札所十三番から十七番
二日目は神山温泉を出て、吉野川の支流鮎喰川(あぐいがわ)をひたすら下り、第十三番大日寺横の名西旅館に泊まりました。料理がおいしくボリュームもあって、大いに満足しました。名西(みょうさい)というのは変わった響きですが、これはこの地域の郡の名前です。今の神山町と石井町(今は徳島市に合併)のあたりをかつては名西郡と呼びました。古代には名方郡と呼ばれ、やがて東側が名東郡となり、西側が名西郡となりました。二日目は名西郡を端から端まで歩いたことになります。
こんな感じの小道を歩いていく。
やがて安喰川沿いの大きな県道に出る。車が飛ばしてくるので注意が必要。
三日目は札所十三番から十七番まで、5か所お参りしました。徳島県内で札所が一番固まっている場所で、遍路転がしを頑張った人へのご褒美のボーナスエリアです。
阿波国下一ノ宮
阿波国の一宮で、大宣都比売命(オオゲツヒメ)を祀っています。大宣都比売命は伊耶那岐命と伊耶那美命が国生みをした際に産んだ一身四面の神である伊予之二名島即ち四国のうち、阿波国を表す神様です。葦原中国を追放されて地上へ天下りした素戔嗚尊をもてなしたのですが、その時に目や口や鼻の穴から穀物を出してそれを食べさせたので、素戔嗚尊は激怒して大宣都比売命を殺してしまいます。
しかし、大宣都比売命の死体から穀物や蚕が生まれたという神話です。大地母神の死体から農作物が生まれるというのは世界中で見られる神話の類型です。素戔嗚尊は風雨の神様ですので、これは季節をめぐらせて冬をもたらして、草木を殺し、しかし春に種を芽吹かせて大地に生命を再生させるという素戔嗚尊の神性を説明する神話です。生命が若返るためには、一度死ななければならないので、素戔嗚尊の破壊は自然にとって必要不可欠です。わけもなく暴虐をしているわけでは無いのですね。
下一ノ宮というのは、神山町に上一ノ宮があるからです。上一ノ宮が本来の大宣都比売命を祀った土地で、しかし奥深過ぎてお参りが大変だったのでこの地に下一ノ宮神社を建立したと言われています。札所一番の裏にある大麻比古神社も阿波一宮と呼ばれているのですが、名西郡の両一宮の方が正しいようです。
札所十三番 大日寺
大栗山 華蔵院
ご本尊 十一面観世音菩薩
道路を挟んで向かい側が大日寺。かつては下一ノ宮神社とひとつながりの境内でした。そして十三番札所は一ノ宮神社で、大日寺が別当寺でした。
札所十四番 常楽寺
盛寿山 延命院
ご本尊 弥勒菩薩
大日寺から安喰川の左岸に渡り、少し歩くと小さな丘があります。その上に立つのが十四番常楽寺です。むき出しの岩肌の上にお堂が立っています。秩父霊場の龍石寺や岩之上堂を思い出します。四国八十八ヶ所で弥勒菩薩を本尊としているのは十四番常楽寺だけです。
弥勒菩薩は未来仏で釈迦寂滅後五十六億七千万年後に現れて衆生を救うと言われています。法華経では釈迦に問いかけをする司会者の役割で登場します。法華経に登場する菩薩や羅漢は、前世に釈迦の元で修行していたという設定になっています。弥勒菩薩は実はその時には一番出来の悪い弟子だったため、悟りを開くまで時間がかかるのですが、どんな末法の世が来ても、弥勒菩薩が最後には救ってくれることになっているのです。だから悟りを開くことができなくて、六道を延々と輪廻する人も、いずれは弥勒様が救ってくれるから大丈夫というわけです。
この辺りはボーナスゾーンだけあって、参拝者にもよく行き当たります。
札所十五番 国分寺
薬王山 金色院
ご本尊 薬師如来
十四番から歩いて十分くらい。天平年間に聖武天皇の勅願で全国に建立された国分寺の一つ。
本堂は修理中です。
近くの水田で発掘されたという七重塔の礎石があります。往時の繫栄が偲ばれます。
天岩戸別八倉比売神社
国分寺の近くに阿波史跡公園があります。国分寺があったことからわかるように、古代にはここに国府がありました。徳島県内では最大級の矢野古墳、宮谷古墳もあり、杉尾山の山腹にある矢野古墳をご神体とした八倉比売神社もあります。古代の竪穴式住居を再現した遊び場もあります。
八倉比売神社も阿波一ノ宮の論社とされていて、延久二年(1070)に、この神社の祭祀を怠った国司を叱責した記録が残っているようです。古文書八倉比売本紀には天照大御神の葬儀の様子が記されています。この古文書は江戸時代になってから作られた偽書であることは明白ですが、この地は上古から阿波国の政治の中心でしたから、かつてこの地に強い勢力を持つ豪族がいて、その豪族が崇めた神様がいたのは間違いないでしょう。
拝殿に登る参道は長くて立派でして、境内も独特な感じがしました。お遍路さんも足を延ばして参拝してみる価値ありです。
第十六番札所 観音寺
光耀山 千手院
ご本尊 千手観世音菩薩
古い住宅地の真ん中にあるお寺です。この辺りは国府町と呼ばれていました。かつては阿波国の政庁がありました。
このお寺には雨宿りした女性に焚火が燃え移って大火傷を負ったという伝説があります。その女性は年老いた姑をひどく折檻していたということです。お遍路にはこういう怖い伝説がたまにあります。
大御和神社(おおみわじんじゃ)
国府を守る神社だったと言われています。名前からもわかるように大己貴命を祀る出雲系の神社です。八倉比売神社にも千家が書いた扁額ば残されており、この地域では出雲から来た人たちが住んでいたようです。札所十番切幡寺で見たように、古代に讃岐から物部と出雲の連合軍がやって来て、原住民の忌部氏を南に追いやったという伝説が粟嶋に残っています。物部氏は板東郡に入植したようです。出雲族は名東に入植したのかもしれません。この辺りは条里制の遺構も残り古くから豊かな土地でした。八倉比売神社に伝わるという天照大神の葬儀の伝説も、この物部出雲に負けた古い部族がいたことを表しているのかもしれません。
第十七番 井戸寺
瑠璃山 真福院
ご本尊 七仏薬師如来
天武天皇が白鳳二年(674)に建立した妙照寺が前身。阿波市にある大野寺は天智天皇が建立したと言われており、大海人皇子が出家したという伝承もあります。さてこれは荒唐無稽な伝説なのでしょうか?そうとも切って捨てられない事情があります。
斉明天皇の時代、朝廷は百済を救援するために朝鮮半島に遠征軍を派遣しました。その派遣軍は伊予国に停泊して兵と軍船を集めています。この遠征軍には斉明天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)が参加していました。朝廷が丸ごと四国に移っていた時期があるのです。この時の朝廷の実質的な指導者は中大兄皇子で、遠征軍の総司令官は、日本書紀には記述がありませんが、大海人皇子であることは間違いないです。この後の壬申の乱における大海人皇子の手際の良さから、彼が朝廷の軍事指揮権を握っていたとみてよいでしょう。
朝廷が遠征軍の主力となる四国と山陽道の豪族の協力を得るために、寺を建立したのは十分に考えうることです。そして新羅遠征が失敗した後に、命からがら帰還した大海人皇子は、兵を帰還させるために瀬戸内の諸国を回ったのかもしれません。そして飛鳥に帰還する前に、遠征失敗の責を負い、戦死者の冥福を祈るために大野寺で出家したというのはあり得ないことではありません。
この日は地蔵峠を越えて宅宮神社まで行ったのですが、それは次回に。
最近のコメント