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2021年2月27日 (土)

札所十三番から十七番

二日目は神山温泉を出て、吉野川の支流鮎喰川(あぐいがわ)をひたすら下り、第十三番大日寺横の名西旅館に泊まりました。料理がおいしくボリュームもあって、大いに満足しました。名西(みょうさい)というのは変わった響きですが、これはこの地域の郡の名前です。今の神山町と石井町(今は徳島市に合併)のあたりをかつては名西郡と呼びました。古代には名方郡と呼ばれ、やがて東側が名東郡となり、西側が名西郡となりました。二日目は名西郡を端から端まで歩いたことになります。

Myosai

こんな感じの小道を歩いていく。

Agui

やがて安喰川沿いの大きな県道に出る。車が飛ばしてくるので注意が必要。

 

三日目は札所十三番から十七番まで、5か所お参りしました。徳島県内で札所が一番固まっている場所で、遍路転がしを頑張った人へのご褒美のボーナスエリアです。

 

阿波国下一ノ宮

Shimoichinomiya

阿波国の一宮で、大宣都比売命(オオゲツヒメ)を祀っています。大宣都比売命は伊耶那岐命と伊耶那美命が国生みをした際に産んだ一身四面の神である伊予之二名島即ち四国のうち、阿波国を表す神様です。葦原中国を追放されて地上へ天下りした素戔嗚尊をもてなしたのですが、その時に目や口や鼻の穴から穀物を出してそれを食べさせたので、素戔嗚尊は激怒して大宣都比売命を殺してしまいます。

しかし、大宣都比売命の死体から穀物や蚕が生まれたという神話です。大地母神の死体から農作物が生まれるというのは世界中で見られる神話の類型です。素戔嗚尊は風雨の神様ですので、これは季節をめぐらせて冬をもたらして、草木を殺し、しかし春に種を芽吹かせて大地に生命を再生させるという素戔嗚尊の神性を説明する神話です。生命が若返るためには、一度死ななければならないので、素戔嗚尊の破壊は自然にとって必要不可欠です。わけもなく暴虐をしているわけでは無いのですね。

下一ノ宮というのは、神山町に上一ノ宮があるからです。上一ノ宮が本来の大宣都比売命を祀った土地で、しかし奥深過ぎてお参りが大変だったのでこの地に下一ノ宮神社を建立したと言われています。札所一番の裏にある大麻比古神社も阿波一宮と呼ばれているのですが、名西郡の両一宮の方が正しいようです。

 

札所十三番 大日寺

大栗山 華蔵院

ご本尊 十一面観世音菩薩

Dainichiji

道路を挟んで向かい側が大日寺。かつては下一ノ宮神社とひとつながりの境内でした。そして十三番札所は一ノ宮神社で、大日寺が別当寺でした。

 

札所十四番 常楽寺

盛寿山 延命院

ご本尊 弥勒菩薩

大日寺から安喰川の左岸に渡り、少し歩くと小さな丘があります。その上に立つのが十四番常楽寺です。むき出しの岩肌の上にお堂が立っています。秩父霊場の龍石寺や岩之上堂を思い出します。四国八十八ヶ所で弥勒菩薩を本尊としているのは十四番常楽寺だけです。

Jorakuji11

弥勒菩薩は未来仏で釈迦寂滅後五十六億七千万年後に現れて衆生を救うと言われています。法華経では釈迦に問いかけをする司会者の役割で登場します。法華経に登場する菩薩や羅漢は、前世に釈迦の元で修行していたという設定になっています。弥勒菩薩は実はその時には一番出来の悪い弟子だったため、悟りを開くまで時間がかかるのですが、どんな末法の世が来ても、弥勒菩薩が最後には救ってくれることになっているのです。だから悟りを開くことができなくて、六道を延々と輪廻する人も、いずれは弥勒様が救ってくれるから大丈夫というわけです。

この辺りはボーナスゾーンだけあって、参拝者にもよく行き当たります。

 

札所十五番 国分寺

薬王山 金色院

ご本尊 薬師如来

十四番から歩いて十分くらい。天平年間に聖武天皇の勅願で全国に建立された国分寺の一つ。

Kokubunji01

本堂は修理中です。

Kokubunji02

近くの水田で発掘されたという七重塔の礎石があります。往時の繫栄が偲ばれます。

 

天岩戸別八倉比売神社

Yakurahimejinja02  

国分寺の近くに阿波史跡公園があります。国分寺があったことからわかるように、古代にはここに国府がありました。徳島県内では最大級の矢野古墳、宮谷古墳もあり、杉尾山の山腹にある矢野古墳をご神体とした八倉比売神社もあります。古代の竪穴式住居を再現した遊び場もあります。

Yakurahimejinja01

八倉比売神社も阿波一ノ宮の論社とされていて、延久二年(1070)に、この神社の祭祀を怠った国司を叱責した記録が残っているようです。古文書八倉比売本紀には天照大御神の葬儀の様子が記されています。この古文書は江戸時代になってから作られた偽書であることは明白ですが、この地は上古から阿波国の政治の中心でしたから、かつてこの地に強い勢力を持つ豪族がいて、その豪族が崇めた神様がいたのは間違いないでしょう。

拝殿に登る参道は長くて立派でして、境内も独特な感じがしました。お遍路さんも足を延ばして参拝してみる価値ありです。

 

第十六番札所 観音寺

光耀山 千手院

ご本尊 千手観世音菩薩

Kanonji01

古い住宅地の真ん中にあるお寺です。この辺りは国府町と呼ばれていました。かつては阿波国の政庁がありました。

このお寺には雨宿りした女性に焚火が燃え移って大火傷を負ったという伝説があります。その女性は年老いた姑をひどく折檻していたということです。お遍路にはこういう怖い伝説がたまにあります。

 

大御和神社(おおみわじんじゃ)

Oomiwajinja

国府を守る神社だったと言われています。名前からもわかるように大己貴命を祀る出雲系の神社です。八倉比売神社にも千家が書いた扁額ば残されており、この地域では出雲から来た人たちが住んでいたようです。札所十番切幡寺で見たように、古代に讃岐から物部と出雲の連合軍がやって来て、原住民の忌部氏を南に追いやったという伝説が粟嶋に残っています。物部氏は板東郡に入植したようです。出雲族は名東に入植したのかもしれません。この辺りは条里制の遺構も残り古くから豊かな土地でした。八倉比売神社に伝わるという天照大神の葬儀の伝説も、この物部出雲に負けた古い部族がいたことを表しているのかもしれません。

 

第十七番 井戸寺

瑠璃山 真福院

ご本尊 七仏薬師如来

天武天皇が白鳳二年(674)に建立した妙照寺が前身。阿波市にある大野寺は天智天皇が建立したと言われており、大海人皇子が出家したという伝承もあります。さてこれは荒唐無稽な伝説なのでしょうか?そうとも切って捨てられない事情があります。

斉明天皇の時代、朝廷は百済を救援するために朝鮮半島に遠征軍を派遣しました。その派遣軍は伊予国に停泊して兵と軍船を集めています。この遠征軍には斉明天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)が参加していました。朝廷が丸ごと四国に移っていた時期があるのです。この時の朝廷の実質的な指導者は中大兄皇子で、遠征軍の総司令官は、日本書紀には記述がありませんが、大海人皇子であることは間違いないです。この後の壬申の乱における大海人皇子の手際の良さから、彼が朝廷の軍事指揮権を握っていたとみてよいでしょう。

朝廷が遠征軍の主力となる四国と山陽道の豪族の協力を得るために、寺を建立したのは十分に考えうることです。そして新羅遠征が失敗した後に、命からがら帰還した大海人皇子は、兵を帰還させるために瀬戸内の諸国を回ったのかもしれません。そして飛鳥に帰還する前に、遠征失敗の責を負い、戦死者の冥福を祈るために大野寺で出家したというのはあり得ないことではありません。

Idodera

 

この日は地蔵峠を越えて宅宮神社まで行ったのですが、それは次回に。

2021年2月20日 (土)

遍路転がしの坂と札所十二番

昨年末にお遍路の続きに行ってきました。しょっぱな前回の到着点の札所十一番藤井寺から札所十二番焼山寺まで、古来からの山道を通ってお参りしました。別名遍路転がしの坂です。

ダウンロード - ohenromap01.pdf

遍路転がしの坂とは歩き遍路の途上にある険しい道のことです。お遍路さんが坂を転げ落ちる尾で、遍路転がしといいます。いくつかありますが、最初にぶつかるのが藤井寺から焼山寺までの道で、そして現在のお遍路ルートの中では最も長い未舗装路です。完全な登山路で、全長13㎞くらいあります。高さ800mほどの山を3回越えなければなりません。

登山に慣れた人にとっては、これは初級なのですが、京大阪といった平坦な都会に慣れた人たちにとってはとても大変だったろうと思います。間違いなく足腰を痛めたことでしょう。

 

焼山寺の本堂の左手から山道に入っていきます。しばらく石仏が並ぶ道を歩いていくと、やがて登山道に入ります。道はきれいに整備されており、乾いているので歩きやすいです。傾斜も登山道としては緩やかです。

  Henrokorogashi01_20210213152801

1時間ほど歩くと、眼下の徳島平野が一望できる場所があります。

Henrokorogashi02

中央に川に囲まれた田園地帯が見えるでしょうか。これが粟嶋(善入寺島)です。とても広い中洲です。

Henrokorogashi03

行程の1/3くらいの場所にある長戸庵というお堂。近くに公衆便所があります。

次のトイレは焼山寺の直前にある柳水庵なので、ここで用を済ませておいた方がよいでしょう。

Henrokorogashi04

行程の中間点あたりにある一本杉大師。杉の大木と、お大師さんの大きな銅像があります。ここまで来ると人里から隔絶していてとても静かです。

800mくらいの山を3つ越えると左右内の集落があります。ここからの最後の坂が非常に急です。山の中腹にある焼山寺まで300mを一気に登ります。最後の難所です。

Henrokorogashi05

水平距離ではすぐ横のはずなのですが、焼山寺がなかなか見えません。一時間くらい急坂を上ると急に参道に出ます。やっと焼山寺につきました。藤井寺を出てから4時間半でした。山に慣れていない人だと6時間かかるでしょう。

 

第十二番 焼山寺

摩廬山 性寿院

ご本尊 虚空蔵菩薩

Shozanji01

きれいに掃き清められた境内に、杉の大木が並びます。奥に見えるのが本堂です。この山では役小角が修行したとされ、弘法大師も来て、村人を悩ます大蛇がいて炎の幻影で弘法大師を悩ませたと言います。弘法大師が印を結んで祈ると虚空蔵菩薩が現れて、大蛇を巨大な岩に封じ込めました。そのためこの山を焼山寺と呼ぶようになったと言います。

Shozanji02  

焼山寺の大師堂。

大蛇を封印したという巨岩と、役小角が蔵王権現を祀ったという奥の院は焼山寺の山頂にあります。私も奥の院までお参りしてきました。巨岩はかなり迫力がありました。そして巨岩の手前にニホンカモシカがいて私のことを見ていました。野生のカモシカを見たのは初めてだったのでとても興奮しました。本堂から奥の院は歩いて往復1時間半。山は陽が沈むのが早いですから、お昼には本堂につかないと、奥の院までお参りするのは厳しいでしょう。

Shozanji03 

奥の院から四国山脈を眺める。この辺りは四国で最も山が険しいです。一番奥に見えているのは恐らく剣山なのではないかと思います。

 

さて歩き遍路ですので、ここから宿まで歩かなければなりません。これが大変。この日は神山温泉に宿を取ったのですが、町営バスが走っている県道まで2時間歩きました。

Saunai

左右内川。

Kamiyama01

この日は木星と土星が最接近しました。大きな木星と小さな土星がキラキラと冬の夜空にきらめいていました。さすがは木星、スマートフォンのカメラでも撮影できました。

神山温泉は町営の温泉施設で、宿泊施設も付随しています。肌がすべすべになる白いお湯が特徴。とても温まります。遍路転がしで疲れた足腰を癒すことができました。ホテルのレストランの食事もおいしかったです(7時ラストオーダーなので注意)。部屋も広くて快適でした。

2021年2月13日 (土)

房総半島太平洋側の神社

房総半島の太平洋側にある神社にお参りしてきました。

 

1)玉前神社(上総国一ノ宮)

千葉県長生郡一宮町にある玉前神社。文字通り上総の国一ノ宮です。一宮というのは、院政時代以降にその国の代表的な神社を自然と呼ぶようになったものです。上総国は玉前神社、下総国は香取神宮、安房国は安房神社(忌部神社)です。房総三国の一宮には、海に所縁のある神様が選ばれています。

玉前神社に祀られているのは、玉依姫命です。玉依姫命は、大綿津見命(大海神命)の娘で、豊玉姫命の妹です。豊玉姫と日子火火出見命(山幸彦)の間に生まれた鵜茅葺不合命を乳母として育て、命が長じてはその妻となり生まれた子供が日本磐余彦命(神武天皇)です。

ダウンロード 神代系図 - shindaikeizu01.pdf

そのため玉依姫命は縁結び、子授け、出産などの神様とされ、北条政子が懐妊の折、源頼朝は安産を願って玉前神社に捧げものをしたことが伝わっています。

 

上総国の玉前神社には上総十二社祭という房総半島では最古の浜降り神事があります。玉依姫とその一族の神々が釣ヶ崎の海岸に集まって再会するという壮大な祭です。下総にも平安時代になって始まった神幸祭が伝わっています(後述)。

 

境内には小さな白石を並べた環状の通路があり、そこを裸足で三周すると健康になるとされています。トライしてみましたけれども、足のツボが刺激されてめちゃくちゃ痛かったです。

 

2)玉崎神社(下総国二宮)

上総国一ノ宮は九十九里浜の南端にあります。浜の北端である旭市飯岡にも玉依姫を祀った玉崎神社があります。こちらは下総国二宮に選ばれています。

玉崎神社は日本武尊が人柱になった妻の弟橘姫を偲び、海神を鎮めるために玉依毘売命(玉依姫)の神霊を祀ったとされています。パンフレットによると、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤らが参拝したそうです。最古の記録は崇徳天皇の長承年間から残っているそうです。

飯岡は天保水滸伝のモデルとなった飯岡助五郎が活動していた土地でもあります。座頭市のモデルも飯岡に住んでいたと言われています。江戸時代には東回り航路の風待ちの湊として銚子は栄えました。平田篤胤も滞在しています。

 

3)橘樹神社

茂原市にあります。日本武尊が海神を鎮めるために人柱になった妻の弟橘姫を偲んで、海岸に漂着した櫛をこの地に祀ったのが始まりといわれています。川崎市にある橘樹神社に伝わるご由緒と同じです。上総国二宮です。

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拝殿の扁額は東郷平八郎の揮毫です。海の守護神ですし、弟橘姫が入水した走水は横須賀の鎮守府の沖だからでしょう。

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神社にいた猫ちゃん。尻尾が太くて狸のようでした。

 

4)猿田神社

銚子市にあります。垂仁天皇の時代に創建されたとされています。平安時代初期にはあったことが確認できます。民衆から強く信仰されており、茨城県や千葉県には猿田という名字の人が多くいます。とても霊験あらたかな神社なのだそうです。猿田彦神も海に所縁のある神様です。

 

5)雷神社(らいじんじゃ)

旭市見広にある神社。この地域はかつては海上と呼ばれており、東側には椿海という大きな湖が広がっていました。神社は50mの高台の上にあります。

神社の縁起によると、応神天皇の御世に下海上国造となった久都伎直(くずきのあたえ)が、自らの祖先神を奉祀したと言われています。

御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)です。天穂日命は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた五男神三女神のうちの一柱です。天から大国主命の元に遣わされたとされています。出雲国造や土師氏の祖になったとされています。すなわち久都伎直は出雲国造系の氏族ということになります。

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印旛沼周辺と椿海の西側の匝瑳には、登美命(長髓彦、櫛玉命)と饒速日尊を信仰する物部氏が住んでいました。鹿島には武御雷神が祀られていています。武御雷神は天孫系の神様。香取には経津主神が祀られています。出雲に残る神話では、天穂日命は経津主神と共に地上を平定したことになっており、物部系の天孫の信仰が強い下総国の中にあって、香取と海上はなぜか出雲系の信仰を持つ人たちが生活していたようです。

あるいは、景行天皇が亡き日本武尊を追慕して東国を巡幸された際に、椿の海の東端の高台に立たれ、ここに東国鎮守として一社を創建したともいわれています。

東大社、豊玉姫神社、雷神社の3社は20年に一度、銚子の渡海神社まで神輿で渡御して集合する式年大神幸祭を行います。東大社、豊玉姫神社がある香取と雷神社がある海上から、渡海神社がある銚子までは20㎞以上あり、数日かかる大規模な祭礼です。平安時代から千年、合計54回、戦国時代の混乱を除いてほぼ欠かさずに20年に一度行われてきました。混乱した際も一年ずらしただけで、やはり祭礼は挙行されています。

 

6)渡海神社

銚子市外川浦にあります。御祭神は綿津見大神と猿田彦命です。猿田彦命を祀っているのは、この土地が人々が集まり散っていく道標となる場所であることによるそうです。外洋に突き出た銚子にふさわしい伝説といえます。

文字通り、遠方から海を渡って人々が移住してきたことを記憶する神社です。式年大神幸祭では、東大社、豊玉姫神社、雷神社の神輿がここに集合します。鎮守の杜は鬱蒼とした照葉樹林の極相林で、小さな丘によって周囲からは隔絶していて境内は静寂が支配しており、厳粛な気持ちになりました。

 

房総半島の海神系の神社には天孫の影は薄く、大和朝廷によって神話が再編成される前の、海人族の古い信仰を伝えていると言えそうです。つまり豊玉姫や玉依姫は祀られているけれども、その夫である日子火火出見命や鵜茅葺不合命の伝説は残されていません。この地域の天孫は印旛沼や匝瑳の物部氏が信仰していた饒速日尊ですが、物部氏は房総の海人族とはあまり交渉を持っていたようには見えません。

記紀神話を分析する際に、海人族は天孫神話を生み出した母胎とされることも多いのですが、房総に残る海人族の神話を見る限りでは、海人族と天孫はやはり別物であったと考えるべきかと思います。

印旛沼周辺の麻賀多神社では豊受大神が信仰されており、その祖神として稚産霊命と稚日女尊が祀られています。豊受大神が天照大神とは独立した別の神様だったことが分かります。

天照大神の原型ともいえる養蚕の神は、神栖や筑波山周辺で信仰されています。

この房総と常陸国の神様の分布は、大和朝廷が記紀神話を創り出す前の日本の原始的な信仰を良く保存していると言えるのではないでしょうか。

そして関東では皇祖神は神倭伊波礼毗古命(神武天皇)ではなく、誉田別命(八幡神)であるのです。関東でも皇祖神は古くから信仰されていましたが、それは天照大神でも神武天皇でもないのです。それが意味するところは私もまだよくわかりません。しかし古代の日本人は、神を統一しなくても、日本人としてのアイデンティティーを共有することに支障はなかった。そういうあり方もあることは指摘しておきたいです。

2021年2月 6日 (土)

稲毛三郎重成(源頼朝の弟たち)

稲毛三郎重成は鎌倉時代初期の御家人です。武蔵国で強い勢力を誇った秩父氏で、今の川崎市宮前区、多摩区、麻生区を領地としていました。源頼朝と同時代の人物です。

 

稲毛重成は坂東武士の鑑と讃えられた畠山重忠と従兄弟でした。源平合戦では、畠山重忠の弟分としていつも一緒に戦っていたと言われています。さらに稲毛重成の妻は北条政子の妹でした。つまり稲毛重成は初代将軍源頼朝と義兄弟です。

 

この時代の重要人物を秩父氏を骨格としてまとめた系図です。

ダウンロード - gokeninkeizu01.pdf

秩父氏は北条氏、多田源氏(清和源氏)、比企氏といった名族と姻戚関係を結んでいました。それは秩父氏が武蔵国国司の代理である検校という役職に代々就任していたからです。実質的に現地のトップとして、武蔵国の国衙領(朝廷の直轄領)を管理していました。秩父は鉱業や養蚕で豊かでしたので、周辺の武将は秩父氏と血縁関係を結ぶことを望んだのです。

 

しかし、秩父氏は源氏と北条氏によって弱体化させられます。まず源義経と血縁関係を結んでいた河越氏が源頼朝によって滅ぼされます。河越氏は武蔵国検校職を持つ秩父氏の棟梁でした。次いで畠山重忠が北条時政に謀殺されます。その際には、時政の娘婿である稲毛重成も心ならずも北条氏に加担してしまいます。さらに稲毛重成も重忠を殺した罪を着せられて殺されます。武蔵国検校職は再び河越氏に戻りましたが、昔日の面影はなかったと言います。

 

というわけで身近な御家人稲毛氏の関連の史跡を回ってみました。

 

(1)枡方城跡

小田急向ヶ丘遊園駅から南に200m行くと丘陵があります。これが稲毛氏の城塞枡形城の跡地です。高さは50mくらいですが、東京23区と川崎市南部を見下ろすことができる要害の地です。跡地は生田緑地として公園になっています。

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公園には展望台があります。東は筑波山、東京スカイツリー、新宿副都心、西は丹沢富士山まで見通すことができます。

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見張り小屋があった場所からの長めです。都心のビル群が見えます。

枡形城は関東北部の勢力から鎌倉を守る要でした。

 

(2)広福寺

枡形城の北側には広福寺というお寺があります。ここは飛鳥時代からの由緒あるお寺で、鎌倉時代に稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)を弔うために、自分の館をお寺に改装したと言われています。

 

広福寺の境内の石碑から書き写した由緒書きです。

 

当寺は平安時代仁明三年承和四年慈光大師(圓仁)の開山。開基は狛江郷主の一族刑部広主(広福長者)の妻直刀自が主人為建立の寺。

中興は鎌倉時代源頼朝の御家人稲毛庄長者(現川崎市現稲城市)稲毛三郎重成の館となる(

 ・父は現町田市の領主小山田別当有重

 ・母は現宇都宮市の領主宇都宮宗綱の娘

 ・重成は畠山重忠とは従兄弟)

重成の内室は北条四郎時政の娘で将軍頼朝の妻政子の実妹。

然后建久六年七月重成妻病没。悲しみに堪えず入道館を氏寺として広福寺を中興する。

建久九年十二月廿八日相模川に架橋(馬入橋)て妻の冥福を祈る。将軍橋の渡り初めに臨み落馬して翌正治元年正月死亡する。

後稲毛、畠山(秩父一族)北条氏の陰謀により元久二年六月滅亡する。当寺広福寺は初めは稲毛館により稲毛寺と称す。

天正時代に信州松本氏一族が入山し、松本山とも称す。

永正元年九月北条早雲今川氏親の軍当寺に座陣。永禄十二年六月武田信玄の軍当寺に攻め寄せ、横山式部少輔弘成防戦する。

      稲毛山広福寺第四十一世勝健代

 

この寺の創建は平安時代で狛江の領主が願主になったそうです。狛江の領主といえば、飛鳥時代に調布市の深大寺を創建した一族と同じです。深大寺は織物業と深いつながりがあるお寺ですが、その一族が橘郡まで勢力を伸ばしていたのでしょう。そして、平安時代末期の御家人もその基盤を受け継いでいたと言えます。

また、稲毛重成は源頼朝の死因となった相模川の橋を架けた願主であったこともわかります。稲毛重成が亡き妻を供養するために、寄付して架けた橋でした。その落成記念には義理の兄である頼朝も出席しないわけにはいきません。ただしその後、落成供養の主宰者である稲毛重成が何ら咎めを受けていないところを見ると、頼朝の落馬は純粋な事故なのかもしれません。

実は頼朝が落馬したという伝説は世田谷区の駒繋神社にもあります。頼朝はもしかしたら乗馬があまり上手ではなかったのかもしれません。弓の名手だったという伝承はあるのですが、馬についてはあまり良い評判が残っていません。頼朝があまり戦いに出たがらなかった原因かもしれません。

升形城(広福寺)が要害の地であったことは、戦国時代にも有名な武将が立てこもっていたことからもわかります。

広福寺は稲毛準西国観音霊場の第一番札所です。

 

(3)妙楽寺

広福寺の南東の長尾丘陵には妙楽寺という天台宗のお寺があります。ここは平安時代初期の文徳天皇の時代に創建された威徳寺の跡地なのではないかといわれています。

Nagaoji01

威徳寺には源頼朝の弟で義経の同母兄である阿野全成が住職となっていて、源氏の祈願寺として重視されました。

Nagaoji02

長尾に行ってみればすぐにわかりますが、ここは多摩川からちょっとした崖になっていまして、やはり要害の地です。頼朝は、弟である阿野全成(僧侶だった)をこの寺に配置することで、鎌倉の守りを固めようとしたと考えられます。

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妙楽寺は現在は紫陽花寺として親しまれています。

 

(4)寿福寺・九郎明神社

川崎市麻生区の読売ランドから新百合ヶ丘にかけては、源義経の伝説が残っています。

読売ランドの東麓にある寿福寺には、逃亡途中の義経が立ち寄ってお経を奉納したという伝説があり、新百合ヶ丘の九郎明神社は義経を祀っています。そのほかにも二枚橋など多く伝承が残ります。これは義経の家臣がこの土地を領地としていたためそのような伝説が残ったのでしょう。

※真偽は不明ですが、関東で源氏は犬養系(犬飼)の集団を取り込んでいったという考察がありました。http://www.raifuku.net/special/wolf/wolf_top.html

また、 たまプラーザ駅付近には「犬蔵」という地名があります。光明皇后の母親である縣犬養美千代(橘美千代)と影向寺の繋がりを調べる過程で、武蔵の国にも犬養氏がいたことが浮かび上がってきたのですが、源氏と犬養というのも気になる説です。

 

このように、川崎市北部には稲毛重成、阿野全成、源義経という源頼朝の義理と実の弟が三人配置されていました。頼朝は当初は、鎌倉の北の守りを、弟たちに任せるつもりだったのかもしれません。現在の埼玉県東部を支配していた秩父氏としても、神奈川県北部に住む稲毛氏や河越氏と源氏の間に血縁関係を結ぶことによって、鎌倉との間に緩衝地帯を作りたかったのかもしれません。しかし運命のいたずらか、やがて彼らは頼朝自身の手により、あるいは北条氏の手にかかって、次々と討ち取られてしまったのでした。

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