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2021年5月18日 (火)

ビックニープリキoア 第21話~第30話

第20話でギョーキがキoアジゾーに変身、ジャキはしょうゆ豆小学校の子供たちと交流するようになり、ボンノー帝国から離れていきます。ジャキと入れ替わるように、第21話から腹黒伯爵が登場。強力なメカにより、プリキュアたちは一敗地にまみれ、明渚が5人に稽古をつけて眞魚たちはレベルアップします。

 

第21話「源内の再来!腹黒伯爵現る!」メカにより町が制圧されてしまった。プリキoアはやむなく音平神社の奥宮に撤退する。

第22話「地獄の特訓!五人でプリキoア!」鞍馬天狗のような姿をした黒い女戦士と、春映画に登場した白い女戦士の特訓により戦闘力を上げた五人はチームプレーで街を取り返す。

第23話「届け!思い出の団扇!」眞魚たちを謎の少女が訪ねてきた。彼女はジャキの幼馴染だった。

第24話「盆踊りとシキーマのヒミツ」盆踊り大会にシキーマが乱入し、村中の男どもが悩殺されてしまうが、宮司の機転でシキーマが優勝者になって丸く収まる。

 

ここからシキーマと音平神社宮司の恋物語がサブストーリーとして進みます。

 

第25話「男はつらいよ!駐在さんの長い一日」シキーマに一目惚れした駐在さん、しかし全く相手にしてもらえない。

第26話「あの子のハートをキャッチ♡みんなの地蔵盆」しょうゆ豆小学校の子供たちに、ジャキとその幼馴染も加わって、地蔵盆を楽しむ。

第27話「お姉ちゃんはキャンプマスター」サラスバティーキャンプ場でキャンプ。小角は夜半にギョーキがテントを抜け出し腹黒伯爵と密会するのを見てしまった。腹黒伯爵はギョーキの元同僚だったのだ。ギョーキはなぜ裏切ったのかと詰め寄るが、腹黒伯爵は言を左右にして答えない。

第28話「大社長に密着!ミミとお母さん」親子で瓦煎餅商店街に買い物に行く予定が、母親に急な仕事が入ってふいになってしまったミミ。変身技を使って母親の仕事ぶりを見に行く。

第29話「大渇水!うどんの村は大混乱」雨不足により山奥のダムで取水制限が始まる。そんなことはお構いなしに、お昼時に村人が一斉にうどんを作り始めたことで水道の水が枯れてしまった。所謂カオス回。うどんを求めてさまよう村人にボンノー帝国もたじたじになる。

第30話「がんばって!お父さんの村興し」役場の地域振興課に勤めるひろののお父さんは村興しのアイデアが浮かばずノイローゼ気味になっていた。眞魚たちが手伝おうとするが・・・

2021年5月16日 (日)

筑波山周辺の鯨

1)筑波山周辺の鯨地名

筑波山といえば茨城県出身者にとっては感慨深い山です。そして古代の遺跡や、古い神社やお寺が筑波山を取り巻くように分布しています。関東の古代史マニアには避けて通れない山です。

筑波山については大和の朝廷も注目していたようで、古事記、日本書紀、万葉集、常陸国風土記は筑波山を豊城入彦命、日本武尊の伝説とからめて記録しています。そして筑波山の歌垣について詳細に記録しています。

歌垣というのは、若者たちが筑波山に登って男女が夜通し無礼講で遊んだお祭りのことです。歌垣の夜だけは性的な発散が許されたともいわれています。結婚相手を探すお祭りだったともいわれています。風土記や万葉中にその様子をうたった歌が残されています。

ダウンロード - 筑波山古代関連図 tsukubakodaimap.pdf

 

 

筑波山の周囲には鯨地名が少なくとも3つあります。下妻市の鯨、石岡市(旧八郷町)の鯨岡、筑西市(旧下館市)の久地楽です。

 

下妻市の鯨には、先に見たように平将門伝説、奥州安部氏の伝説が残されています。この辺りでは奈良時代から製鉄が行われていて、栗山観音に残されている薬師如来像は、製法と造形から、奈良時代から平安時代初期にかけての仏像であることが分かっています。古い歴史がある土地です。

下妻の鯨から筑波山を挟んで東北には石岡の鯨岡があります。鯨岡には足尾山の里宮である葦穂神社があります。徳一創建の西光院や薬王院があります。

徳一とは奈良時代後期の僧侶です。藤原仲麻呂の末子で少年時代に出家しました。しかし出家していたおかげで、父が反乱を犯した際に罪一等を逃れ常陸国に流罪になりました。常陸国と磐城国で数多くの寺を建立しました。天台宗の最澄との論争、真言宗の空海が蔵書の写経を依頼した手紙などが残されています。空海と最澄も一目置いた僧侶でした。

筑波山の北にも久地楽という地名があって、新治郡衙跡が発掘されています。新治国造が葬られたとみられる古墳もあります。

 

2)石岡の鯨岡

石岡の鯨岡に行ってきました。写真と共に紹介します。

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鯨岡の集落センター

石岡駅から関東バス柿岡車庫行に乗り、終点で降ります。そこから歩いて30分くらいで鯨岡につきます。集落の名前は葦穂(あしほ)です。これは足尾山の麓であることからついた名前です。足尾山は明治以前は修験道の道場でした。

 

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葦穂の集落にある鯨岡山照岩寺。

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山号が鯨岡山になっています。珍しい名前のお寺です。

 

葦穂から東北に2㎞くらい登ったところに長楽寺という山寺(今は無住)があります。このお寺は時代劇の撮影でよく使用されることで一部では有名です。

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長楽寺の本堂。大河ドラマの「武蔵」や「篤姫」で使用されたそうです。村の青年がこの山で修行して天狗になったという伝説があります。

 

3)豊城入彦命

鯨岡の東側には、佐治塚古墳、丸山古墳があります。茨城県では最古、最大級の前方後方墳です。4世紀頃の築造といわれています。伝説では豊城入彦命が葬られたとされています。

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豊城入彦命ととは第10台崇神天皇の長男。垂仁天皇の異母兄、豊鍬入姫命の同母兄です。

古事記や日本書紀によると、どうやら上古の天皇家は末子相続だったらしく、長兄が弟を補佐した、あるいは神官になって一族を霊的に保護したという話がよく出てきますので、豊城入彦命もそのような役割を与えられた皇子だったようです。

豊城入彦命は、父崇神天皇が見た夢のお告げにより、東国を平定する役割を与えられて関東へ旅立ったと言われています。そして上毛野国造の祖先となりました。なので群馬県に多く伝説が残っているのですが、筑波山にも伝説が残っています。

崇神天皇がいた時代は4世紀頃といわれています。しかし群馬県の豊城入彦命関連の遺跡は5世紀以降が多いのです。従って豊城入彦命の墳墓としてはむしろ茨城県石岡市の丸山古墳の方がふさわしいと言えます。丸山古墳は北関東では最古級で、同時代では関東最大級の古墳です。どうやらこの時代に石岡の辺りに強い権力を持ち、大和と強いつながりを持つ人物がいて、それが古墳の文化を持ち込み、葬られたのは間違いなさそうです。

 

4)豊鍬入姫命

豊城入彦命の同母妹である豊鍬入姫命は、崇神天皇に命じられて、天照大神の御神体を宮中から三輪山の麓に遷座させたお姫様です。この時代、倭迹迹日百襲姫、豊鍬入姫命、倭姫命と3代にわたって天皇家の女性が神話に残っています。

これは天皇家の若い女性が、神に仕えたという伝説です。

  倭迹迹日百襲姫 三諸の神(大己貴命)の妻

  豊鍬入姫命   天照大神の御神体を宮中から三輪山の檜前に遷座させる

  倭姫命     天照大神の御神体を三輪から伊勢の山田に遷座させ、伊勢神宮を創始する

この3人の役割分担は、天照大神信仰が出雲の影響を脱していく過程を示しているようで興味深いです。やがて伊勢の斎宮に発展していく、皇室による天照大神の祭祀の萌芽が見られます。豊城入彦命と豊鍬入姫命の家系は、太陽神の神官として重視された家系だったのかもしれません。

筑波山の男体山と女体山は、やがて伊耶那岐命と伊耶那美命に擬せられていきますし、筑波山の南の六所皇大神宮は伊勢神宮にも認められた天照大神を祀る重要な神社でした。六所皇大神宮には、蝦夷征討から平安京に帰還する坂上田村麻呂が、神鏡を奉納し鳥居を新設したと言われています。明治三年に「石鳥居征夷大将軍坂上田村麿建立之 」と刻まれた鏡が鳥居の柱の下から発掘されています(筑波山神社に保管されているらしいですが、学問的な調査はまだされていないとのことです)。

陸奥国には、坂上田村麻呂が徳一と協力して寺院を建立したという伝説が複数あります。坂上田村麻呂が、徳一の本拠地である筑波山を訪ねて、神社に奉納したというのはありそうなことです。

筑波山には天照大神が幼少期を過ごしたなんて楽しい伝説も残っています。筑波山は天照大神信仰とも関わりが深い山であるのです。

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筑波山の南の蚕影神社。

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六所皇大神宮奥の清流


以上のように石岡の鯨岡は豊城入彦命と繋がりがあるようです。

新治の久地楽と久慈郡の鯨岡はあの日本神話のスーパースター日本武尊と関わりがあります。これについては、いずれ世情が落ち着いてから調査をしてご報告したいと思います。

2021年5月 9日 (日)

宗任神社(3)

宗任神社がある宗道からに3㎞くらい東に鯨という地名があります。周囲より1-2mだけ小高くなった小貝川の自然堤防の上にできた集落です。幅は東西に700m、南北に長さ2㎞弱の自然堤防のようです。鯨には県道56号が通っており、古代には交通の要衝であったことが分かります。地図をご覧ください。

ダウンロード - 下妻市古代関連地図shimodumamap.pdf

 

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鯨地区の電柱、確かに住所が「鯨」です。

 

(1)古代交通の要衝だった鯨村

鯨の特徴

  1. この地域は下総国豊田郡で、常陸国新治郡、白壁郡、筑波郡、河内郡、下総国結城郡、猿嶋郡の中心部にあって交通の要衝
  2. 県道56号(古代の道路?)が小貝川を渡る地点で、子飼之渡しがある
  3. 子飼の渡しから常陸国筑波郡の中心地を通る。そこで県道24号に乗り換えると、金田官衙遺跡(河内郡衙)を通る、そして国道6号に乗り換えて石岡(常陸国府)に到る。
  4. 県道56号を西に向かうと柴崎古墳群と仏性寺がある。仏性寺は寺伝によると聖武天皇の時代の創建で、奈良時代~平安初期に作られたと考えられる、東国最古級の仏像が伝わっている
  5. 小貝川と鬼怒川に挟まれた地域には、かつて下総国豊田郡という細長い郡があった。その中心地は豊田館があった石毛付近と考えられる
  6. 鬼怒川の左岸には柴崎古墳群、香取神社古墳、矢尻北古墳、秋葉山古墳が分布
  7. 南西には尾崎前山遺跡がある。奈良時代から平安時代にかけて製鉄をしていたことが確認されている。

このように、鯨から石下の周辺には古代の遺跡が集中しており、古くから交通の要衝であったことが分かります。現在の道路交通は国道125号を中心にしていますが、中世までは下妻市の中心部には大きな沼がありましたので、古代道路は県道56号がメインルートであったはずです。この古代のメインルートが鬼怒川を渡る宗道と小貝川を渡る鯨は、非常に重要な土地でした。

 

平将門は石毛駅の西にあった豊田館で生まれたとされ、壮年期には宗道駅のすぐ近くの鎌輪之館を本拠地としていました。そこから西に一里ほどで尾崎前山遺跡製鉄炉跡があり、平将門時代に稼働していたことが確認できますので、平将門の乱は交通の要衝と製鉄を巡る争いだったのではないか、という推測ができます。

 

(2)鯨村と日光久次良氏とのつながり

以前に鯨という地名は古代の祭祀の痕跡ではないかという自説を紹介しました。下妻市の鯨には図書館やネットで調べた限りでは、明確な古代の祭祀の証拠は出てこなかったのですが、山岳仏教、特に日光の勝道上人とのつながりがありそうなことが分かりました。

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鯨の北部に甲神社と香取神社(旧鎧神社)があります。社伝では松本秀則が安部宗任の鎧青龍と一緒に、陸奥国鳥海山から落ち延びて宗道の地に落ち着き、鯨に鎧兜を埋葬してそれが神社になったとしています。京都に将軍塚がありますが、古代には甲冑や武人の像を埋めることで、住居を呪術的に防御する信仰があったようです。古墳の埴輪まで遡れる風習かもしれません。

撮影した写真を間違って消してしまって残っていないのですが、香取神社には御嶽神社の石碑があり、石裂山大権現が祀ってあります。こちらのページに詳しいです(茨城見聞録、阿部宗任ゆかり久千代川村の鎧神社、甲神社、宗道神社)https://ibamemo.com/2020/02/11/yoroi_kabuto_sodo/

このページにあるように、石裂山大権現とは、栃木県鹿沼市上久我の加蘇山神社の御神体で、磐裂命、根裂命、武甕槌男命の三柱を指します。神護景雲元年(767)に勝道上人が開山したと伝わります。勝道上人は日光の二荒山中禅寺を開いた奈良時代の僧侶です。

勝道上人の姓は若田氏といわれています。勝道上人の生地には仏生寺があります。下総国豊田郡の仏性寺(栗山観音)と同じ名前であることも気になります。

古代に日光を治めていた豪族は久次良氏(くじら)で、日光東照宮の住所は今でも久次良町です。宇都宮市の奥州街道と日光街道が分岐する地点には徳次郎町(とくじら)があり、これは日光の久次良氏が日光山を降りて麓に移住して作った集落です。かつては外鯨邑といったそうです。これについても宇都宮市徳次郎町の智賀都神社に参拝し、宮司さんから確認しました。久次良氏は勝道上人に帰依し、日光中禅寺を支えていたと考えられます。

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宇都宮市徳次郎町の智賀都神社の由来

 

江戸時代になってから同じ鯨という地名に加蘇山神社が注目して布教して、勝道上人の信仰が下妻市の鯨村にも根付いたのか、それとも日光・鹿沼で行われていた神事と共通するものが下妻の鯨にも古代からあって、それで下妻の鯨に加蘇山神社の信仰が残っているのかは、今となってはわかりません。

 

(3)鯨村と筑波山系の山岳信仰

鯨の集落の中心部には花蔵院という寺院があります。

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花蔵院

同じ名前の青梅市の花蔵院は友田御嶽神社の別当となっていて、下妻の鯨村の花蔵院も山岳信仰と関連がありそうです。

 

さらに、下妻の鯨村と筑波山を結んで北東側には石岡市の鯨岡があります。鯨岡には足尾神社の里宮があります。豊城入彦命の墳墓の伝承がある丸山古墳も近くにあります。

筑波山には大きく3つの山岳信仰の中心地があります。北から加波山、足尾山、筑波山です。古代には下妻から常陸国白壁郡(現真壁郡)の郡衙を通り、足尾峠を越えて鯨岡に出て、新治郡衙に出る道があったとされています。

 

(4)奥州安部氏よりも古い?

私が思うに、鯨村の甲神社、鎧神社の信仰は安倍宗任の家臣の入植よりも古いのではないでしょうか。下妻の鯨は、日光と加蘇山の勝道上人の山岳信仰と筑波山系の徳一上人の山岳信仰を結び付ける土地です。勝道上人の山岳信仰と、徳一上人の山岳信仰が、鯨という地名でつながるのはとても興味深いです。

石岡の鯨岡についてもいずれ調査に行きたいと考えています。

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