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2020年12月 5日 (土)

丸子山王日枝神社と大楽院

川崎市中原区上丸子の日枝神社と大楽院をご紹介します。川崎市はかつては武蔵国橘樹郡と呼ばれていました。今後は川崎市の歴史的な話をする場合には橘樹郡と記述します。

 

東急電鉄新丸子駅から多摩川方面に歩いて10分くらいのところ、東海道新幹線に接して大楽院という真言宗智山派の寺院が、そこから少し南に行ったところに日枝神社があります。両方とも川崎市では有数の古さを誇る寺社です。

 

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川崎市の丸子山王日枝神社。丸子という地名はとても古い起源をもっています。

 

丸子山王日枝神社の御祭神は大己貴神。出雲系の神様です。大国主命と大黒様と同じ神様ともいわれています。埼玉県と東京都にとても多い氷川神社に祀られている神様です。

日枝神社のご由緒書きによると、今から1200年前の平安時代の初め、大同四年(809)6月14日に創建されました。

平安京を作った桓武天皇の御子貞恒親王の次男恵恒僧都(山本平左衛門尉恒重)と弟の次郎左衛門尉恒明が滋賀県大津市の日枝大社の御分霊を勧請し、武蔵国丸子庄総鎮守として創建したとされています。

 

この伝承を検証してみます。平安時代初期に恒貞親王はいましたが、淳和天皇の皇子ですので桓武天皇のひ孫になります。天長二年(825)生まれですので、大同四年にはまだ生まれていません。恒貞親王は仁明天皇の皇太子になりましたが、承和九年(842)に起きた承和の変に巻き込まれて皇太子を廃されました。

その後高岳親王の手ほどきで出家し、仏道に邁進したと言われています。元慶八年(884)に天寿を全うしています。大覚寺の開祖です。高岳親王は平生天皇の御子で、伊勢物語で有名な在原業平の伯父に当たります。高岳親王は薬子の変で皇位継承者から外されました。仏道への思いが強く、インドに行くために唐に渡りマレーあたりで客死したと言われています。

恒貞親王と高岳親王は、皇位継承争いに巻き込まれて失脚し、仏道に入ったという境遇が似ています。

恵恒僧都は丸子山王の縁起にしか出てこない名前です。恒貞親王にそのような子息がいたかどうかは不明です。本平左衛門尉恒重と次郎左衛門尉恒明という兄弟の存在も史料では確認ができません。

 

ではこの縁起がまるっきり嘘であるかというとそうとも言えません。平安時代初期という伝承は信じるべきと思います。まず丸子庄は「吾妻鏡」に出てくる地名です。古代から多摩川下流域の平間から丸子のあたりまでを含む荘園の名前だったと考えられています。応安五年(1372)の円覚寺文書には丸子保と記載され、荘園から国衙領に移行したことが分かります。文明九年(1477)の文章には武州稲毛庄鞠子郷と書かれています。

丸子(鞠子・毬子)という地名は陸奥、安房に確認でき(倭名抄)、万葉集には鎌倉郡と久慈郡の丸子部という名字を持つ防人が詠んだ和歌が掲載されています。東急東横線の橋脚を支えている高地は古墳で人物埴輪などが出土しており、川崎市中原区の丸子も、古代から人が住む場所であったことは確かです。

中原区の丸子にはかつて渡し場があって、丸子の渡しと呼ばれていました。上記の陸奥、安房の丸子も川沿いの地名で、静岡市にも川沿いの丸子という地名があり、河川に関係する部民であったようです。運送業者、漁民かもしれません。先に紹介した稲城の大麻止乃豆乃天神社は大丸という場所にあり、久慈真知命は占いの神様なので、個人的には丸子部というのは、占いのための亀を捕獲する漁民だったのではないかと推測しています。

 

承和の変で失脚した親王を創始者とするのも不思議です。中世の職能民が、子孫を残さなかった皇族を始祖に奉じる伝承や権利証を持っていたりしたので、そういった類かもしれません。丸子山王の縁起によると、さらに平清盛の息子である平重盛によって治承二年(1178)に社殿が再建され、社宝の刀が献上されたと言われています。

平重盛は平家物語では南都焼き討ちの罪によって早死にしたとされています。わざわざ中興の祖に持ち出すメリットが分かりません。平重盛が武蔵国を知行した事実もないですので、不可解な伝承です。中央の政治的敗者が何らかの形で、この神社に関わっているようです。

 

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川崎市の大楽院。古くからの文化財が多く残る。丸子山王とは目と鼻の先である。

大楽院は真言宗豊山派の寺院です。かつては丸子山王の神宮寺(別当)でした。かなり古くからこの地にあったらしいのですが、記録が残るのは延宝七年(1679)に中興されてからです。昭和36年に世田谷区史編集委員の早稲田大学の荻野三七彦氏によって、寺に古くから伝わる釈迦如来像が解体調査されました。形相から室町時代であることは推測されていましたが、胎内から「大檀越吉良源氏朝並家中衆」という銘文が見つかり、室町時代後期に上流の世田谷を支配した吉良氏が奉納した仏像であることが確認されました。

吉良氏朝は天文十一年(1542)生まれ、後北条氏の一族で、武蔵の吉良氏に養子に入っています。後北条氏滅亡後も生き残って徳川氏に仕え、慶長八年(1603)に死去しています。吉良氏は減封されましたが、上総国寺崎村に移転させられたと言われています。

 

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大楽院釈迦像と胎内文書を紹介する看板。文化財が多いお寺ですが、一般公開はしていないようです。

 

橘樹郡の丸子郷と直接のつながりは確認できませんが、平安時代に相模国出身の有名な丸子氏がいました。初代天台座主(天台宗の総本山である比叡山延暦寺で一番偉い人、大学の学長のようなもの)の義真です。

義真は天応元年(781)生まれ俗姓は丸子部。奈良の興福寺で法相宗を学び、鑑真から受戒しています。漢語に秀でていたらしく、最澄の通訳として共に唐へ渡っています。最澄から信頼されていたらしく、最澄の寂滅後は年長の者を立てるようにという遺言に伴って比叡山初の受戒師となっています。天長元年(824)には天台座主に就任しています。

かの有名な円仁(慈覚大師)も天台座主に目されたのですが、円仁は最澄の教えを補強するために唐に渡ることを選択しました。ちなみに円仁も東国出身者で下野国の人です。円仁は唐からの帰国後に三代目の天台座主に就任しています。

 

丸子山王が創建された時期が、義真が天台座主になった時期と近いので、私は何らかの関連があるのではないかと思っています。義真が天台座主に就任した記念に、故郷の丸子氏がお寺を建てたのかもしれません。

大同四年の6月というのは、平城天皇が体調不良によって弟の嵯峨天皇に譲位して2か月後です。かなり推測が入りますが、丸子山王と大楽院は平城天皇の勅願寺のような性格で創建されども、平城天皇が突如退位し、その後に薬子の変があったのでその記録を隠したのかもしれません。

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