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2020年11月 7日 (土)

荏原郡の八幡神社(鎌倉街道沿い) 地図を追記

それでは次に鎌倉街道沿いの八幡神社を見ていきましょう。

ダウンロード(荏原郡八幡神社マップ) - ebarahachimanmap.pdf

 

(7)六郷神社(東京都大田区六郷)

鎌倉から海岸沿いに東に向かうと、六郷で多摩川を渡河することになります。

南西側に大きく湾曲して流れる多摩川に三方囲まれた地域が六郷にあたります。この土地は古くから開けていて、平安時代には六郷保として名前が出てきます。海岸沿いの低地であるにもかかわらず、石器時代の遺跡も多いです。

Rokugo01

神社に残る伝承によると、天喜五年(1057)に奥州安倍氏討伐に向かった源頼義・義家父子が、六郷の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡宮に祈ったところ、士気が大いに上がり、前九年の役に勝利したため、石清水八幡宮を分祀して祀ったのが始まりとされています。

これにあやかり、源頼朝も文治五年(1189)奥州藤原氏征討の折にも戦勝を祈願し、建久二年(1191)に梶原景時に命じて社殿を造営させました。

江戸時代には東海道が多摩川を渡る渡し場が置かれて大いに栄えたのでした。

Rokugo02 Rokugo03

六郷神社の狛犬。江戸時代前期で狛犬としてはかなり古いです。表情がどことなくユーモラスですね。

 

(8)若宮八幡宮(東京都大田区東矢口)

鶴岡八幡宮を分祀したと伝えられます。

Wakamiya

 

(9)徳持神社(東京都大田区池上)

建長年間(1250頃)に豊前の宇佐八幡宮を分祀しこの地域の守り神としました。もとは御旗山八幡宮と呼ばれていました。池上本門寺で有名な御家人の池上氏は最初はここよりも呑川上流の洗足池が本拠地でした。それが日蓮が死去した1280頃には呑川下流の現在の池上を所領としていたので、徳持神社の創建は池上氏の多摩川進出と関連があるのかもしれない。

Tokumochi

 

(10)鵜木八幡(東京都大田区久が原)

延徳元年(1489)に下野国から移住した天明伊賀守光信の子、天明五郎衛門光虎が一族の守り神として屋敷に祀ったのが創始です。しかし延喜式に記録された薭田神社とする説もあります。

ここは天平神護に創始された伝承を持つ久が原八幡のすぐ近くであるので、天明一族が入ってくる以前から八幡神が信仰されていた可能性は十分にあるでしょう。

Unoki

 

(11)雪谷八幡神社(東京都大田区雪谷)

永禄年中(1560頃)に北条氏康の臣である太田新六郎(太田道灌の息子)が管内巡検の折に法華経曼荼羅の古碑を発掘して、それを奇瑞として八幡神社を祀ったとされます。誕生神社などこの付近には太田道灌関連の説話が点々と残ります。雪谷八幡宮は加藤清正も祀っているので、法華宗との強いつながりが伺われます。

Yukigaya01

 

(12)千束八幡神社(東京都大田区南千束、洗足池八幡)

貞観二年(860)に豊前の宇佐八幡宮を分祀したと伝わります。鎌倉街道沿いの八幡神社としては最も古いです。

池上家の伝承では、承平五年に平将門が反乱を起こし平忠方が鎮守府将軍として鎮圧に派遣されました(史実としては確認ができない)。

その平忠方がこの地に土着して子孫が池上氏を称したとしています。池上とは洗足池のほとりの意味です。

洗足池は、名馬池月の故郷です。伝説はこうです。旗揚げした源頼朝が房総から鎌倉に入る前にこの地に宿営し、陣中に迷い込んだ野生の馬を自分の馬とした、これが名馬池月です。頼朝は池月を腹心の佐々木高綱に与えました。佐々木高綱は池月に乗って宇治川の先陣争いに勝って大いに名を挙げました。

この伝説がある程度事実であるとすると、池上氏は趣向を凝らして自慢の馬を源頼朝に献上したと考えられます。頼朝はそれを腹心の佐々木高綱に与えました。背中の白いブチが洗足池に浮かぶ月のようだったので池月と呼ばれました。

宇治川の先陣争いとは、鎌倉を発した木曽義仲討伐軍が宇治川を渡る際に、佐々木高綱と梶原景季が、向こう岸に渡る一番乗りを争ったという伝説です。渡河は危険なので、一番乗りは勇者としてたたえられました。両者ともに評判の名馬に乗っていました。

宇治川の先陣争いのもう一方の主役梶原景季が乗った名馬磨澄(するすみ)は、洗足池から東に2㎞ほどの馬込牧出身の馬。これも池月同様に、源頼朝から与えられた馬でした。炭のように青黒い毛並みが自慢でした。やはり荏原の馬込生まれの馬です。馬込には、文字通り馬の牧場があったのでした。

梶原景季は梶原景時の長男。先に見たように梶原景時は大森に屋敷を持ち、六郷神社を再建しています。宇治川の先陣争いは、荏原郡西部を支配した池上氏と、荏原群東部を支配した梶原氏が、多摩川進出を巡って張り合っていたことが透けて見える逸話です。馬の生産者としても両家はライバルであったのかもしれません。

宇治川の先陣争いでは佐々木高綱は真っ直ぐ渡河できたが、梶原影季は下流に流されました。勝負は佐々木高綱の勝利に終わりました。池月は洗足池のほとりで育ったので、水に慣れていたのかもしれません。磨澄は馬込の丘で育ったので、川に慣れていなかったのかもしれませんね。

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千束神社。洗足池のほとりにある。近くには勇躍する池月の銅像があります。

梶原景時は正治二年(1200)に北条義時によって滅亡させられています。その50年後には池上氏が多摩川沿いの徳持にまで進出しました。梶原氏の弱体化と、池上氏の多摩川進出には関連がありそうです。

 

(13)旗岡八幡神社(東京都品川区旗の台)

長元三年(1030)、平忠常を討伐するために関東に派遣された甲斐守源頼信が軍勢と共にこの丘に宿営し、霊威を感得して八幡大伸に祈ったのが始まりとされます。高台に源氏の白旗をたなびかせて武威を誇ったことから旗の台と呼ばれました。この後に平忠常は戦わずして頼信に降伏し、源氏の勇名は大いに高まったのです。

源頼信は源満仲の三男です。前九年の役に勝利した鎮守府将軍頼義の父親であり、八幡太郎義家の祖父に当たります。平忠常討伐は、多田源氏が関東進出の足掛かりをつかんだ重要な戦争でした。旗岡八幡が荏原郡と多田源氏のつながりを表す伝説の中では最も古いです。

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この伝承は、この地に土着した源氏の庶流荏原氏によって伝えられました。荏原義宗は鎌倉時代中期に旗岡神社を再興しています。義宗の次男が朗慶でやはり日蓮の弟子で旗岡八幡宮の境内に法連寺を建立しています。荏原郡内陸部の開発に、日蓮宗が深くかかわっていることが推測できます。

旗岡八幡宮の祭礼は荏原郡内では最大級です。

 

(14)小山八幡神社(東京都品川区荏原)

長元三年(1030)に源頼信がこの地に八幡神社を祀ったと伝わります。丘の上に立っているが、古墳という説もある。江戸時代には妙見信仰が主であったらしく、妙見八幡と呼ばれていました。

Koyama

 

(15)三谷八幡神社(東京都品川区小山)

元禄時代に小山八幡神社から分離しました。

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(16)碑文谷八幡神社(東京都目黒区碑文谷)

鎌倉時代草創期の名将畠山重忠の家臣榛沢六郎が、重忠が北条氏に騙し討ちされたときに、重忠が大事にしていた神像を持って逃げてこの地に神社を建てたという伝承があります。室町時代の民間信仰を記録した石碑があり、社名の由来となっています。参道がとても長い神社です。恐らく二十三区内では靖国神社と明治神宮を除けば一番長いのではないかと思われます。杉並の大宮八幡宮と比べても遜色のない長さです。

 

(17)誕生八幡神社(東京都品川区上大崎)

太田道灌が夫人の懐妊を祝い、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと言われています。無事男児が生まれたので安産の神様とされました。

 

(18)戸越八幡神社(東京都品川区戸越)

大永六年(1526)、清水が湧きだしたので、石清水八幡宮を分祀したのが始まりとされています。

Togoshi01

凝ったご朱印がもらえます。毎月デザインが変わりますので、ご朱印好きな人はどうぞ。

 

(19)奥沢神社(東京都世田谷区奥沢)

室町時代に、吉良氏の家臣大平氏が奥沢上の守り神として勧請したと言われる。

まだまだ荏原郡には武家関連の八幡神社が無数にあります。いずれも武家とつながりが深く、典型的な武蔵国の八幡神社と言った体です。

源氏と荏原郡のつながりの起源は旗岡神社と六郷神社にあります。源氏が戦勝を祈願して丘の上に白旗を立てたという伝説です。そして源頼朝は、父祖の伝説を積極的に利用しました。

  • 源頼信―旗岡・小山ー平忠常討伐
  • 源頼義ー六郷ー奥州安倍氏討伐

御家人たちも伝説を使って、頼朝に自分の力をアピールしていたようです。荏原氏は小野氏であるという説もあり、源氏の白旗伝説に合わせて系譜を変えた可能性すらあります。

  • 池上氏ー千束八幡ー名馬池月
  • 梶原氏ー六郷神社・馬込八幡ー名馬磨澄
  • 荏原氏ー旗岡神社

 

従来は多田源氏が荏原郡に八幡信仰を持ち込んだとされてきましたが、先に見たように荏原郡には古代から八幡信仰がありました。多田源氏は河内に本拠地があります。河内には応神天皇陵があり、誉田別命が祀られています。私は恐らく源氏は、武蔵国に進出するにあたって、意図的に自らと誉田別命を重ね合わせるようなプロパガンダを広めたのではないかと考えています。

それが旗の台や六郷で行ったという白旗を掲げるアピールなのでしょう。八幡というのは「たくさんの旗」という意味です。八幡信仰が根付いた土地で、聖なる丘の上で旗を掲げる行為は、土地の者たちに眼には鮮烈だったのではないでしょうか。それは見事に成功したようです。

源氏は八幡信仰を足掛かりにして武蔵国に地歩を築いて、奥州進出を進めたのでした。

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コメント

こんにちは。八幡信仰について楽しく読ませていただきました。
ところで既にご承知のことかもしれませんが、来年の大河ドラマは「鎌倉殿の十三人」でしたね。
https://news.goo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/sponichi-spngoo-20201122-0154.html
三谷幸喜がどのように描くかという点に興味が湧きました。
もしご覧になる機会があればどのようにお感じになったか、お聞かせ願えると嬉しいです。
順番前後しますが「ほむ」や「障碍」についても興味深く拝読しました。

バッタ男さん初めまして。

この地域に住むようになって八幡信仰の古さに驚きました。そして、近畿からの移植という観点でしか、武蔵国の八幡信仰を説明しない従来の解釈に疑問を持ちました。

どうも戦前のごく数人の学者が下した判断がいまだに武蔵国の郷土史に対して尾を引いているようです。徳川氏入部前の武蔵国の研究がもっと進むことを願ってやみません。

再来年の大河ドラマの脚本は三谷幸喜さんなんですね。「真田丸」と「清須会議」は面白かったので期待しています。

両方とも現代劇仕立てでしたが、事実関係、人間関係は歴史学の成果をよく反映していると私は思いました。頼朝を取り巻く複雑な人間関係をどのように描くのか楽しみです。

「清須会議」は後に続くかのような終わらせ方でしたが、小牧長久手の戦いから大阪城謁見までの豊臣秀吉と徳川家康のばかしあい(交渉)も、いつか描いてほしいと思っています。小牧長久手の戦いというのは、政治交渉の一部として戦闘が推移するので、三谷さんの現代的視点で描くことができれば、きっと面白いと思うのですよね。

ホムチワケノミコトについても、よろしければ感想をお聞かせください。

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