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2020年11月21日 (土)

古事記に登場する障碍者(系図を追記)

このエントリーは

ダウンロード (前期古墳時代皇室系図)- zenkikofunnkeizu01.pdf

を傍らに開いて読むのが分かりやすいです。

 

障碍者や癩病(ハンセン病)に関する記述が出てきますが、千年以上前の日本の風習を解明しようとしたもので、差別を助長する意図はありません。

 

古事記の垂仁天皇の段は、癩病や障碍者を表すと考えられる描写が出てきます。

 

(1)癩病

まず割合有名な沙本毗古王の叛逆の物語。これは癩病を表す神話と考えられます。垂仁天皇には沙本毗売(さほびめ)という皇后がいました。沙本毗売は日子坐王(ひこにいますのおおきみ)の女子で、垂仁天皇とは従姉妹に当たります。

 

開化天皇ー崇神天皇ー垂仁天皇

開化天皇ー日子坐王ー沙本毗古王・沙本毗売

 

日子坐王は、事績は伝わっていないものの、古事記に詳細な系譜が伝わっている皇族です。非常に強い勢力を持っていたか、もしくは神話上の人物が天皇家の系譜に混ざったと考えられます。

沙本毗古王は妹の沙本毗売に、垂仁天皇の寝首をかいて皇位を奪おうと反乱を呼びかけます。しかし沙本毗売は実行することができなくて垂仁天皇に計画を白状してしまいました。当然のことながら垂仁天皇は沙本毗古王を討伐しようとします。沙本毗売は兄の城に逃げ込みました。その時に沙本毗売は妊娠していました。

皇后をまだ愛していた天皇は、力士に命じて皇后を取り返そうとします。それに対して皇后は捕まらないように、髪を剃ってかつらをかぶり、ネックレスやブレスレッドの紐も腐らせ、服を酒で腐らせました。力士が皇后を捕まえに来ますが、髪を掴もうとするとかつらが落ちて、ネックレスを掴めばちぎれてバラバラになり、服を掴んでも破けて捕まえることができませんでした。

力士は仕方がなく、王子だけを連れて帰りました。やがて沙本毗古王は天皇に誅殺され、皇后も兄に殉じて自害しました。

 

私はこれは癩病を描写しているように思えてなりません。癩病は進行すると頭髪が抜け落ちてしまいます。鼻や指などが崩れ落ちて掴む箇所がなくなります。これを婉曲に表しているのではないでしょうか。

 

皇后は死ぬ前に王子の育て方について指示を出しました。

・御母(乳母)をつける

・大湯坐・若湯坐(王子をお風呂に入れる役、世話係)をつける

・王子の最初の女性として、自分の姪の兄比売・弟比売を指定

ここから、太古の貴族がどのように育てられたかを推測することが可能です。お乳をあげる乳母、幼児から少年期の養育係、そして許嫁が指定されたようです。おそらく許嫁とは一緒に育つのでしょう。兄比売・弟比売が丹波の比古多々須美智の宇斯王(ひこたたすみちのうじのおおきみ)の女と書かれているので、これは丹波の神話であることが分かります。比古多々須美智は四道将軍の一人丹波道主命と同一視されています。丹波の大江山のふもとの宇治には元伊勢があり、天照大神が最初に現れた場所ともいわれています。

 

(2)聾唖

垂仁天皇はこの御子をとても可愛がって育てましたが、御子は話すことができませんでした。鬚が胸まで伸びても話せなかったとあります。大人になっても口がきけなかったということです。

神聖な御子が唖であるというのは世界中にある神話の類型で、日本神話でも素戔嗚尊は大人になっても子供のように泣きわめくだけであったとされていますし、大国主命の子息であるアジスキタカヒコネも大人になっても話すことができなかったとされています。

しかし御子が鵠(くくひ・大きな広い鳥で、白鳥ともコウノトリともいわれる)を見て話すそぶりを見せたため、天皇は山辺大鷹(帝鳥という字、たかと読む)を遣わして、その鵠を捉えさせようとします。山辺大鷹は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、と追いかけていき、ついに越の国で鵠を捉えました。この放浪物語は神話が生まれた地域と、季節によって住処を変える渡り鳥の習性を表していると考えられます。

日本書紀ではこれで話すようになるのですが、古事記では御子はまだ話しません。そこで曙立王の占いによってこれは出雲の神様(しかし大国主命と明示されていない)の祟りであることが分かって、御子は出雲に出向くことになります。

 

(3)あしなえ・盲

曙立王の占いの中で、御子は旅の途中で那良戸と大坂戸にてあしなえ(障害によって自立歩行ができない人)、盲(視覚障碍者)に出会うだろうと言われました。那良戸は奈良市北方の平城山、大坂戸は大和と河内の間にある穴虫峠ではないかと言われています。

御子には大和国師木(磯城)の登美の豊朝倉の曙立王と菟上王を、介添え人に付けました。さてここで登美(長髓彦・櫛玉命)が登場しました。古事記には説明はありませんが気になります。櫛真知命は天香久山の神様で、占いの神様でした。登美は鳥見とも書きます。これもまた鳥を使った占いを表しているのではないかという説があります。餌のついばみ方や、飛んでいく方向から吉兆を占うのです。

さて御子は那良戸・大坂戸など行く先々で品遅部(ほむぢべ)を設置していきました。これが御子を支える部民となります。大胆に推測しますと、この品遅部というのは障碍者を保護する部民だったのではないでしょうか。障碍者を集めて公費で養い、工芸などの仕事をさせたのかもしれません。何故なら沙本毗売の伝説の中で玉造部が登場しているからです。

品・科(しな)というのは古代の大和言葉で「いろいろな種類」という意味です。これを品(ほん)と読む場合は身分を表します。遅には鈍重という意味があります。語弊はありますが、わたしにはこの「品遅」という言葉は身体や知能に障碍がある人を表しているように思えます。そしてこの御子は本牟智和気命(誉津別命・ほむちわけのみこと)と名乗るようになります。尾張国風土記(逸文)はでは品津別皇子と記述されています。

 

(4)皮膚病

御子は出雲の肥川(斐伊川)に至って肥長比売と仲良くなって結婚します。しかし肥長比売の真の姿が蛇だったので、御子は恐れて一目散に船で大和に帰りました。出雲の神を礼拝したので御子は話すことができるようになりました。

大物主命の真の姿は蛇と言われているので、肥長比売はその眷属であったと思われます。

しかしこれもまた何らかの障害、皮膚病を表している可能性もあります。

 

以上のように、沙本毗売とその御子の誉津別命の物語は、直接間接に障碍者のことを表していることは間違いありません。やはり古代にも障碍者は苦労を強いられたようですが、救いなのはそこには障碍者を忌避するような感情が込められていないことです。垂仁天皇は癩病を発病した皇后を取り返そうとしますし、口がきけなかった、もしくは知能に障碍があったと思われる誉津別命を可愛がっています。そして品遅部は古代の福祉事業である可能性もあります。

 

(5)弟橘姫

垂仁天皇の段はこの後唐突に日本武尊の后である弟橘姫に繋がる話が入って終わっています。これもミステリアスです。

 

垂仁天皇は四人の姫君を娶ります。美知能宇斯王の娘(先に出た丹波道主命)の比婆須比売・弟比売命・歌凝比売・円野比売です。しかし歌凝比売・円野比売は不美人であったために実家に帰してしまいました。円野比売は弟国(山城国乙訓郡)で身投げして死んでしまいました。

 

そして垂仁天皇は多遅摩毛理(たじまもり)を常世の国に派遣して、ときじくのかくの木の実を探させました。これは橘のことで、柑橘類を指すと言われています。倭姫の物語では、天照大神が伊勢国を「常世からの波が寄せる国」と表現していますので、常世は東にあることが分かります。多遅摩毛理は東国へ出かけたようです。

 

弟と橘を合体させると弟橘姫になります。

 

垂仁天皇の次が景行天皇で、古事記は日本武尊の物語へと移っていきます。誉津別命の物語は北陸道と山陰道の物語でした、日本武尊の物語は、東山道・東海道の物語です。日本武尊の孫が誉田別命(八幡神・応神天皇)です。誉津別命と名前が似ています。田(狩猟・農業)と津(漁業・運輸業)で対応しているようにも思えます。そうえば、日本武尊も、最後は伊吹山の神様の祟りによって、足が弱って死んでしまいます。これは鉱山や冶金業に従事する人たちの中毒症を表しているのではないかという説もあります。

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