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2020年12月26日 (土)

大麻比古神社から札所三番まで

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、阿波国一ノ宮です。徳島県鳴門市にあります。大麻山(541m)の麓に鎮座。奥宮は大麻山の山頂です。周辺に古墳も多く畿内にも近いことから古くから開けた地域でした。古代には南海道の石濃駅(いそのえき)が大谷にあったとされています。吉野川の北側です。

社伝によると、神武天皇の御代に天太玉命(大麻比古大神)の子孫である、天富命が勅命により肥沃の地を求めて全国各地を巡り、阿波国に到り、麻や楮を育てて麻布・木綿を作り殖産興業の基を築きました。そして太祖である天太玉命を阿波国の守護神としてこの地にお祀りしました。猿田彦大神は、大麻山の山頂にお祀りされていたが、後世に大谷の大麻比古神社に合祀されたそうです。

清和天皇貞観元年(859)には朝廷より神階従五位上を賜り、以後順次進んで、中御門天皇の享保四年(1719)に正一位を賜りました。

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現在でも徳島県の人々に親しまれている神社です。

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このアーチ形の石橋は、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵が建築したものです。近くには板東俘虜収容所跡があります。日本で最初にヴェートーベンの第九を演奏した場所として音楽好きの間では有名です。鳴門の人たちとドイツ兵の交流は日独友好の証です。

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大麻比古神社のご由緒。

 

大麻比古神社が吉野川南岸の忌部神社と同工異曲の神話を持っていることはすでに触れました。しかし神様の名前が天太玉命・天富命・大麻比古命になっています。忌部神社は天日鷲命です。吉野川を遡っていくと、天日鷲命を祀る神社が増えてきます。私は讃岐や畿内から入ってきた人たちが板野郡の先住民の忌部氏を吸収していったのではないかと考えています。

板野郡の奈良時代の戸籍が奇跡的に残っていて、この辺りは物部と粟凡直が多かったことが分かっています。

このあたりには宇志彦神社・宇志比売神社という、古代の族長を神格化したと思われる神社もあるのですが、今回はお参りする機会がありませんでした。

 

以下は私の想像ですが、この神社には丸山神社という摂社があります。大麻比古という神名は、稲城市の大麻止乃豆乃天神社と似ています。大麻止乃豆乃天神社は大丸にあり、占いの神様でした。大麻止乃豆乃天神社は武蔵国稲城にも忌部氏が来ていた名残なのではないかと思うのです。全国に分布する「丸子部」も忌部氏と関連がありそうだと考えています。

 

一番札所 霊山寺(竺和山一条院)

本尊釈迦如来

大麻比古神社から二百米ほど下ると、八十八ヶ所の第一番、霊山寺があります。かつてはお遍路さんは大麻比古神社で道中の無事を祈ってから打ち初めをする習わしでした。

伝説では弘法大師がこの寺を開いたときに、一人の老僧が弟子に教えを説いているのを目にしたとされています。これは即ち、大麻山をお釈迦様が教えを説いたマガダ王国の霊鷲山に見立てているわけです。だから和国にある天竺の山ということで竺和山という山号なんですね。

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重厚な山門。ここでお遍路は長い道中に思いを馳せます。

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境内にはお遍路グッズの売店があります。多くのお遍路さんはここで道具をそろえます。ここはコロナの渦中にあっても営業を続けています。

 

板東捕虜収容所跡地・撮影村

霊山寺から少し山側に入った場所に、日本だいきゅ初演の地である板東捕虜収容所の跡地があります。映画の撮影セットを保存した撮影村や、道の駅第九の郷もあります。

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日独友愛の碑

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捕虜が建築したアーチ橋

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当時の水タンク跡。水を汲んで下の浄水槽に貯水し、モーターでタンクに組み上げて、収容所に配水したらしい。モーターもそのままに残っている。

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道の駅第九の里、喫茶店ではドイツビールとホットドッグやスープが食べられます。でも地元の人たちはうどんしか頼んでいませんでした(笑)

 

札所二番 極楽寺(日照山無量寿院)

本尊 阿弥陀如来

霊山寺から歩いて三十分ほどで二番札所の極楽寺につきます。朱塗りの仁王門が印象的です。

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残念ながら宿坊は現在は営業していません。

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これは薬師堂です。右側の石段を登ります。

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小山を登ったところに本堂と大師堂があります。伝説では、お大師様が彫った阿弥陀像の光があまりにまぶしかったため、この山ができたことになっています。確かここに前は石が置いてあって、願いごとを頭に浮かべながら持ち上げて、楽に持ち上げればその願いは楽にかなう、重たければ努力が必要といういわれがあったはずですが、コロナ感染防止のため現在は非公開になっているようです。

 

第三番札所 金泉寺(亀光山釈迦院)

本尊 釈迦如来

極楽寺からやや歩いたところ、高徳線板野駅の北側に金泉寺はあります。この寺の裏には亀山という山があります。伝説では鎌倉時代の亀山法皇がここで祈ったことになっていますが、さすがにそれは信じられません。しかし、亀山神社・奥山神社という古い神社がありますので、古代からこの山は神格視されていたようです。

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金泉寺の伝説。泉と亀山が重要なキーになっているようです。源義経はここから大坂峠を越えて、讃岐の屋島(香川県高松市)に攻め込みました。高徳線が走っているルートを義経は駆け抜けました。義経の電撃的な進軍に平家は態勢を崩して、壇ノ浦に撤退します。この地域の武家にとって源氏に協力したのは重要なことだったようで、ルート上には義経や弁慶の伝説が多く残ります。さらに阿波の奥地には佐藤兄弟の末裔が移住した伝説も残っています。

 

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亀山神社。金泉寺の裏手にあります

 

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奥宮神社。高松自動車道が大きく北に曲がるあたり。

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奥宮神社の手水鉢の蛇口。ユーモラスな顔をしたお魚さんです。

 

大麻比古神社から札所一番~五番あたりまでは阿波国の板野郡です。奈良時代に板野郡から勝虞(勝悟)という高僧が出ました。天平四年(732)~弘仁二年(811)。凡直氏(粟国造)。法相宗の僧です。義淵ー神叡ー尊応ー勝虞ー護命という相承関係です。

義淵は阿刀氏ですので、弘法大師のお母さんの実家です。飛鳥時代から続く学者の家柄です。玄昉・行基・良弁の先生に当たります。元正・天武天皇の護持僧であったともいわれます。天武天皇の皇子と共に育ったという伝承がありますので、舎人か乳母子だったのかもしれません。

神叡も法相宗の僧で新羅に渡って学んだそうです。南山城の芳野の現光寺で庵を結んだとあります。自然智を得たとありますので、山岳で修行をしていたのではないかと考えられます。

勝虞の弟子護命は、最澄とは対立しましたが、空海とは親交がありました。空海は讃岐(香川県)の人で、母は阿刀氏でした。板野出身の勝虞と空海は交流があったと考えられます。空海が若い頃に平城京の大学を抜けて私度僧となり、山岳を修行してまわっていた際に、南山城の芳野の現光寺に行ったと考えるのも自然です。

八十八ヶ所が板野からスタートするのは、若き日の空海と法相宗のつながりによるものではないかと私には思えます。

※私は、歴史上の人物として語る際には「空海」と使い、信仰上の存在を語る際には「弘法大師」と呼ぶようにしています。あまり厳密な使い分けをしているわけでは無いですけれど…

2020年12月19日 (土)

忌部氏について

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

 

四国八十八ヶ所の歩き遍路を始めました。弘法大師空海が定めたとされる四国の霊場八十八寺を回る巡礼です。八十八ヶ所は阿波国、現在の徳島県から始まります。阿波国(徳島県)→土佐国(高知県)→伊予国(愛媛県)→讃岐国(香川県)というように、四国を時計回りに回っていきます。

阿波からスタートするのは、古代の日本の中心畿内に近いからですが、お遍路の一番札所霊山寺は板野郡の板東にあります。ここは鳴門から西に10㎞ほど内陸に入ったところにあり、どうして上陸地点の鳴門からスタートしないのかという疑問は残ります。それを理解するには忌部氏について知る必要があります。

 

阿波国には忌部氏という古代豪族が住んでいました。忌部氏は中臣氏とともに大和朝廷の祭祀を担っていました。祭祀で使用する織布・玉・矛・楯などを朝廷に納めていたと言われています。平安時代初期に忌部広成がまとめた古語拾遺によると、忌部氏は豊かな土地を探して四国東部の阿波国に至り、そこを開発した後、さらに黒潮に乗って房総半島にたどり着き総国(ふさのくに)を開発したとされています。彼らが根付いた土地は安房国と呼ばれるようになりました。私が調べてきた房総の開発には忌部氏が関わっています。

天皇が即位して最初に行う大嘗祭で着る荒妙(あらたへ・新たな衣の意)は、現在でも徳島県の吉野川市麻績で作られています。平安時代から室町時代まで阿波国忌部郷から献上されていました。応仁の乱によってこれは断絶しますが、麻績・山崎・川島の人たちの尽力により、昭和天皇の大嘗祭の時から荒妙献上が復活しました。

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山崎忌部神社。式内社忌部神社の論社のなかで最も有力。荒妙は麻績で収穫された麻を使い、忌部神社の巫女が織った布で作るとされている。

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山川町の峡谷。山崎よりもさらに吉野川の上流。さらに奥(南)には古代からの神聖な高越山(阿波富士)に高越寺がある。奈良時代からある修験道の道場。四国の修験道としては最も古いと考えられる。中央で中臣氏に政治的に敗北した忌部氏は、ここを本拠に忌部修験道を作った。

 

さて、忌部広成が「古語拾遺」を書いたときの忌部氏の本拠地は吉野川中流域の山崎あたりだったと考えられますが、地域の伝承では忌部氏はまず板野に入り、その後に山崎へ移住したと言われています。

「粟島誌」によると、「忌部さんは土地の開拓者つまり、忌部族と粟島に深い関係があります。武布津神が出雲を平定して天照大神に報告するため、事代主命を送って阿波に来た。一説に讃岐の志度に上陸して日開谷を通過して伊笠山付近に陣取りました。その時忌部族は高天族の不意の侵入を咎めて小競り合いがあったが、やがて忌部族の天日鷲命は武布津命のために社殿を香美に建てて、事代主命を自分の妹の阿波比売の館に迎えた。本須賀の八幡宮(現在の粟神社)は阿波比売の遺跡であります。」とあり、忌部氏が讃岐から侵入した勢力に押されて吉野川北岸から後退したことが推測されます。

ちなみにこの伝承の舞台は十番札所切幡寺付近です。おそらく切幡寺の山に武布津神(武御雷命と経津命)が陣取ったと考えられます。

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十番札所切幡寺。山の中腹にある。背後には遠く八十八番の大窪寺の山も見える。

 

大体分布としては

十番切幡寺ー三番金泉寺-一番霊山寺・大麻比古神社(阿波一ノ宮)

粟島(善入寺島)

忌部郷(十一番藤井寺)

という風に並んでいます。

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阿波一ノ宮大麻比古神社。お遍路さんはここでお祓いをして道中の無事を祈る。

板野郡の板東にある一番霊山寺の奥には阿波一ノ宮の大麻比古神社があります。御祭神は天太玉神です。忌部氏の祖神である天日鷲命と同じ神様とされていますが、名前が違います。この辺りは中規模な古墳も多く、古代から開けた地域でした。しかし今も残る阿波国岡上郷戸籍によると、板野で多いのは粟凡直(阿波国造)と物部氏です。忌部氏ではありません。大麻比古神社も古語拾遺と同じように、天太玉神の命令で豊かな土地を探して阿波国に至ったことになっています。

戦前は皇国史観の影響が強く、祖先が天孫族と戦ったという伝説が大っぴらになると不利益をこうむったため、板野の大麻比古神社の伝承と山崎の忌部神社の伝承はあえて混同して考察されていました。そのため、忌部氏が理由もなく板野から山崎に後退したことになっていました。しかし粟島の伝承を加味して考えると、阿波国の古代史がわかりやすく整理されます。

 

(1)吉野川流域に最初に忌部氏が移住してきて、先進的な技術をこの地に移植した。

(2)その後、天孫と出雲の合同勢力(粟・物部)が讃岐から侵入した。

(3)小競り合いの後、粟・物部は吉野川北岸を占領した

   彼らは先住の忌部氏を吸収しながら、板野を中心として栄えた。(大麻比古神社)

(4)忌部氏は吉野川の南岸に後退した。そして山川・山崎・麻績のあたりを開発した(山崎忌部神社)

(5)忌部氏の一部が房総に移住した

(6)忌部氏は天智天皇・天武天皇に協力し、日本神話と宮中祭祀の骨格を作った(5以降は後で考察)(大野寺・隆禅寺)

(7)奈良時代に板野から勝虞(勝悟)という高僧が登場し、法相宗を大成、板野郡で仏教が栄える(札所一~五番)

(8)嵯峨天皇の時代、法相宗と弘法大師が協力関係を結ぶ、これにより後世に阿波で高野山が優勢になる

(9)忌部氏が中央で敗退し、山岳仏教に注力、吉野川南岸の山間部で寺院が建立される(高越寺・札所十一~十三番)

(10)(1)より先、鳴門と淡路島には海部が勢力を張っていて阿波とは別の扱いを受けていたと思われる、仏教の導入も遅れた

 

つまり八十八ヶ所は四国の神道や古代豪族の歴史と密接なつながりがあることが予想されるわけです。以上の大きな流れを頭に入れておきながら、板野から順にお遍路と周辺の神社について考察を進めてみましょう。

2020年12月12日 (土)

香取の古社

下総の東庄、小見川、神崎の気になる古社を回ってきました。

 

東大社

千葉県東庄町に東大社という神社があります。御祭神は玉依毗売命。鵜葺草葺不合命の妻で、神武天皇の母親です。

伝説では、景行天皇が日本武尊を偲んで東国を巡幸した際に、この地に七年とどまったと言われています。

堀河天皇の時代に、海上郡高見浦(銚子のあたり)の海が荒れて交易は止まり不漁となって人々が難渋したので、康和四年(1102)に朝廷は海上郡の総社であったこの神社に玉子大明神の尊号を賜い、神輿を銚子の高見ノ浦に押し出して祈らせたところ、海が治まり大漁となったので、以来この地域の三社(東大社、雷神社、豊玉姫神社)が隔年で銚子の渡海神社がある高見ノ浦に神輿を出すのが恒例となりました。今は二十年に一度の銚子大神幸祭となっています。この地域を襲った異変は、大地震による津波を表しているという説もあるそうです。

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この神社は台地の上にあります。当時は海が段丘涯のすぐ下まで来ていましたので、神社からは海がよく見渡せたことでしょう。航海の目印だったのかもしれません。打ち出し祭礼は茨城県の久慈郡金砂郷神社に現在でもあり、東京の府中でも品川の海まで神輿を運ぶ祭礼があったと言われています。海の向こうから神様が宝とともにやって来たという信仰が推測できるお祭りです。

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銚子大神幸祭の由来

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さすがは皇祖神の神社で鷹司平通・和子(昭和天皇次女)夫妻お手植えの杉があります。

 

豊玉姫神社

東大社から内陸に入っていき二時間くらい歩いて、豊玉姫神社があります。御祭神の豊玉比売は海神の娘で玉依姫のお姉さんです。彦火火出見尊の妻、鵜葺草葺不合命のお母さんに当たります。銚子大神幸祭に参加する三社の一つです。日本武尊がこの地で豊玉比売の祭祀をしたのが始まりと言われています。

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東大社から豊玉姫神社に向かう途中、太平洋側が見える場所があります。奥に見える溜池は、かつてこの地にあった椿海の名残です。江戸時代まではここから太平洋まで見渡す限り椿海という干潟でした。

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豊玉姫神社本殿。今では内陸であるが、かつてはこのすぐ下まで海が来ていました。境内はかなり広いです。鳥居から本殿まで結構歩きます。

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豊玉姫神社の縁起です。東大社と同工異曲。荒れる海を日本武尊が玉依姫を祀って沈めたとされています。海を鎮める神様は日本では女神が定番です。

 

木内大神

小見川の内陸には木内大神というとても古い神社があります。佐倉宗吾で登場した木内氏発祥の土地です。木内神社の創始は大同年間(807)、伊勢神宮の外宮から豊受姫命を勧請したとされています。印旛沼の麻賀多神社や船橋大神宮で見たように、下総国では豊受大神の信仰が古代から卓越しています。

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鎌倉時代に千葉常胤の息子の千葉胤朝がこの地に土着し木内氏となったとありますが、木内氏は千葉家より前からこの地にいる豪族で、千葉氏に婿入りするような形で一族に迎え入れられた可能性もあるでしょう。とても由緒がある一族だったわけで、堀田さんは大変な相手を敵に回してしまったと言えるかもしれません。

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鬱蒼とした鎮守の杜。厳粛な雰囲気を感じます。  

 

神崎神社

JRの下総神崎駅から、利根川へ向かって歩いて30分弱、川沿いの小高い丘の上に神崎神社があります。御祭神は天鳥船命、大己貴命、少彦名命、面足命。

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田んぼの中に浮かぶ島のような丘にあります。

常陸国河内郡と下総国香取郡の境、大浦沼の二つ塚から白鳳二年(674、天武天皇三年)にこの地に遷座したと伝わります。非常に古い神社です。平安時代初期の三代実録でも小松の神の名で記録されています。

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利根川の常陸側と下総側には対応するように似たような性質を持つ神様が配置されています。鹿島神宮には香取神宮。筑波神社には麻賀多神社といった具合に。神崎神社に対応するのは恐らく息栖神社です。両方とも船を神様とする神社で、かつては海の中に浮かぶ島だったからです。

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風格のある本殿です。優しさと威厳を併せ持った神社です。丘の上にあるので、清浄な感じがするのも良いです。個人的にはとてもおすすめです。

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本殿の奥には、樹齢千年ともいわれる「なんじゃもんじゃの木」があります。なんじゃもんじゃの木とは神聖な大木のことで、日本中にあります。この大樹は徳川光圀が見て「なんじゃこれは」と叫んだという伝説を持っていますが、実際はそれよりも前から神聖視されていたのでしょう。

 

下総には由緒ある神社がたくさんあります。すべて西国の移住者が持ち込んだと言うだけで説明はつかないと私は思います。玉依姫や豊玉比売だって、古事記に日向の神様と書いてあるからと言って、南九州からもたらされたと決めつける必要はないでしょう。海を鎮める海神の娘という信仰が、それこそ縄文の昔からあって、玉依姫や豊玉比売という名前はあとからつけられたのだと思います。

豊受姫神も海人族とは別系統の、海の民としての物部氏の神話の存在を想像させてくれます。神崎神社の天鳥船命は饒速日尊の天磐船を連想させますが、出雲の神と一緒に祀られていますので、天孫とはまた別の海の民の神話があったのかもしれません。

下総は日本神話を新たな目で見直す視点を与えてくれる不思議な宝箱です。

2020年12月 5日 (土)

丸子山王日枝神社と大楽院

川崎市中原区上丸子の日枝神社と大楽院をご紹介します。川崎市はかつては武蔵国橘樹郡と呼ばれていました。今後は川崎市の歴史的な話をする場合には橘樹郡と記述します。

 

東急電鉄新丸子駅から多摩川方面に歩いて10分くらいのところ、東海道新幹線に接して大楽院という真言宗智山派の寺院が、そこから少し南に行ったところに日枝神社があります。両方とも川崎市では有数の古さを誇る寺社です。

 

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川崎市の丸子山王日枝神社。丸子という地名はとても古い起源をもっています。

 

丸子山王日枝神社の御祭神は大己貴神。出雲系の神様です。大国主命と大黒様と同じ神様ともいわれています。埼玉県と東京都にとても多い氷川神社に祀られている神様です。

日枝神社のご由緒書きによると、今から1200年前の平安時代の初め、大同四年(809)6月14日に創建されました。

平安京を作った桓武天皇の御子貞恒親王の次男恵恒僧都(山本平左衛門尉恒重)と弟の次郎左衛門尉恒明が滋賀県大津市の日枝大社の御分霊を勧請し、武蔵国丸子庄総鎮守として創建したとされています。

 

この伝承を検証してみます。平安時代初期に恒貞親王はいましたが、淳和天皇の皇子ですので桓武天皇のひ孫になります。天長二年(825)生まれですので、大同四年にはまだ生まれていません。恒貞親王は仁明天皇の皇太子になりましたが、承和九年(842)に起きた承和の変に巻き込まれて皇太子を廃されました。

その後高岳親王の手ほどきで出家し、仏道に邁進したと言われています。元慶八年(884)に天寿を全うしています。大覚寺の開祖です。高岳親王は平生天皇の御子で、伊勢物語で有名な在原業平の伯父に当たります。高岳親王は薬子の変で皇位継承者から外されました。仏道への思いが強く、インドに行くために唐に渡りマレーあたりで客死したと言われています。

恒貞親王と高岳親王は、皇位継承争いに巻き込まれて失脚し、仏道に入ったという境遇が似ています。

恵恒僧都は丸子山王の縁起にしか出てこない名前です。恒貞親王にそのような子息がいたかどうかは不明です。本平左衛門尉恒重と次郎左衛門尉恒明という兄弟の存在も史料では確認ができません。

 

ではこの縁起がまるっきり嘘であるかというとそうとも言えません。平安時代初期という伝承は信じるべきと思います。まず丸子庄は「吾妻鏡」に出てくる地名です。古代から多摩川下流域の平間から丸子のあたりまでを含む荘園の名前だったと考えられています。応安五年(1372)の円覚寺文書には丸子保と記載され、荘園から国衙領に移行したことが分かります。文明九年(1477)の文章には武州稲毛庄鞠子郷と書かれています。

丸子(鞠子・毬子)という地名は陸奥、安房に確認でき(倭名抄)、万葉集には鎌倉郡と久慈郡の丸子部という名字を持つ防人が詠んだ和歌が掲載されています。東急東横線の橋脚を支えている高地は古墳で人物埴輪などが出土しており、川崎市中原区の丸子も、古代から人が住む場所であったことは確かです。

中原区の丸子にはかつて渡し場があって、丸子の渡しと呼ばれていました。上記の陸奥、安房の丸子も川沿いの地名で、静岡市にも川沿いの丸子という地名があり、河川に関係する部民であったようです。運送業者、漁民かもしれません。先に紹介した稲城の大麻止乃豆乃天神社は大丸という場所にあり、久慈真知命は占いの神様なので、個人的には丸子部というのは、占いのための亀を捕獲する漁民だったのではないかと推測しています。

 

承和の変で失脚した親王を創始者とするのも不思議です。中世の職能民が、子孫を残さなかった皇族を始祖に奉じる伝承や権利証を持っていたりしたので、そういった類かもしれません。丸子山王の縁起によると、さらに平清盛の息子である平重盛によって治承二年(1178)に社殿が再建され、社宝の刀が献上されたと言われています。

平重盛は平家物語では南都焼き討ちの罪によって早死にしたとされています。わざわざ中興の祖に持ち出すメリットが分かりません。平重盛が武蔵国を知行した事実もないですので、不可解な伝承です。中央の政治的敗者が何らかの形で、この神社に関わっているようです。

 

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川崎市の大楽院。古くからの文化財が多く残る。丸子山王とは目と鼻の先である。

大楽院は真言宗豊山派の寺院です。かつては丸子山王の神宮寺(別当)でした。かなり古くからこの地にあったらしいのですが、記録が残るのは延宝七年(1679)に中興されてからです。昭和36年に世田谷区史編集委員の早稲田大学の荻野三七彦氏によって、寺に古くから伝わる釈迦如来像が解体調査されました。形相から室町時代であることは推測されていましたが、胎内から「大檀越吉良源氏朝並家中衆」という銘文が見つかり、室町時代後期に上流の世田谷を支配した吉良氏が奉納した仏像であることが確認されました。

吉良氏朝は天文十一年(1542)生まれ、後北条氏の一族で、武蔵の吉良氏に養子に入っています。後北条氏滅亡後も生き残って徳川氏に仕え、慶長八年(1603)に死去しています。吉良氏は減封されましたが、上総国寺崎村に移転させられたと言われています。

 

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大楽院釈迦像と胎内文書を紹介する看板。文化財が多いお寺ですが、一般公開はしていないようです。

 

橘樹郡の丸子郷と直接のつながりは確認できませんが、平安時代に相模国出身の有名な丸子氏がいました。初代天台座主(天台宗の総本山である比叡山延暦寺で一番偉い人、大学の学長のようなもの)の義真です。

義真は天応元年(781)生まれ俗姓は丸子部。奈良の興福寺で法相宗を学び、鑑真から受戒しています。漢語に秀でていたらしく、最澄の通訳として共に唐へ渡っています。最澄から信頼されていたらしく、最澄の寂滅後は年長の者を立てるようにという遺言に伴って比叡山初の受戒師となっています。天長元年(824)には天台座主に就任しています。

かの有名な円仁(慈覚大師)も天台座主に目されたのですが、円仁は最澄の教えを補強するために唐に渡ることを選択しました。ちなみに円仁も東国出身者で下野国の人です。円仁は唐からの帰国後に三代目の天台座主に就任しています。

 

丸子山王が創建された時期が、義真が天台座主になった時期と近いので、私は何らかの関連があるのではないかと思っています。義真が天台座主に就任した記念に、故郷の丸子氏がお寺を建てたのかもしれません。

大同四年の6月というのは、平城天皇が体調不良によって弟の嵯峨天皇に譲位して2か月後です。かなり推測が入りますが、丸子山王と大楽院は平城天皇の勅願寺のような性格で創建されども、平城天皇が突如退位し、その後に薬子の変があったのでその記録を隠したのかもしれません。

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