に殉じて自害しました。

 

私はこれは癩病を描写しているように思えてなりません。癩病は進行すると頭髪が抜け落ちてしまいます。鼻や指などが崩れ落ちて掴む箇所がなくなります。これを婉曲に表しているのではないでしょうか。

 

皇后は死ぬ前に王子の育て方について指示を出しました。

・御母(乳母)をつける

・大湯坐・若湯坐(王子をお風呂に入れる役、世話係)をつける

・王子の最初の女性として、自分の姪の兄比売・弟比売を指定

ここから、太古の貴族がどのように育てられたかを推測することが可能です。お乳をあげる乳母、幼児から少年期の養育係、そして許嫁が指定されたようです。おそらく許嫁とは一緒に育つのでしょう。兄比売・弟比売が丹波の比古多々須美智の宇斯王(ひこたたすみちのうじのおおきみ)の女と書かれているので、これは丹波の神話であることが分かります。比古多々須美智は四道将軍の一人丹波道主命と同一視されています。丹波の大江山のふもとの宇治には元伊勢があり、天照大神が最初に現れた場所ともいわれています。

 

(2)聾唖

垂仁天皇はこの御子をとても可愛がって育てましたが、御子は話すことができませんでした。鬚が胸まで伸びても話せなかったとあります。大人になっても口がきけなかったということです。

神聖な御子が唖であるというのは世界中にある神話の類型で、日本神話でも素戔嗚尊は大人になっても子供のように泣きわめくだけであったとされていますし、大国主命の子息であるアジスキタカヒコネも大人になっても話すことができなかったとされています。

しかし御子が鵠(くくひ・大きな広い鳥で、白鳥ともコウノトリともいわれる)を見て話すそぶりを見せたため、天皇は山辺大鷹(帝鳥という字、たかと読む)を遣わして、その鵠を捉えさせようとします。山辺大鷹は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、と追いかけていき、ついに越の国で鵠を捉えました。この放浪物語は神話が生まれた地域と、季節によって住処を変える渡り鳥の習性を表していると考えられます。

日本書紀ではこれで話すようになるのですが、古事記では御子はまだ話しません。そこで曙立王の占いによってこれは出雲の神様(しかし大国主命と明示されていない)の祟りであることが分かって、御子は出雲に出向くことになります。

 

(3)あしなえ・盲

曙立王の占いの中で、御子は旅の途中で那良戸と大坂戸にてあしなえ(障害によって自立歩行ができない人)、盲(視覚障碍者)に出会うだろうと言われました。那良戸は奈良市北方の平城山、大坂戸は大和と河内の間にある穴虫峠ではないかと言われています。

御子には大和国師木(磯城)の登美の豊朝倉の曙立王と菟上王を、介添え人に付けました。さてここで登美(長髓彦・櫛玉命)が登場しました。古事記には説明はありませんが気になります。櫛真知命は天香久山の神様で、占いの神様でした。登美は鳥見とも書きます。これもまた鳥を使った占いを表しているのではないかという説があります。餌のついばみ方や、飛んでいく方向から吉兆を占うのです。

さて御子は那良戸・大坂戸など行く先々で品遅部(ほむぢべ)を設置していきました。これが御子を支える部民となります。大胆に推測しますと、この品遅部というのは障碍者を保護する部民だったのではないでしょうか。障碍者を集めて公費で養い、工芸などの仕事をさせたのかもしれません。何故なら沙本毗売の伝説の中で玉造部が登場しているからです。

品・科(しな)というのは古代の大和言葉で「いろいろな種類」という意味です。これを品(ほん)と読む場合は身分を表します。遅には鈍重という意味があります。語弊はありますが、わたしにはこの「品遅」という言葉は身体や知能に障碍がある人を表しているように思えます。そしてこの御子は本牟智和気命(誉津別命・ほむちわけのみこと)と名乗るようになります。尾張国風土記(逸文)はでは品津別皇子と記述されています。

 

(4)皮膚病

御子は出雲の肥川(斐伊川)に至って肥長比売と仲良くなって結婚します。しかし肥長比売の真の姿が蛇だったので、御子は恐れて一目散に船で大和に帰りました。出雲の神を礼拝したので御子は話すことができるようになりました。

大物主命の真の姿は蛇と言われているので、肥長比売はその眷属であったと思われます。

しかしこれもまた何らかの障害、皮膚病を表している可能性もあります。

 

以上のように、沙本毗売とその御子の誉津別命の物語は、直接間接に障碍者のことを表していることは間違いありません。やはり古代にも障碍者は苦労を強いられたようですが、救いなのはそこには障碍者を忌避するような感情が込められていないことです。垂仁天皇は癩病を発病した皇后を取り返そうとしますし、口がきけなかった、もしくは知能に障碍があったと思われる誉津別命を可愛がっています。そして品遅部は古代の福祉事業である可能性もあります。

 

(5)弟橘姫

垂仁天皇の段はこの後唐突に日本武尊の后である弟橘姫に繋がる話が入って終わっています。これもミステリアスです。

 

垂仁天皇は四人の姫君を娶ります。美知能宇斯王の娘(先に出た丹波道主命)の比婆須比売・弟比売命・歌凝比売・円野比売です。しかし歌凝比売・円野比売は不美人であったために実家に帰してしまいました。円野比売は弟国(山城国乙訓郡)で身投げして死んでしまいました。

 

そして垂仁天皇は多遅摩毛理(たじまもり)を常世の国に派遣して、ときじくのかくの木の実を探させました。これは橘のことで、柑橘類を指すと言われています。倭姫の物語では、天照大神が伊勢国を「常世からの波が寄せる国」と表現していますので、常世は東にあることが分かります。多遅摩毛理は東国へ出かけたようです。

 

弟と橘を合体させると弟橘姫になります。

 

垂仁天皇の次が景行天皇で、古事記は日本武尊の物語へと移っていきます。誉津別命の物語は北陸道と山陰道の物語でした、日本武尊の物語は、東山道・東海道の物語です。日本武尊の孫が誉田別命(八幡神・応神天皇)です。誉津別命と名前が似ています。田(狩猟・農業)と津(漁業・運輸業)で対応しているようにも思えます。そうえば、日本武尊も、最後は伊吹山の神様の祟りによって、足が弱って死んでしまいます。これは鉱山や冶金業に従事する人たちの中毒症を表しているのではないかという説もあります。

2020年11月14日 (土)

誉津別命とホンジナシ(系図を追記)

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「日本あほバカ分布考」を読んだことがある人なら覚えていると思いますが、バカよりももっと古い愚か者を表す言葉として「ホンジナシ」があります。

ホンジナシは東北地方で使われる言葉で、愚か者、正体を失うほど酔っ払う、でたらめな奴と言った意味で使用されます。ホジナシ、ホデナシともいうそうです。

通常漢字には本地無しを当てます。本地とは仏教用語で、悟る土台となる慈悲の心を言います。菩提心のことです。本地垂迹という日本独特の神仏混合の信仰に出てくる用語です。如来や菩薩の心である本地が、日本の土地に浸み渡って(垂迹して)、日本の神様として現れるという信仰です。

 

この本地はもしかしたら仏教がやってくるよりも前から日本にある言葉なのかもしれません。古事記の垂仁天皇の段に誉津別命(ほむちわけのみこと・本牟智和気命)の伝説があります。命は垂仁天皇の第一王子でした。皇位継承者ではなかったのですが垂仁天皇から可愛がられていたそうです。

詳細は来週触れるとして、誉津別命の伝説に、命が品遅部(ほむぢべ)を設置したとありました。仏教が伝来するよりも前に品遅(ほむぢ)という言葉があった証拠です。ほむぢとほんぢは同じです。古代には「ん」を表す仮名はありませんでしたので「ん」音は「む」で表記されました。ほむぢと訓がふってあれば「ほんぢ」と読みます。

ヂとジの違いという問題が残りますが、東北地方では古くからヂとジが区別されなくなるという傾向がありますので、ほむぢがほむじとなっていても怪しむには当たりません。

では誉津別命の「別」とは何でしょうか。これは「特別である」「すぐれている」ことを意味する言葉です。賀茂別雷命(京都上賀茂神社の神様)というように、神様の名前についています。誉津別命は「ほむぢ」が「すぐれている」神様ということになります。

 

本地という仏教用語が漢訳仏典由来なのか、日本人が生み出した用語なのか私は確認が取れていません。私が読んだ限りでは本地という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代の僧侶の無住が書いた「沙石集」です。本地垂迹説の説明で出てきます。それ以前の仏典では菩提心は「正体」「本体」と表現されていた記憶があります。

本地という言葉は、既にあった神道の品遅という用語を仏教の説明に当てはめたのではないかと私は考えています。すなわち、古事記の神話の時代から慈悲深い心、他人を思いやる心を品遅(ほむぢ)と表したのではないでしょうか。

誉津別命の神話では、あしなえ・盲と出会った場所に品遅部を設置しています。つまり何らかの福祉事業と考えるのが自然です。自立が難しい人たちの助ける部民ですから、慈悲深い事業ということで品遅部と呼ばれたのではないでしょうか。そして誉津別命は特別にほむぢが強い人(神様?)だったのでしょう。

 

ほむぢが仏教伝来よりも前から慈悲深い心を意味する日本語であったとすると、ホンジナシも説明が付きます。道理をわきまえない、無軌道な奴、乱暴者ということになります。現在の東北地方のホンジナシという言葉の用法に合致します。上方の「あほ」という言葉には「可愛げのあるやつ」というニュアンスがあるのですが、ホンジナシは「迷惑な困り者」というニュアンスがあります。これはほむぢが共同体が助け合って生きていく上で不可欠な心掛けであって、ほむぢが欠けている人間は迷惑な困り者だという意味なのでしょう。

 

ほむぢの本来の意味ですが、ほむは品であり、これはクラスや階層を表す言葉です。ぢは「地が出る」とういように本性と言う意味で使われます。現代風に言うとほむぢは心のレベルという意味になるでしょう。

ほむちわけは心のレベルがとても高い慈悲深い人で、ほむぢなしは、心にレベルがないゲスなやつという意味になります。

 

おそらくこのほむぢ(品遅・本地)こそが、聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と宣言した、日本人の心がよって立つ土台ではないのでしょうか。

 

追記

品を「ほむ」と読むのは音読みで、地を「じ・ぢ」と読むのも音読みなのでこの解釈は外れているかもしれません。ただし「地」に関しては、古代の中国と日本で同じように「ち」という音で表したのではないかという説もあるようです。日本語でも「土」(つち)と言いますからね。

そこでこういうのを考えてみました。

「ち」という音は大和言葉では魂とか風とか精神を表すという説があります。神霊の名前の語尾には「ち」という音が入っています。大己貴命(おほなむち)、八岐大蛇(やまたのおろち)、火之迦具土神(ひのかぐづち)、武御雷命(たけみかづち)、

「ち」とは血、乳を表します。命の源となる物質です。命にも「ち」は含まれます。(父は古代にはF音だったという説があるのでちょっと外しておきます)

「ち」にはたくさんの細かい物という意味もあります。千歳(ちとせ)、千々に乱れる(ちぢ)、君が代は千代に八千代にというように、「ち」には永遠というありがたい意味もあるようです。

「ち」には方向や道という意味もあります。東風(こち)、大和路(やまとじ)、都大路(みやこおおじ)

神霊にしても命の源にしても道にしても、目に見えない何かです。このように大和言葉の「ち」には目に見えない概念を表す意味があると言えます。

 

「ほむ」はわかりやすくて、日本書紀でホムチワケノミコトを誉津別命、ホムタワケノミコトを誉田別命と記しているように「ほむ」誉める、という意味でしょう。

 

であるとすると「ほむち」は褒めるべき魂ということになります。人のことを思う慈悲の心を古代の大和言葉で「ほむち」と表したという推測はむしろ強化されたと言えます。

2020年11月 7日 (土)

荏原郡の八幡神社(鎌倉街道沿い) 地図を追記

それでは次に鎌倉街道沿いの八幡神社を見ていきましょう。

ダウンロード(荏原郡八幡神社マップ) - ebarahachimanmap.pdf

 

(7)六郷神社(東京都大田区六郷)

鎌倉から海岸沿いに東に向かうと、六郷で多摩川を渡河することになります。

南西側に大きく湾曲して流れる多摩川に三方囲まれた地域が六郷にあたります。この土地は古くから開けていて、平安時代には六郷保として名前が出てきます。海岸沿いの低地であるにもかかわらず、石器時代の遺跡も多いです。

Rokugo01

神社に残る伝承によると、天喜五年(1057)に奥州安倍氏討伐に向かった源頼義・義家父子が、六郷の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡宮に祈ったところ、士気が大いに上がり、前九年の役に勝利したため、石清水八幡宮を分祀して祀ったのが始まりとされています。

これにあやかり、源頼朝も文治五年(1189)奥州藤原氏征討の折にも戦勝を祈願し、建久二年(1191)に梶原景時に命じて社殿を造営させました。

江戸時代には東海道が多摩川を渡る渡し場が置かれて大いに栄えたのでした。

Rokugo02 Rokugo03

六郷神社の狛犬。江戸時代前期で狛犬としてはかなり古いです。表情がどことなくユーモラスですね。

 

(8)若宮八幡宮(東京都大田区東矢口)

鶴岡八幡宮を分祀したと伝えられます。

Wakamiya

 

(9)徳持神社(東京都大田区池上)

建長年間(1250頃)に豊前の宇佐八幡宮を分祀しこの地域の守り神としました。もとは御旗山八幡宮と呼ばれていました。池上本門寺で有名な御家人の池上氏は最初はここよりも呑川上流の洗足池が本拠地でした。それが日蓮が死去した1280頃には呑川下流の現在の池上を所領としていたので、徳持神社の創建は池上氏の多摩川進出と関連があるのかもしれない。

Tokumochi

 

(10)鵜木八幡(東京都大田区久が原)

延徳元年(1489)に下野国から移住した天明伊賀守光信の子、天明五郎衛門光虎が一族の守り神として屋敷に祀ったのが創始です。しかし延喜式に記録された薭田神社とする説もあります。

ここは天平神護に創始された伝承を持つ久が原八幡のすぐ近くであるので、天明一族が入ってくる以前から八幡神が信仰されていた可能性は十分にあるでしょう。

Unoki

 

(11)雪谷八幡神社(東京都大田区雪谷)

永禄年中(1560頃)に北条氏康の臣である太田新六郎(太田道灌の息子)が管内巡検の折に法華経曼荼羅の古碑を発掘して、それを奇瑞として八幡神社を祀ったとされます。誕生神社などこの付近には太田道灌関連の説話が点々と残ります。雪谷八幡宮は加藤清正も祀っているので、法華宗との強いつながりが伺われます。

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(12)千束八幡神社(東京都大田区南千束、洗足池八幡)

貞観二年(860)に豊前の宇佐八幡宮を分祀したと伝わります。鎌倉街道沿いの八幡神社としては最も古いです。

池上家の伝承では、承平五年に平将門が反乱を起こし平忠方が鎮守府将軍として鎮圧に派遣されました(史実としては確認ができない)。

その平忠方がこの地に土着して子孫が池上氏を称したとしています。池上とは洗足池のほとりの意味です。

洗足池は、名馬池月の故郷です。伝説はこうです。旗揚げした源頼朝が房総から鎌倉に入る前にこの地に宿営し、陣中に迷い込んだ野生の馬を自分の馬とした、これが名馬池月です。頼朝は池月を腹心の佐々木高綱に与えました。佐々木高綱は池月に乗って宇治川の先陣争いに勝って大いに名を挙げました。

この伝説がある程度事実であるとすると、池上氏は趣向を凝らして自慢の馬を源頼朝に献上したと考えられます。頼朝はそれを腹心の佐々木高綱に与えました。背中の白いブチが洗足池に浮かぶ月のようだったので池月と呼ばれました。

宇治川の先陣争いとは、鎌倉を発した木曽義仲討伐軍が宇治川を渡る際に、佐々木高綱と梶原景季が、向こう岸に渡る一番乗りを争ったという伝説です。渡河は危険なので、一番乗りは勇者としてたたえられました。両者ともに評判の名馬に乗っていました。

宇治川の先陣争いのもう一方の主役梶原景季が乗った名馬磨澄(するすみ)は、洗足池から東に2㎞ほどの馬込牧出身の馬。これも池月同様に、源頼朝から与えられた馬でした。炭のように青黒い毛並みが自慢でした。やはり荏原の馬込生まれの馬です。馬込には、文字通り馬の牧場があったのでした。

梶原景季は梶原景時の長男。先に見たように梶原景時は大森に屋敷を持ち、六郷神社を再建しています。宇治川の先陣争いは、荏原郡西部を支配した池上氏と、荏原群東部を支配した梶原氏が、多摩川進出を巡って張り合っていたことが透けて見える逸話です。馬の生産者としても両家はライバルであったのかもしれません。

宇治川の先陣争いでは佐々木高綱は真っ直ぐ渡河できたが、梶原影季は下流に流されました。勝負は佐々木高綱の勝利に終わりました。池月は洗足池のほとりで育ったので、水に慣れていたのかもしれません。磨澄は馬込の丘で育ったので、川に慣れていなかったのかもしれませんね。

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千束神社。洗足池のほとりにある。近くには勇躍する池月の銅像があります。

梶原景時は正治二年(1200)に北条義時によって滅亡させられています。その50年後には池上氏が多摩川沿いの徳持にまで進出しました。梶原氏の弱体化と、池上氏の多摩川進出には関連がありそうです。

 

(13)旗岡八幡神社(東京都品川区旗の台)

長元三年(1030)、平忠常を討伐するために関東に派遣された甲斐守源頼信が軍勢と共にこの丘に宿営し、霊威を感得して八幡大伸に祈ったのが始まりとされます。高台に源氏の白旗をたなびかせて武威を誇ったことから旗の台と呼ばれました。この後に平忠常は戦わずして頼信に降伏し、源氏の勇名は大いに高まったのです。

源頼信は源満仲の三男です。前九年の役に勝利した鎮守府将軍頼義の父親であり、八幡太郎義家の祖父に当たります。平忠常討伐は、多田源氏が関東進出の足掛かりをつかんだ重要な戦争でした。旗岡八幡が荏原郡と多田源氏のつながりを表す伝説の中では最も古いです。

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この伝承は、この地に土着した源氏の庶流荏原氏によって伝えられました。荏原義宗は鎌倉時代中期に旗岡神社を再興しています。義宗の次男が朗慶でやはり日蓮の弟子で旗岡八幡宮の境内に法連寺を建立しています。荏原郡内陸部の開発に、日蓮宗が深くかかわっていることが推測できます。

旗岡八幡宮の祭礼は荏原郡内では最大級です。

 

(14)小山八幡神社(東京都品川区荏原)

長元三年(1030)に源頼信がこの地に八幡神社を祀ったと伝わります。丘の上に立っているが、古墳という説もある。江戸時代には妙見信仰が主であったらしく、妙見八幡と呼ばれていました。

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(15)三谷八幡神社(東京都品川区小山)

元禄時代に小山八幡神社から分離しました。

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(16)碑文谷八幡神社(東京都目黒区碑文谷)

鎌倉時代草創期の名将畠山重忠の家臣榛沢六郎が、重忠が北条氏に騙し討ちされたときに、重忠が大事にしていた神像を持って逃げてこの地に神社を建てたという伝承があります。室町時代の民間信仰を記録した石碑があり、社名の由来となっています。参道がとても長い神社です。恐らく二十三区内では靖国神社と明治神宮を除けば一番長いのではないかと思われます。杉並の大宮八幡宮と比べても遜色のない長さです。

 

(17)誕生八幡神社(東京都品川区上大崎)

太田道灌が夫人の懐妊を祝い、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと言われています。無事男児が生まれたので安産の神様とされました。

 

(18)戸越八幡神社(東京都品川区戸越)

大永六年(1526)、清水が湧きだしたので、石清水八幡宮を分祀したのが始まりとされています。

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凝ったご朱印がもらえます。毎月デザインが変わりますので、ご朱印好きな人はどうぞ。

 

(19)奥沢神社(東京都世田谷区奥沢)

室町時代に、吉良氏の家臣大平氏が奥沢上の守り神として勧請したと言われる。

まだまだ荏原郡には武家関連の八幡神社が無数にあります。いずれも武家とつながりが深く、典型的な武蔵国の八幡神社と言った体です。

源氏と荏原郡のつながりの起源は旗岡神社と六郷神社にあります。源氏が戦勝を祈願して丘の上に白旗を立てたという伝説です。そして源頼朝は、父祖の伝説を積極的に利用しました。

  • 源頼信―旗岡・小山ー平忠常討伐
  • 源頼義ー六郷ー奥州安倍氏討伐

御家人たちも伝説を使って、頼朝に自分の力をアピールしていたようです。荏原氏は小野氏であるという説もあり、源氏の白旗伝説に合わせて系譜を変えた可能性すらあります。

  • 池上氏ー千束八幡ー名馬池月
  • 梶原氏ー六郷神社・馬込八幡ー名馬磨澄
  • 荏原氏ー旗岡神社

 

従来は多田源氏が荏原郡に八幡信仰を持ち込んだとされてきましたが、先に見たように荏原郡には古代から八幡信仰がありました。多田源氏は河内に本拠地があります。河内には応神天皇陵があり、誉田別命が祀られています。私は恐らく源氏は、武蔵国に進出するにあたって、意図的に自らと誉田別命を重ね合わせるようなプロパガンダを広めたのではないかと考えています。

それが旗の台や六郷で行ったという白旗を掲げるアピールなのでしょう。八幡というのは「たくさんの旗」という意味です。八幡信仰が根付いた土地で、聖なる丘の上で旗を掲げる行為は、土地の者たちに眼には鮮烈だったのではないでしょうか。それは見事に成功したようです。

源氏は八幡信仰を足掛かりにして武蔵国に地歩を築いて、奥州進出を進めたのでした。

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