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2021年4月26日 (月)

ビックニープリキoア 第9話~第20話

いやー「トロピカルージュプリキュア」面白いですね!個人的にはプリキュア最高傑作の一つです。ストーリー性ではハグプリに軍配が上がるけれど、面白さではトロプリに軍配を上げたい。面白さでは初代に引けを取らないのではないでしょうか。子供向けはこんな愉快な感じで良いのですよ。

てなわけでトロプリがネタに困らないように、我がビックニープリキoアも第9話以降を考えてみようと思います。

 

第9話「たぬき富士をこえて行こうよ、レッツ・ラ・ハイキング!」

第8話で解散の危機を乗り越えた4人、謎の子供が影から観察していた・・・

定石では第9話あたりでストーリーに変化が加わります。ハグプリでは第8話に若宮アンリが、第9話で愛崎エミルが登場しています。スタプリでは初めて宇宙に飛び出したのが第8話でした。ですのでここで宇宙パトロールのギョーキを登場させましょう。親から捜索願の出ているジャキを保護しようとしたら、逆に児童相談所の不比等さんに保護されてしまうというカオス回にします。

 

ギョーキがしょうゆ豆小学校に入学するのを第13話に持ってくるとして、第10~14話はギョーキが一人でボンノー帝国に対抗しようとして、失敗して眞魚たちがそれをフォローするという展開がいいかもしれません。

 

第10話「ありえな~い!うどん屋さんは大忙し」 ミミが祖父母の手伝い

第11話「輝け☆胎蔵界の力!」 合体技マンダラウェーブが発動

第12話「さよならギョーキ!?家出少女は宇宙人☆」 見守り活動をしていてひろのの母の藤子がギョーキを家に連れてくる。藤子はギョーキを不比等さんに引き渡すかどうか迷うが、最終的に明渚が身許引受人になって小学校に通うことになる。

第13話「ギョーキのドキドキ初登校☆」未開な星の小学校になんか通えるかとぶつぶつ言っていたギョーキであったが、眞魚の弟の眞雅や小角の妹の白子となぜか意気投合してしまう。

 

第14話から第20話は追加戦士がプリキoア側に寄っていく流れです。ここらでキンナラとカルラの絡みを入れてみたいです。キンナラはがさつで口が悪いのですが、実は・・・という設定を用意しています。これは最終回で呪いが解けて人間体になるときにわかる。カルラは男性ですがなよなよとしている、キンナラはそこが気に入らなくてカルラにはきつく当たります。

 

第14話「笑顔でパーティー、家族の流し素麺」 弟妹たちが小角の誕生日会を企画、眞魚たちが手伝う

第15話「迷コンビ・・・?キンナラとカルラのとある日」畑で金時人参の世話をするカルラのところにキンナラがやって来て…

第16話「メッチャ危ない、体験入学」ひろのは大きな橋を渡って、対岸の倉屋敷市の女子高に体験入学する。眞魚も家族で鷲羽山入らんどに遊びに来ていた。

第17話「ゴールデンウィークだよ☆納経所は大忙し!」お遍路さんのシーズンで阿理恵那井寺は大忙し。プリキoアの4人は明渚を手伝う。

第18話「哀しみの御詠歌、ジャキのヒミツ!」小学校を遠巻きに見ているジャキにギョーキが気が付く。ギョーキはジャキに一緒に遊ぼうと誘う。

 

第19話「敵?味方?コクーゾーの面談」成績が思わしくないギョーキを心配して上司が面談に来る。

第20話「ため池に光る☆キoアジゾー誕生!」前に出した配置転換の希望が通ったギョーキ、しかし彼女は浮かない顔をしていた。

2021年4月22日 (木)

宗任神社(2)

ダウンロード -奥州安部・藤原・清原氏系図 abekeizu.pdf

 

宗任神社が下妻に建てられた理由その一は、松本氏と奥州藤原氏が同族であったことです。

人物叢書の「奥州藤原氏四代」(高橋富雄)によると、前九年の役を記した「陸奥話記」で、陸奥守源頼義が藤原経清を「源家累代の家臣」と呼んでおり、経清の父祖が源氏と主従関係を結んでいた時期があることがわかります。

尊卑文脈には藤原経清は秀郷流藤原氏で、父は藤原頼遠で下総国の住人とあります。藤原秀衡を秀郷流とする記述は吾妻鏡にも見えます。高橋氏は平忠常の乱(1028~31)を契機にして、藤原頼遠は源頼義の配下に入ったのではないかと推測しています。

茨城県の鬼怒川以西はかつては下総国でした。宗任神社がある豊田郷は鬼怒川の東にありますが、川からは数㎞しか離れていません。当時は鬼怒川の支流が縦横に走っていましたので厳密な国境は無かったでしょう。藤原頼遠が下総国の住民で、下妻の辺りに住んでいた可能性もあるでしょう。

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宗任神社の縁起によると、松本氏がこの地にたどり着いた経緯はこうです。

天仁二年(1109)、安部氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により、旧臣二十余名とともに宗任公着用の甲冑の青龍と遺物を奉じて、奥羽の鳥海山のふもとから、当地(旧黒巣の里)来住して鎮祭した。

鎮座するにあたって宗任公の霊は「天道・人道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人は健やかに、地は栄えるようになるであろう」と告げたので、以来この地は宗道の地となった。

宗道には宗任の首塚と称されるものもあります。しかし安部宗任は西国に流されて七十歳で亡くなっていますので、この地に首塚があるのは不思議です。しかし1109年は宗任の亡くなった時期に近いです。

 

まず、秀郷流の根拠地は関東、しかも常陸や下妻の辺りでしたので、松本氏がそのつてを頼って下妻に落ち延びた可能性は高いのではないでしょうか。

 

後三年の役が終わり、源義家が陸奥守を解任されたのが寛治元年(1087)です。嘉保三年(1096)には源義家が朝廷に年貢を未進した記事があり、源義家は破産しています。この後しばらく多田源氏は落ち目になります。それに反して、安部宗任の甥にあたる藤原清衡は、奥州安部氏の後継者として奥六郡を掌握し、さらに後三年の役で清原氏の仙北三郡も掌握して、陸奥国の覇者になりました。

宗任神社ができたのが1109年ですので、奥州藤原氏が盤石となって、安部氏の縁者が復権できたのがその頃なのかもしれません。

藤原清衡は、子息の基衡の妻に安部宗任の娘を迎えます。奥州安部氏の後継者としての地位を固めるためでしょう。秀衡が生まれたのが1122年ですので、宗任の娘が平泉に入ったのはちょうど1109年頃です。この頃清衡は盛んに摂関家に貢物をしています。もちろん官位をもらって立場を固めるためですが、安部氏の縁者の恩赦も頼んだのかもしれません。

私は源氏が失脚した1090年頃に安部宗任は西国から関東に入り、その時に生まれた娘が基衡の妻になったのではないかと思うのです。だから宗任の墓が下妻にあるのではないでしょうか。藤原清衡の父祖の地である下妻に宗任を匿ったのではないでしょうか。それによって奥州の武士の心をつかんだと言ったらどうでしょうか。

基衡と宗任の娘の間に生まれたのが藤原秀衡です。ですから秀衡は安部宗任の孫なのです。

 

次回は下妻に残る古代の信仰の痕跡です。

2021年4月19日 (月)

宗任神社(1)

茨城県下妻市の宗任神社(むねとうじんじゃ)へお参りしてきました。御祭神は安部宗任。

 

ダウンロード -奥州安部・清原・藤原氏系図 abekeizu.pdf

 

安部宗任とは前九年の役(1051-1062)で陸奥守源頼義・義家に敗北した奥州安部一族です。奥州安倍氏は奥六郡(今の岩手県)の支配していました。鎮守府(京都の朝廷の出先機関)と融和的であったのですが、源頼義と対立し、十数年にわたる戦いの末に敗れます。

前九年の役の際の奥州安倍氏の当主は安部頼時、戦いで先頭に立って奮戦したのは長男の安部貞任でした。安部貞任は大河ドラマの「炎立つ」で村田雄浩さんが熱演されていたので覚えている方もいるかもしれません。

しかし、奥州安部氏の嫡男は三男の安部宗任だったと言われています。それは宗任の母が仙北三郡(秋田県)の長である清原氏の出身だったからです。鳥海の柵を任されていた安部宗任は途中で源氏に降伏し、筑前国宗像に流されました。連行された京都で梅の花を見せられて、見事な歌を詠んで都人を驚かせたと言われています。

 

安部宗任の家臣松本秀則と秀元は、源氏の追っ手を振り切って逃げて、会津から鬼怒川を下って下妻の豊田に流れ着いて住みつきました。そしてその地にかつての主君を偲んで宗任神社を建てたとされています。

神社の由来では神のお告げでたどり着いたことになっていますが、松本氏がこの地に土着したのは二つの理由から必然でした。それをまず松本氏と奥州藤原氏の関係、そして下妻に残る古代の信仰の痕跡から解明していきましょう。

Muneto01

宗任神社参道

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