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2020年11月14日 (土)

誉津別命とホンジナシ(系図を追記)

このエントリーは

ダウンロード (前期古墳時代皇室系図)- zenkikofunnkeizu01.pdf

を傍らに開いて読むのが分かりやすいです。

 

「日本あほバカ分布考」を読んだことがある人なら覚えていると思いますが、バカよりももっと古い愚か者を表す言葉として「ホンジナシ」があります。

ホンジナシは東北地方で使われる言葉で、愚か者、正体を失うほど酔っ払う、でたらめな奴と言った意味で使用されます。ホジナシ、ホデナシともいうそうです。

通常漢字には本地無しを当てます。本地とは仏教用語で、悟る土台となる慈悲の心を言います。菩提心のことです。本地垂迹という日本独特の神仏混合の信仰に出てくる用語です。如来や菩薩の心である本地が、日本の土地に浸み渡って(垂迹して)、日本の神様として現れるという信仰です。

 

この本地はもしかしたら仏教がやってくるよりも前から日本にある言葉なのかもしれません。古事記の垂仁天皇の段に誉津別命(ほむちわけのみこと・本牟智和気命)の伝説があります。命は垂仁天皇の第一王子でした。皇位継承者ではなかったのですが垂仁天皇から可愛がられていたそうです。

詳細は来週触れるとして、誉津別命の伝説に、命が品遅部(ほむぢべ)を設置したとありました。仏教が伝来するよりも前に品遅(ほむぢ)という言葉があった証拠です。ほむぢとほんぢは同じです。古代には「ん」を表す仮名はありませんでしたので「ん」音は「む」で表記されました。ほむぢと訓がふってあれば「ほんぢ」と読みます。

ヂとジの違いという問題が残りますが、東北地方では古くからヂとジが区別されなくなるという傾向がありますので、ほむぢがほむじとなっていても怪しむには当たりません。

では誉津別命の「別」とは何でしょうか。これは「特別である」「すぐれている」ことを意味する言葉です。賀茂別雷命(京都上賀茂神社の神様)というように、神様の名前についています。誉津別命は「ほむぢ」が「すぐれている」神様ということになります。

 

本地という仏教用語が漢訳仏典由来なのか、日本人が生み出した用語なのか私は確認が取れていません。私が読んだ限りでは本地という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代の僧侶の無住が書いた「沙石集」です。本地垂迹説の説明で出てきます。それ以前の仏典では菩提心は「正体」「本体」と表現されていた記憶があります。

本地という言葉は、既にあった神道の品遅という用語を仏教の説明に当てはめたのではないかと私は考えています。すなわち、古事記の神話の時代から慈悲深い心、他人を思いやる心を品遅(ほむぢ)と表したのではないでしょうか。

誉津別命の神話では、あしなえ・盲と出会った場所に品遅部を設置しています。つまり何らかの福祉事業と考えるのが自然です。自立が難しい人たちの助ける部民ですから、慈悲深い事業ということで品遅部と呼ばれたのではないでしょうか。そして誉津別命は特別にほむぢが強い人(神様?)だったのでしょう。

 

ほむぢが仏教伝来よりも前から慈悲深い心を意味する日本語であったとすると、ホンジナシも説明が付きます。道理をわきまえない、無軌道な奴、乱暴者ということになります。現在の東北地方のホンジナシという言葉の用法に合致します。上方の「あほ」という言葉には「可愛げのあるやつ」というニュアンスがあるのですが、ホンジナシは「迷惑な困り者」というニュアンスがあります。これはほむぢが共同体が助け合って生きていく上で不可欠な心掛けであって、ほむぢが欠けている人間は迷惑な困り者だという意味なのでしょう。

 

ほむぢの本来の意味ですが、ほむは品であり、これはクラスや階層を表す言葉です。ぢは「地が出る」とういように本性と言う意味で使われます。現代風に言うとほむぢは心のレベルという意味になるでしょう。

ほむちわけは心のレベルがとても高い慈悲深い人で、ほむぢなしは、心にレベルがないゲスなやつという意味になります。

 

おそらくこのほむぢ(品遅・本地)こそが、聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と宣言した、日本人の心がよって立つ土台ではないのでしょうか。

 

追記

品を「ほむ」と読むのは音読みで、地を「じ・ぢ」と読むのも音読みなのでこの解釈は外れているかもしれません。ただし「地」に関しては、古代の中国と日本で同じように「ち」という音で表したのではないかという説もあるようです。日本語でも「土」(つち)と言いますからね。

そこでこういうのを考えてみました。

「ち」という音は大和言葉では魂とか風とか精神を表すという説があります。神霊の名前の語尾には「ち」という音が入っています。大己貴命(おほなむち)、八岐大蛇(やまたのおろち)、火之迦具土神(ひのかぐづち)、武御雷命(たけみかづち)、

「ち」とは血、乳を表します。命の源となる物質です。命にも「ち」は含まれます。(父は古代にはF音だったという説があるのでちょっと外しておきます)

「ち」にはたくさんの細かい物という意味もあります。千歳(ちとせ)、千々に乱れる(ちぢ)、君が代は千代に八千代にというように、「ち」には永遠というありがたい意味もあるようです。

「ち」には方向や道という意味もあります。東風(こち)、大和路(やまとじ)、都大路(みやこおおじ)

神霊にしても命の源にしても道にしても、目に見えない何かです。このように大和言葉の「ち」には目に見えない概念を表す意味があると言えます。

 

「ほむ」はわかりやすくて、日本書紀でホムチワケノミコトを誉津別命、ホムタワケノミコトを誉田別命と記しているように「ほむ」誉める、という意味でしょう。

 

であるとすると「ほむち」は褒めるべき魂ということになります。人のことを思う慈悲の心を古代の大和言葉で「ほむち」と表したという推測はむしろ強化されたと言えます。

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