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2021年1月30日 (土)

かぐや姫(つくば市の蚕影神社と六所皇大神宮)

 

ダウンロード (飛鳥時代皇室系図)- asukakeizu01.pdf

 

筑波山の南麓の豊浦の地には常陸養蚕三社の一つである蚕影神社(こかげじんじゃ)があります。

Tsukuba2

豊浦から見た筑波山

 

Kokagejinja

蚕影神社

 

蚕影神社には3つの由来があります。

(1)第十三代成務天皇の時代に阿部閇色命(あべしこおのみこと)が筑波国造に赴任し、筑波大神に奉仕し、豊浦の地に稚産霊命(わかむすびのみこと)を祀った

(2)昔金色姫が現れて常陸国に養蚕を伝えた時に、筑波の神が影道仙人となって表れて、里の人々に絹糸と布の作り方を教えた

(3)金色姫が欽明天皇の皇女各夜姫(かぐやひめ)として生まれ変わり、筑波の土地に飛来し、神衣を織り、国人たちに養蚕太伸とあがめられた。

Kokagejinja2

 

3つそれぞれに根拠がありそうです。(1)成務天皇とは日本武尊の弟です。常陸国が大和朝廷に服属したのは、日本武尊の時代と言われています。阿部閇色命はこの土地に大和地方の信仰を導入したのでしょう。稚産霊命は産業の神様です。下総国の麻賀多神社でも祀られています。どうやら、大和朝廷の支配が常陸や下総に届いたときに、近畿から最初に入ってきた神様は稚産霊命らしいことが分かります。

 

(2)は先に見た星福寺の金色姫伝説です。大陸から活発に技術が導入された六世紀から七世紀にかけての、この地域に起きた変化を表していそうです。

 

(3)は平安貴族が「竹取物語」として改変する前の「原かぐや姫」を伝えています。かぐや姫は元々は筑波の養蚕起源伝説であったようです。かぐや姫は古事記では垂仁天皇の后として登場します。そういう名前の皇族はどうやら上古にいたようです。筑波の伝説では欽明天皇の王女が空を飛んで筑波に舞い降りて、養蚕機織りの技術を伝えたとなっています。

 

私はこの筑波の各夜姫は日本の野蚕であるヤママユを説話にしたものではないかと思うのですがどうでしょうか。ヤママユの幼虫は美しいエメラルドグリーンをしており、緑色の繭を作ります。これが緑色の月の光を連想させ、紀貫之をして月のお姫様の物語を作らせたのではないかと思うのです。

 

さて、蚕影神社から歩いて一時間余り、筑波山の登り口にはかつて六所皇大神宮がありました。皇大神宮とあるように、伊勢神宮の分社でした。伝承では桓武天皇の時代に坂上田村麻呂が鳥居を作ったことになっており、源頼朝が御家人と共に寄進をしたことが確認できるので、少なくとも平安時代にはこの神社は成立していたようです。

Rokusho1

室町時代から江戸時代にかけて、この地域の伊勢信仰の中心として栄えたものの、残念ながらこの神社は戦前に政府によって弾圧されたらしく(村社としての存続が許されなく、無収入になってしまい、祭祀が途切れかけた)、鳥居の根元から発掘されたと言う坂之上田村麻呂の名前があったという銅鏡も、この神社の由来を示す文章もどこにあるのかは不明です。現在この神社は神社本庁には属さない宗教団体が管理しているので出土物や文書は或いはこの団体が保有しているのかもしれませんが公開はされていないのでこれ以上の調査が難しいです。

面白いことに、この神社には幼少期の天照大神が育った土地という伝説があります。果たしてこれは中世に後付けされた話と片づけてよいのか。

Rokusho2

私が気になるのは、あの有名な天の岩屋戸伝説は金色姫と同じストーリー展開であることに気が付いたからです。天の岩戸でも、天照大神が弟の素戔嗚尊の数々の暴虐にショックを受けて岩戸の中に引き籠ってしまいます。そしてより強力な太陽神として復活します。身近な人からいじめられる、中空状の場所に籠って変身するというのは金色姫型の養蚕起源伝説の重要な要素です。

天照大神が元々は養蚕の神様だったのではないかというのは古くから提唱されている説です。記紀神話でも岩戸隠れに先行して、天照大神の侍女(本人という説もある)が機織りをするシーンが入ります。これは天の岩屋戸伝説が、本来は日本固有の養蚕起源伝説を基としている可能性を示唆します。

平安の朝廷も常陸国に残る養蚕起源伝説と記紀神話の類似に気が付いていたのではないでしょうか。それで筑波山のふもとに伊勢神宮の分所を作って崇拝したのではないかと私には思えてなりません。

しかし明治政府は、東国に天照大神の起源に触れる神社があることを、記紀神話との矛盾と捉えたのでしょう。この神社の存続を許しませんでした。

それはともかく、この神社の奥の森林と清流は美しく、古代人が天照大神が幼少期を過ごしたと想像したのも無理はないように私には思えました。筑波山は万葉集の時代から夫婦の神様がいる山として有名でした。山頂が二つあるのですからそれは自然です。その麓に筑波山の夫婦神の子供の神様がいてもおかしくありません。

 

※私は現在六所皇大神宮跡を管理している宗教団体とは全く関係はありません。

2021年1月23日 (土)

金色姫とシンデレラ(神栖市の蚕霊神社)

(1)常陸国養蚕三社

常陸国(茨城県)には、日本の養蚕の起源と呼ばれる三つの神社があります。神栖市の蚕霊神社(さんれいじんじゃ)、つくば市の蚕影神社(こかげじんじゃ)、日立市の蚕養神社(こかいじんじゃ)です。

この三社は日本全国にある養蚕神社の起源と言われています。かつて養蚕が盛んだったころには、この三社にはたくさんの養蚕や絹織物の関係者が参拝に押し掛けました。

三社の由来には金色姫という共通の伝説があります。継母にいじめられた異国のお姫様が日本に漂着して、養蚕を広めるという物語です。これは養蚕の起源を伝える神話としては広く世界に広がっています。

概要は、若い女性が身内(たいていは継母である)からいじめられて様々な困難に見舞われ、しかしそれを機転や親切な人の助けや動物の助けで切り抜けます。業を煮やした継母は、その女性を船に乗せて海や川に流してしまいます。流れ着いた先で女性は親切な老夫婦に助けられるのですが、やがて病気で亡くなってしまいます。しかし老夫婦の夢の中に現れて、自分は虫に変身したからそれを大事に育ててほしい、その虫から糸を取って役立ててほしいと言います。老夫婦が女性の遺品を調べると、箱の中には蚕がいて、そこから養蚕が始まったという話です。

それでは今週と来週は茨城県の蚕霊神社と蚕影神社を訪れてみましょう。

 

(2)神栖市の蚕霊神社と星福寺

Sanreijinja2

茨城県神栖市の蚕霊神社(さんれいじんじゃ)

 

茨城県の神栖市に養蚕の起源を伝える神社の一つである蚕霊神社があります。この神社は星福寺というお寺に付随する祠でした。明治の神仏分離令によって、神社として独立しました。

 

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星福寺の本堂

 

そのため、星福寺創立の縁起と蚕霊神社の由来は同一です。

 

Seifukujiengi

星福寺の縁起

飛鳥時代の舒明天皇の時代に、インドから金色姫が流れ着いて、養蚕を広めたという内容です。金色姫を助けたのは、常陸国日川に住む権太夫さんでした。権太夫さんは養蚕で豊かになり、全国に技術を広めて星福寺を建てたのでした。

 

石碑の抜粋

当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(日川)蚕霊山千手院星福寺と称し、奥之院ご本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩)あり(※現在の蚕霊神社のこと)、養蚕守護の尊霊にして、養蚕業者悉く帰依渇望の念を運びきたりて参詣報賽せあらる、霊城赫々四方に高く、これ他に求むべけんや、縁起によれば桑の宇津魚舟が塩路常陸なる豊良浦に漂着、時に舒明帝十三年(584)所の漁師権太夫その浮流木を薪にせんと打ち破りてみれば、金色宝々たる姫宮光明赫々なるをみ黒塚権太夫大いに驚き、家に持ち帰り大事に養育せり、父大王からは汝仏法流布の国に行き、蒼生(民衆)を済度せよ(救え)と今比の浦に流れ来た、霊記によれば蚕虫化した姫宮は桑の葉を食し重ねるに宿縁有りて繭となる。その時影道仙人ありてこれを糸と布とにし、寒暑を防ぐ衣服とすることを教え、後権太夫富を得、諸国を巡り蚕業の普及を図り、一宇建立し尊霊を安置し、蚕霊尊と称し、毎年十一月酉の日を礼典、怠ることなく守護、されば絹は豊良浦より起こり常陸絹として名誉後に伝う。

降りて室町時代から江戸時代には益々信を起こし、善を修し大伽藍を建立し世業の円満成就は曼荼羅の和合よりと、人世は相互供養の上にこそ佳すべきなりと、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆を見、その名刹を江湖に知られるに至る・・・

 

 

(3)金色姫伝説の矛盾

金色姫伝説には矛盾があります。日本では縄文時代の後期にはすでに絹がありました。遺物が出土しています。古代支那でも日本産の絹布は知られていました。星福寺の伝説では金色姫は六世紀の終わりごろに日本に来たことになっています。ですので、金色姫から養蚕が始まったというのは歴史的には正確ではありません。

金色姫伝説はインドより西方の養蚕起源伝説として一般的です。インドのアッサム地方には金色の糸を作る野蚕(ヤサン)がいます。野蚕とは野生の蚕のことです。カイコガの仲間で日本にも古くからヤママユやクワコがいます。桑以外の木の葉も食べます。やはり繭を作り、そこから糸を取ることができます。日本のヤママユからは美しい黄緑色の糸が取れます。皇居で皇室の女性が飼育されているのはヤママユです。古代の絹布を再現する際に、上皇后さまが皇居で飼育している蚕をご提供されたことが報道されたので、覚えている方もいるかもしれません。

インドのアッサムにはエリ蚕という野蚕がいて、美しい金色の繭を作ります。画像検索でも出てきます。この金色の絹がエキゾチックな興味を掻き立てて、金色姫の伝説を生み出したのではないかと考えられます。

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蚕霊神社の由来

 

(4)蚕霊神社と星福寺の起源

では星福寺とはどういうお寺であるのか?常陸国で養蚕が盛んであったことは奈良時代には確認ができます。この黒塚権太夫さんはおそらく大陸渡来の新技術で養蚕を改良したのでしょう。その技術は仏教と同時に常陸の地に導入されたのかもしれません。養蚕を改良して巨万の富を築いた権太夫さんはお寺を建てたのでしょう。これが星福寺です。権太夫さんが活躍したのが舒明天皇の時期だったのでしょう。

残りの養蚕神社のつくば市の蚕影神社の由来も大同小異なのですが、起源が百年さかのぼって欽明天皇の時代になっています。そこには各夜姫(かぐやひめ)が金色姫の生まれ変わりとして登場します。これは次週取り上げます。日立市の蚕養神社では孝霊天皇の時代となっています。蚕養神社が一番古いのですが、孝霊天皇の時代にインドからお姫様が漂着するというのは無理があります。なんらかの後世の後付けがあるのでしょう。しかし日立市もなにか養蚕に由来のある土地だったのかもしれません。

 

(5)軽皇子と中臣鎌足

ダウンロード (飛鳥時代皇室系図)- asukakeizu01.pdf

星福寺ができたのは舒明天皇の代です。舒明天皇は聖徳太子で有名な推古天皇の次代です。そして皇后は宝皇女で舒明天皇の次に皇極天皇となります。宝皇女は舒明天皇の姪です。皇極天皇は乙巳の変(大化の改新)の後に弟の軽皇子(かるのおうじ)に譲位します。そして弟の軽皇子が孝徳天皇となりました。宝皇女と軽皇子は姉弟で茅渟王の子供です。舒明天皇と茅渟王は兄弟です。

そして舒明天皇と皇極天皇の間に生まれたのが、天智天皇と天武天皇の兄弟です。

何故舒明天皇の一家のことを説明したかというと、なんと星福寺のすぐ近くには「軽野」という地名があるからです。

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神栖市立軽野小学校正門

 

果たしてこの神栖にある軽野と軽皇子は関連があるのでしょうか?私はあると考えています。神栖の軽野と軽皇子をつなげるのは中臣鎌足です。

藤原氏の始祖である中臣鎌足は鹿島神宮の出身でした。上総国の豪族の生まれだったと言われています。優秀であったので、鹿島の中臣氏の養子となり、さらに飛鳥に留学することになりました。中臣鎌足は最初は軽皇子の学友でした。そこでも異才を発揮し、中大兄皇子の目に留まったと言われています。

私が推測する経緯はこうです。舒明天皇の時代に常陸国は養蚕業で大変に栄えていました。養蚕業者の権太夫さんは舒明天皇の一族に資金援助したのでしょう。あるいは舒明天皇かその弟である茅渟王の部民だったのかもしれません。それで茅渟王は権太夫さんが持つ土地である軽野を息子の名前に付けたのではないでしょうか。当時は王子を養い育てる費用を負担した土地の名前を、王子に名付けるのが一般的でした。

そして権太夫さんは郷土の有為な人材は支援していたのでしょう。鹿島神宮にいるという俊才に援助して飛鳥で最新の知識を身に付けさせようとしたのでしょう。それが中臣鎌足青年だったのです。

上総国の高倉観音に伝わる中臣鎌足の出生伝説では、彼の両親は豪族ではなく裕福な農民とされています(母方は大伴氏だったらしい)。どうやら中臣鎌足は農民だったけれども、才能を見出されて鹿島神宮の中臣氏の養子になり、さらに飛鳥に留学するというようにして、出世していったらしいのです。日本史を支配した藤原氏の始祖が、古代業族ではなかったかもしれないのは驚くべきことです。藤原鎌足も日本史で時々現れる豊臣秀吉や伊藤博文と言った、シンデレラボーイの一人だったのかもしれませんね。

 

(6)金色姫とシンデレラ

さて表題ですが、金色姫の伝説の内容はシンデレラそっくりであることに気が付きましたか?おそらく金色姫伝説が西洋に伝わり、養蚕の部分が抜け落ちたのがシンデレラなのでしょう。金色姫の伝説はペルシャ・トルコ・イタリアあたりまでは養蚕と結びついていますが、それ以上北では寒くて養蚕ができないので、蚕に変身するという部分が抜け落ちてしまったと考えられます。

しかし絹からはきれいな衣装が連想されますので、金色姫が死んで蚕に変身するという部分が、魔法でお姫様に変身するというように変えられたのではないかというのが私の推測です。

2021年1月16日 (土)

大野寺と札所十一番

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

かつての遍路道は、十番の切幡寺から南下して、大野寺を通過し、吉野川最大の中州である善入寺島(古代からの名前は粟島)で吉野川を渡河して、川島、鴨島と進んで十一番の藤井寺に向かっていました。大野寺は天智天皇の勅願寺と伝わる、阿波国最古のお寺です。そして粟島には宿場町があり、遍路客と物資の参集地として大変栄えたと言います。

しかし粟島が遊水地に指定されて住民が強制退去させられ、お遍路も電車やバスで回るのが主流になると、十番と十一番の間の地域は閑散とするようになってしまいました。粟島は今は園芸農業が盛んですが宿場町としての見る影はありません。

 

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大野寺は阿波市市場町山野上大西にあります。天智天皇の勅願寺と伝わります。本尊は阿弥陀如来。

同じく天智天皇勅願が阿波にはもう一つありまして阿南市宝田町の隆禅寺です。大野寺と隆禅寺は兄弟のお寺で、中世に両寺が衰微した時代、片方の住職が途絶えたら、もう片方が住職を派遣するなど支え合っていたそうです。

何でこんな話が分かったかというと、参拝していたら大野寺の御住職のお義母さんからお話がきけたからです。先代の住職の妹さんということでした。八十過ぎですがとてもしっかりとされていました。

お婆さんからの聞き取りと鴨島図書館で調べた話を総合すると、天智天皇は阿波国に大野寺と隆禅寺を建立しました。その後嵯峨天皇の勅願で大野寺の末寺14寺が建てられました。粟嶋にも宝幢寺と宮ノ坊善入寺があったそうです。

大野寺は飛鳥時代には東西に奈良の薬師寺と同じ塔が建っていたということです。

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このように礎石が残っていますので塔があったのは事実と考えられます。

大野寺では大海人皇子が得度したという伝承があります。俄には信じがたいのですが、忌部氏が記紀神話作成で果たした役割を考えると何らかの事実を伝えているのかもしれません。忌部氏が大嘗会に荒妙を献上するようになったのも天武天皇の時代からです。

一時期衰微しましたが、嵯峨天皇によって再興されたそうです。

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本堂

大野寺は蜂須賀の殿様からも崇拝されました。縁日には大きな市が立ったそうです。それはこの地の町名に残っています。切幡の市よりも大きかったと言います。

近代になって明治政府からかなり土地を没収されてしまったが、それでも徳島県最古の寺として重視され、お遍路も必ず通っていたので栄えていました。戦前までは学問所もあり、50人もの学僧が学んでいたそうです。お寺専門の宮大工が住んでいたそうです。付近の寺が次々と無住になったので、お堂と本尊を吸収していったそうです。虚空蔵堂も大日堂も周辺のお寺にあったものだということです。正月には阿南の隆禅寺に挨拶に行く行事もあったらしいです。

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大日堂

戦後に一時期衰微したが、当代(おばあさんの娘婿)が苦労して再興したということです。とても貴重な証言がきけました。ありがとうございました。

 

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川島から粟嶋へ渡る沈下橋。四万十川だけの専売特許ではありません。

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川島神社。天日鷲命が祀られています。

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奈良時代から続く由緒ある神社です。

 

鴨島はかつては宿場町として栄えたのですが、お遍路がバス主流になってからは急速に衰えてしまいました。でも駅前にはお遍路用のリーズナブルな宿があります。夜中まで開いている料理屋さんもあります。駅前の宿に二泊しました。

 

十一番 藤井寺

金剛山

本尊 薬師如来

鴨嶋駅から南に歩いて三十分くらいで藤井寺につきます。山道の入り口にあります。

ご本尊の薬師如来は体内の墨書から久安四年(1148)の作であることが確認されています。四国八十八ヶ所では最古の仏像だそうです。もとは釈迦如来だったが、この地に残る弘法大師伝説に合わせて薬師如来に変えられたとのことです。秘仏です。

 

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藤井寺の山門

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本堂。

お遍路はここから完全な山道に入ります。世に言う遍路転がしの坂です。

 

秋はここまで行きました。年末にさらに先へ進もうと思っています。

2021年1月10日 (日)

ヒーリングっとプリキュア~新年早々ラスボスが!?

1)いきなりすぎるラスボスの退場

いきなり敵の本拠地に踏み込んだのには驚きました。

どうにも展開が唐突ですが、不思議と新型コロナウイルスの第3波に伴う緊急事態宣言の再発動に連動することになりました。制作側が感染第3波を予測していたことはあり得ないので、そういう運命を背負った作品なのでしょう。

なんとプリキュアたちはド根性でラスボスを倒してしまいましたが、残りの2ヶ月は幹部と戦うことになるのでしょうか。これもなぜか変異種の登場と符牒を合わせるかのようです。

もはやこの作品は物語としての整合性を超えた何かに突き動かされているのかもしれません。

 

2)今後のコロナウイルスのパンデミックとプリキュアの展開

インフルエンザやコロナウイルスは変異を繰り返していくので、親玉を叩いたと思ったら、すぐに変異種が現れて戦いは果てしないです。ラスボスだったはずのキングビョーゲンがあっさりと倒れて、手下が進化して親玉並みの力を備えるというのは、ウイルスの特徴をよくとらえています。

コロナウイルスは撲滅できません。野生動物にも宿るウイルスですから、できたとしても数百年先になると思います。だから最後は人間と無力化したビョーゲンズが共棲する結末になるのかもしれません。

宿主を絶滅させてしまうほど毒性が強いウイルスは子孫を残せませんから、やがて毒性が弱まったウイルスが優勢となっていきます。でもその過程で、毒性が強い変異種が猛威を振るう展開が来ます。遺伝子の突然変異はランダムに発生しますので、毒性が強い物も弱い物もバラバラに生み出されます。今感染爆発を起こしている変異種は、第1波・第2波と毒性は同じだけれど、感染力は強いウイルスです。だから重症者の割合は変わらないけれど、母数となる感染者が急速に増えているので、医療崩壊の危険が叫ばれています。

あまり考えたくはないですが、この変異種が変異して、感染力と強い毒性を併せ持った更なる変異種というのは、必ず現れます。これがパンデミックの最盛期で、その時期は今年の春先か、もしくは次の冬になります。世界の保健当局がワクチンの開発と接種を急いでいるのは、感染力と強い毒性を併せ持ったウイルスが現れる前に叩こうとしているからですが、それはなかなか難しいと思います。

このようにして最悪なウイルスが現れて、その後にやっと人間と共棲ができるウイルスが現れるでしょう。それがパンデミックの最終段階です。それは2022年の春だろうと思います。のどかの身体から生み出されたダルイゼンは今回はサボっていましたが、これは体の中に潜んで、たまに日和見感染をするという、宿主と共棲するタイプのウイルスの特徴です。東映アニメはプリキュアには力を入れていますので、そこまで研究して展開を考えている可能性もあるでしょう。

2021年1月 9日 (土)

土御門上皇と札所六番から十番

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

札所六番安楽寺から上板町に入ります。

ここでこの区間を歩き遍路をする場合の注意点。

札所五番地蔵寺のあたりまではバスやタクシーも多いのですが、安楽寺から先の上板町と阿波市はいきなり交通の便が悪くなりますので、宿泊地や補給には十分に注意してください。県道12号まで出ればコンビニもありますが、遍路道にはコンビニがなく、それどころか札所六番から九番までの間には自動販売機もありません。夏場には水を確保した上で歩かないと大変なことになります。便利な都会に慣れた人は注意です。

徳島市と鴨島駅の間にはバスが通っていますが、一日5往復ほどしかありませんので時間は十分に確認する必要があります。札所が並ぶ山すそと、徳島交通鴨島線のバスルートは3㎞ほど離れており、札所七番~十番からバス停までは、最低30分はかかります。

坂東三十三ヶ所や西国三十三ヶ所は、たいてい山門までバスが来ていますが、四国八十八ヶ所にはお寺の前までバスが来ているとは限りませんので、百観音と同じ感覚で行くと大変な目に遭います。

逆に言うと、江戸時代のお遍路の雰囲気が味わえるルートともいえるわけです。

 

第六番 安楽寺

温泉山 瑠璃光院

本尊 薬師如来

この日はまず朝にバスで板野から東野へ行って安楽寺の宿坊へ荷物を置いてからスタートしました。

安楽寺は弘法大師が赤茶色の温泉を掘り当てて、その地の病人を癒したという伝説があります。あるいは、猟師が鹿と間違えて座禅中のお大師様を射てしまったのですが、偶然木の枝が落ちて矢が当たってお大師様は助かり、お大師様がその枝を土に植えると枝は根付いて大木になったと言われています。それが境内の逆松です。

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かつて逆松があったという庭。境内はよく整備されています。

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札所一番から始めて最初に行き当たる宿坊です。札所二番の宿坊は現在休業中。広い湯船の温泉があります。熱めのお湯で歩き遍路の疲れを癒してくれます。料理もおいしいです。夕食前のお務めがあって希望者は参加ができます。ここのお務めは趣向を凝らしています。普段は入れない大師堂の中にもお参りさせてもらえます。

本尊薬師如来はこのお寺でお遍路を勧められて道中でお陰をもらって病気が恢復した、大阪の夫婦が寄進した薬師像です。秘仏の本尊が胎内物として納められています。この夫婦の感動的なお話は食堂で流れるビデオで見ることができます。つい三十年ほど前の実話だそうです。

昔の面影が残る街並みを通っていくと、小一時間で札所七番にたどり着きます。

 

第七番 十楽寺

光明山 蓮華院

本尊 阿弥陀如来

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お遍路とはあまり関係ないかもしれませんが、こちらの絵馬は絵が可愛かったです。

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ダウンロード -鎌倉時代前期皇室系図 zenkikamakurakeizu.pdf

さてここから遍路道を外れて北の山へ向かいました。気になる神社があったからです。山皇子神社、宮川神社、御所神社です。その日はお祭りの日で山皇子神社の神主さんから神社の由来を教えていただけました。山皇子神社には土御門上皇の御所があったという伝説があるそうです。

土御門上皇とは後鳥羽天皇の第一皇子。建久九年(1198)に四歳で践祚。父の後鳥羽上皇が院政を敷きました。そして承元四年(1210)十六歳の時に後鳥羽上皇の命により、弟の順徳天皇に譲位しました。

土御門上皇はとても温和な性格で、後鳥羽上皇の討幕計画には関与しませんでした。そのため、承久の乱でも罪に問われなかったのですが、「父が遠島なのに、息子の自分だけが京都に留まるわけにはいかない」と言って、自ら土佐国へ遷御しました。その後幕府の勧めで、畿内に近くて環境が良い阿波国へと移りました。その時の住居がこの辺りにあったと言われています。

上皇の御所と墓地の候補は複数あってどれが本物かは定かではないです。山皇子神社は、いかにも古代人が信仰しそうな形の山のふもとにありますので、古代からの信仰があって、それが上皇の記憶と習合したようにも思えます。

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山皇子神社の遠景。平野に突き出した半島状の山。まさしく櫛。なだらかな三角型の山で、いわゆる神南備山です。上皇がお移りになる前からの聖地であったのでしょう。

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山皇子神社。とても雰囲気の良いお社です。すぐ近くに謎の巨大な木造建築がありますが、この神社とは関係はなさそうです。

 

更に山の方へ行くと宮内川沿いに宮川神社があります。天照大神をお祀りする神社です。

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こちらでもお祀りをしていました。お彼岸の中日だったからでしょうか。ここも静かで良いお社でした。古くからの鎮守といった感じです。

Miyakawa02 

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天然温泉御所の郷

温泉施設を横目に見ながら西へ向かうと神宮寺と御所神社があります。御所神社の御祭神は土御門上皇と素戔嗚尊です。

神社に掲示してあった由緒によりますと、元々は吹越天王社と呼ばれていて、天禄年間(970頃)に、高林坊盛尊が讃岐国多度津浦から天王像を奉じて霊地を探してこの地に到り、領主の原田義富、三木景久とともに願主となって神社を創建したそうです。

元禄九年(1696)に神宮寺別当の順雄は、吹越神社が宮内川の洪水にさらされていることを憂えて、高台の上にお宮を移したと伝わっているそうです。

ここでも女性の神主さんが祝詞を唱えていました。御所神社という名前の通り、上皇の行在所の候補の一つです。神宮寺には驚くほど立派なお堂が立っておりました。

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御所神社の本殿。とても長い階段を上ったところにあります。

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でも実は高台の上にも道路があるので、車でお参りするのならば裏の道路から入るのが良いでしょう。神主さんも車で来ていました。

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神宮寺の境内。薬師如来の道場らしいです。とてもきれいな境内で、地元の人たちから篤く信仰されていることが見て取れます。

 

幕府は上皇のために守護の小笠原長経に命じて御所を造営させていますので、気を遣っていたようです。上皇は寛喜三年(1231)に阿波国板野郡池谷で37歳で崩御されます。池谷は一番札所よりもさらに東ですので、実際はこの辺りに住んでいたようです。しかし熊野の海賊が上皇を迎えるために攻め寄せたこともあるそうで、この土成のあたりに避難することもあったのかもしれません。

十一年後に上皇の第三皇子が即位します。それが後嵯峨天皇で現代に繋がる皇統です。

 

第八番 熊谷寺

普明山 真光院

本尊 千手観音菩薩

江戸時代の初期に建てられた重厚な仁王門が目立つお寺です。大師堂からは徳島平野が遠望できます。

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大きな多宝塔。熊野修験と関わりが深いお寺だそうです。

 

第九番 法輪寺

正覚山 菩提院

本尊 涅槃釈迦如来

熊谷寺から吉野川へ向かってなだらかに傾いている平野を下っていくと、九番札所につきます。この辺りは条里制跡もよく残っていて歩くのが楽しいです。

涅槃釈迦像がご本尊なのは、八十八ヶ所ではこちらだけです。

 

第十番 切幡寺

得度山 灌頂院

本尊 千手観音菩薩

ここからは約一時間ほどずっと緩い上り坂が続いて、地味に疲れます。でも道は歩きやすいです。名前の通り機織りの伝説が残っています。弘法大師がこの地を訪れた時、山麓で機織りの娘に出会いました。この時大師はほころびた僧衣を繕うために布切れを求めたところ、娘は織りかけていた布を惜しげもなく切って大師に差し出しました。

貧しい娘のこの行為に大師は感謝し、望みを尋ねたところ、「亡き父母の菩提を弔いたい」と言ったので、大師は一夜で観音菩薩像を彫り上げ、娘に得度灌頂を授けると、娘は生きたまま仏と化し、観音菩薩に姿を変えたそうです。

あるいはこのような伝説もあるそうです。弘仁年間機織りの娘が雲水に請われるままに布を与えました。その娘の父は北面の武士で(御所を警固する武士)阿部某といったが冤罪で殺されてしまい、妻も後を追ったので娘は天涯孤独の身なのでした。母が観音菩薩を作りたいと言っていたその願いをかなえてあげたいと娘は言いました。

雲水は一夜で本堂と本尊を作りました。そして娘はやはりその場で即身成仏して観音菩薩となりました。南向きの本尊がこの時に大師が彫った仏で、秘仏の北向き本尊は即身成仏した娘と言います。

この地域は機織りで有名な忌部氏の本拠地でしたので、このような伝説ができたのでしょう。

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お遍路の最初の難関。長い石段を登った先に本堂はあります。

観音巡礼者には懐かしい、観音霊場に多いタイプの山寺です。

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大師堂。

 

この日は歩いて安楽寺まで戻りました。かなり疲れたです。

2021年1月 2日 (土)

札所四番から五番そして鹿江比売神

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

第四番 大日寺

本尊大日如来(黒岩山、遍照院)

第三番金泉寺を過ぎ、山に入っていくと札所四番の大日寺にたどり着きます。

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大日寺の本堂と大師堂の間の回廊には西国三十三観音の仏像も展示されています。

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第五番 地蔵寺

本尊 将軍地蔵菩薩(無尽山、荘厳院)

大日寺から山を下っていくとまず地蔵寺の奥の院の羅漢堂にたどり着きます。羅漢とは仏になる前の修行中の僧です。

お釈迦様の涅槃(死)に立ち会った直接の弟子は五百人いたと言われています。その全ての等身大の像がここには納められています。悟りを開く前の羅漢ですので人間味のある像です。

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羅漢堂は二百米くらいの長い回廊です。本堂が釈迦如来、向かって左側に弥勒菩薩、右側に弘法大師の像が安置されています。弥勒菩薩は56億年後の未来に、人間を導いてくださる仏様です。法華経に登場します。弘法大師様は現代の日本人を導いてくださる菩薩です。過去(釈迦如来)、現代(弘法大師)、未来(弥勒菩薩)の三つの世界を導く仏がそろっているという見立てなんですね。

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奥の院の羅漢堂から地蔵寺へと下る道。

地蔵寺は、将軍地蔵菩薩をご本尊とする珍しいお寺です。武人の姿をしたお地蔵様で、武士から篤く崇拝されました。

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札所五番地蔵寺と札所六番安楽寺の間には鹿江比売神(かえひめがみ)を祀った殿宮神社があります。鹿江比売神とは、大麻比古神の娘で大山祇神の妻とされる神様です。延喜式には板野郡に鹿江比売神社があったとされています。有力なのが板野町の神宅の殿宮神社です。

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殿宮神社。神宅の集落の真ん中にあります。別名葦稲葉神社。草野姫(かやのひめ)を祀っています。鹿江比売と音が同じなので、延喜式の鹿江比売神社であろうと言われています。

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殿宮神社の由緒。仁明天皇の承和九年(842)に従五位下を得たとあります。承和の変があった年です。清和天皇の貞観九年(867)に従五位上を得ています。応天門の変の翌年です。中央で政変があった年に、人心を鎮めるために、地方の神社が叙爵されていることが分かります。

この辺りは背後に山地を持つ扇状地です。山の神に対する、野の神という信仰があったことが伺えます。

 

神宅の殿宮神社は、大山寺へと登る道の入り口です。大山寺はお遍路の別格二十番の第一番です。標高691mの大山の中腹450mにあります。つづら折りの林道を登っていったところにあります。徒歩であれば登山用の遍路道を登るのが早くて足も傷めないですが、夏は蜘蛛の巣がかかってて難渋します。登山道を歩く場合には、マムシにも注意してください。

 

別格一番 大山寺

本尊不動明王・千手観音

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登山道から見る徳島平野の眺望は格別です。遠く淡路島や和歌山市も見えます。

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山門から続く石段。

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本堂、不動明王と弘法大師が唐の恵果上人から授かったという千手観音を祀っています。阿波国の山岳仏教の嚆矢と言える寺院です。徒歩であれば殿宮神社から往復で3時間は見ておいた方が良いです。納経所では別格二十番のご朱印帳、掛軸、特製の数珠など装備は全て揃えることができます。別格二十番というのは、八十八ヶ所には選ばれなかったものの、お大師様とは深い縁を持つお寺二十寺を集めたものです。いずれも山奥でお参りするには難易度が高い場所にあります。八十八ヶ所と二十寺合わせて、煩悩の数と同じ百八になります。ご朱印とは別に、各お寺にあるお数珠の珠を集めていって、全て回るとお数珠が完成するというのもやっています。

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