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2020年12月26日 (土)

大麻比古神社から札所三番まで

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、阿波国一ノ宮です。徳島県鳴門市にあります。大麻山(541m)の麓に鎮座。奥宮は大麻山の山頂です。周辺に古墳も多く畿内にも近いことから古くから開けた地域でした。古代には南海道の石濃駅(いそのえき)が大谷にあったとされています。吉野川の北側です。

社伝によると、神武天皇の御代に天太玉命(大麻比古大神)の子孫である、天富命が勅命により肥沃の地を求めて全国各地を巡り、阿波国に到り、麻や楮を育てて麻布・木綿を作り殖産興業の基を築きました。そして太祖である天太玉命を阿波国の守護神としてこの地にお祀りしました。猿田彦大神は、大麻山の山頂にお祀りされていたが、後世に大谷の大麻比古神社に合祀されたそうです。

清和天皇貞観元年(859)には朝廷より神階従五位上を賜り、以後順次進んで、中御門天皇の享保四年(1719)に正一位を賜りました。

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現在でも徳島県の人々に親しまれている神社です。

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このアーチ形の石橋は、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵が建築したものです。近くには板東俘虜収容所跡があります。日本で最初にヴェートーベンの第九を演奏した場所として音楽好きの間では有名です。鳴門の人たちとドイツ兵の交流は日独友好の証です。

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大麻比古神社のご由緒。

 

大麻比古神社が吉野川南岸の忌部神社と同工異曲の神話を持っていることはすでに触れました。しかし神様の名前が天太玉命・天富命・大麻比古命になっています。忌部神社は天日鷲命です。吉野川を遡っていくと、天日鷲命を祀る神社が増えてきます。私は讃岐や畿内から入ってきた人たちが板野郡の先住民の忌部氏を吸収していったのではないかと考えています。

板野郡の奈良時代の戸籍が奇跡的に残っていて、この辺りは物部と粟凡直が多かったことが分かっています。

このあたりには宇志彦神社・宇志比売神社という、古代の族長を神格化したと思われる神社もあるのですが、今回はお参りする機会がありませんでした。

 

以下は私の想像ですが、この神社には丸山神社という摂社があります。大麻比古という神名は、稲城市の大麻止乃豆乃天神社と似ています。大麻止乃豆乃天神社は大丸にあり、占いの神様でした。大麻止乃豆乃天神社は武蔵国稲城にも忌部氏が来ていた名残なのではないかと思うのです。全国に分布する「丸子部」も忌部氏と関連がありそうだと考えています。

 

一番札所 霊山寺(竺和山一条院)

本尊釈迦如来

大麻比古神社から二百米ほど下ると、八十八ヶ所の第一番、霊山寺があります。かつてはお遍路さんは大麻比古神社で道中の無事を祈ってから打ち初めをする習わしでした。

伝説では弘法大師がこの寺を開いたときに、一人の老僧が弟子に教えを説いているのを目にしたとされています。これは即ち、大麻山をお釈迦様が教えを説いたマガダ王国の霊鷲山に見立てているわけです。だから和国にある天竺の山ということで竺和山という山号なんですね。

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重厚な山門。ここでお遍路は長い道中に思いを馳せます。

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境内にはお遍路グッズの売店があります。多くのお遍路さんはここで道具をそろえます。ここはコロナの渦中にあっても営業を続けています。

 

板東捕虜収容所跡地・撮影村

霊山寺から少し山側に入った場所に、日本だいきゅ初演の地である板東捕虜収容所の跡地があります。映画の撮影セットを保存した撮影村や、道の駅第九の郷もあります。

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日独友愛の碑

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捕虜が建築したアーチ橋

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当時の水タンク跡。水を汲んで下の浄水槽に貯水し、モーターでタンクに組み上げて、収容所に配水したらしい。モーターもそのままに残っている。

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道の駅第九の里、喫茶店ではドイツビールとホットドッグやスープが食べられます。でも地元の人たちはうどんしか頼んでいませんでした(笑)

 

札所二番 極楽寺(日照山無量寿院)

本尊 阿弥陀如来

霊山寺から歩いて三十分ほどで二番札所の極楽寺につきます。朱塗りの仁王門が印象的です。

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残念ながら宿坊は現在は営業していません。

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これは薬師堂です。右側の石段を登ります。

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小山を登ったところに本堂と大師堂があります。伝説では、お大師様が彫った阿弥陀像の光があまりにまぶしかったため、この山ができたことになっています。確かここに前は石が置いてあって、願いごとを頭に浮かべながら持ち上げて、楽に持ち上げればその願いは楽にかなう、重たければ努力が必要といういわれがあったはずですが、コロナ感染防止のため現在は非公開になっているようです。

 

第三番札所 金泉寺(亀光山釈迦院)

本尊 釈迦如来

極楽寺からやや歩いたところ、高徳線板野駅の北側に金泉寺はあります。この寺の裏には亀山という山があります。伝説では鎌倉時代の亀山法皇がここで祈ったことになっていますが、さすがにそれは信じられません。しかし、亀山神社・奥山神社という古い神社がありますので、古代からこの山は神格視されていたようです。

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金泉寺の伝説。泉と亀山が重要なキーになっているようです。源義経はここから大坂峠を越えて、讃岐の屋島(香川県高松市)に攻め込みました。高徳線が走っているルートを義経は駆け抜けました。義経の電撃的な進軍に平家は態勢を崩して、壇ノ浦に撤退します。この地域の武家にとって源氏に協力したのは重要なことだったようで、ルート上には義経や弁慶の伝説が多く残ります。さらに阿波の奥地には佐藤兄弟の末裔が移住した伝説も残っています。

 

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亀山神社。金泉寺の裏手にあります

 

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奥宮神社。高松自動車道が大きく北に曲がるあたり。

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奥宮神社の手水鉢の蛇口。ユーモラスな顔をしたお魚さんです。

 

大麻比古神社から札所一番~五番あたりまでは阿波国の板野郡です。奈良時代に板野郡から勝虞(勝悟)という高僧が出ました。天平四年(732)~弘仁二年(811)。凡直氏(粟国造)。法相宗の僧です。義淵ー神叡ー尊応ー勝虞ー護命という相承関係です。

義淵は阿刀氏ですので、弘法大師のお母さんの実家です。飛鳥時代から続く学者の家柄です。玄昉・行基・良弁の先生に当たります。元正・天武天皇の護持僧であったともいわれます。天武天皇の皇子と共に育ったという伝承がありますので、舎人か乳母子だったのかもしれません。

神叡も法相宗の僧で新羅に渡って学んだそうです。南山城の芳野の現光寺で庵を結んだとあります。自然智を得たとありますので、山岳で修行をしていたのではないかと考えられます。

勝虞の弟子護命は、最澄とは対立しましたが、空海とは親交がありました。空海は讃岐(香川県)の人で、母は阿刀氏でした。板野出身の勝虞と空海は交流があったと考えられます。空海が若い頃に平城京の大学を抜けて私度僧となり、山岳を修行してまわっていた際に、南山城の芳野の現光寺に行ったと考えるのも自然です。

八十八ヶ所が板野からスタートするのは、若き日の空海と法相宗のつながりによるものではないかと私には思えます。

※私は、歴史上の人物として語る際には「空海」と使い、信仰上の存在を語る際には「弘法大師」と呼ぶようにしています。あまり厳密な使い分けをしているわけでは無いですけれど…

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