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2021年8月20日 (金)

丸子部の謎(4)熱田の誓願寺

さて名古屋市の熱田にも誓願寺があります。これは戦国時代を語るうえで非常に重要な寺です。なぜならば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康がこの寺の開基である妙光尼を通してつながるからです。

 

1)熱田神宮と源頼朝

源頼朝の母は由良御前で、彼女は熱田大宮司藤原季範の娘です。熱田大宮司家の子女は北面の武士や女官として院に仕えているので、由良御前も後鳥羽院や後白河天皇の女官として働いていたと考えられます。そこで院に仕えていた源義朝に見初められて正妻となりました。

みごもった由良御前は、実家の熱田に帰って頼朝を生んだとされています。その頼朝の生家の跡地に織田信秀(信長の父)が建立したのが熱田の誓願寺です。

誓願寺だらけでよくわからなくなってきますが、

 (1)鎌倉時代に源頼朝が父母のために駿河の丸子に誓願寺を建立する

 (2)戦国時代に織田信秀が源頼朝の生地に誓願寺を建立する

 (3)さらに戦国時代に徳川家康が岡崎に誓願寺を建立する

という順序になります。

 

2)日秀妙光尼

さて織田信秀に招かれて誓願寺の開基となった妙光尼は、もとは尾張国御器所の土豪山田藤蔵の娘です。永正三年(1506)の生まれともいわれています。山田氏は吉野右馬允を婿に迎えました。妙光尼は吉野城の奥方でした。

御器所の領主は佐久間氏です。佐久間氏は三浦義明の子孫で、安房国佐久間から尾張に移住したとされます。なんと御器所は丸子部や三浦氏とつながりがあることが判明しました。この佐久間氏から織田信長家臣の佐久間信政が出ます。

彼女は夫の吉野右馬允を戦乱で失いました。失意のうちに信州の善光寺を参拝(善光寺は尼寺です)し、出家して妙光尼となりました。そのため善光尼と呼ばれることもあります。それが二十歳くらいの話と言われています。

その後二十数年経て、織田信秀の支援を得て熱田の地に誓願寺を建立します。

これは織田信長の時代になりますが、妙光尼は元亀元年(1570)に正親町天皇の命で天下泰平・宝祚延長の祈祷を命じられ、上人号と紫衣を許されています。織田信長の支援があったのは間違いないですが、尼として大変な栄誉で、当時から評判が高かったことが分かります。

 

3)御器所と大政所

さて妙光尼の生まれ故郷の御器所は、豊臣秀吉の生母なか(大政所)の生れ故郷でもあるのです。永正十三年(1516)に御器所で生まれました。妙光尼とは十歳違いです。妙光尼はまだ子供ですので御器所にいたはずです。なかは尾張中村の木下弥右衛門に嫁ぎ、とも(日秀)と藤吉郎(豊臣秀吉)を生みました。大和大納言秀長の母でもあります。

注目すべきは豊臣秀吉の姉のともの法号が日秀尼であることです。もともと同じ御器所出身で上人号をもらった日秀妙光尼に倣っていることは間違いないでしょう。上で見たように妙光尼は上人号を朝廷からもらっています。そしてともは豊臣秀吉が関白になってから出家していて、日秀という法号は朝廷からもらったものだからです。

同じく秀吉という名乗りも日秀からもらった可能性があるでしょう。私は木下藤吉郎がなかを通して日秀妙光尼と知り合いで、秀の字をもらって秀吉と名乗ったのではないかと思うのです。想像の域は出ませんが。

 

4)妙光尼と荒野聖

御器所にある八幡宮の別当として神宮寺がありました。その神宮寺は高野山誓願院の末寺でした。誓願院は京都の誓願寺と関わりが深いお寺です。

当時の高野山信仰は高野聖という遊行の僧侶によって支えられていました。高野聖は全国を行脚して、祈祷をして寄付を集めていました。高野聖の本拠地は高野山の蓮華谷で、そこは鎌倉時代になって、真言宗をベースとした阿弥陀信仰の中心地となった高野山の別所です。

寺院の系列が厳格になったのは江戸時代になってからで、中世はそのあたりは厳密ではなく、高野山の末寺でも阿弥陀如来を本尊にして念仏を唱えて極楽往生を祈る、というのは別に珍しいことではありませんでした。

妙光尼の故郷の御器所が高野聖とつながりがあることがから、おそらく妙光尼も高野聖か善光寺に所属する尼僧として、祈祷して寄付を集めていたと思われます。そして熱田神宮の寄付を集めることもあったのでしょう。織田信秀の支援も受けて熱田に誓願寺を建立することになりました。

 

5)妙光尼と竹千代

さて妙光尼はなんと竹千代、徳川家康の先生として記録に残っています。竹千代は織田家に誘拐されて2年間尾張で人質と過ごしていました。その際に竹千代少年を預かって育てていたのが妙光尼なのです。熱田の誓願寺には葵の御門が記されていますので、これは将軍家が公式に認めていることです。

松平家は始祖の徳阿弥が高野聖であったとされいます。家康以前から高野山に寄付をしており、松平家と高野聖の縁は深いです。そのため織田信秀は竹千代を妙光尼に預けたと考えられます。それなりに竹千代を大事に扱っていたことが分かります。その頃の妙光尼は40歳くらいなので、幼少の竹千代を預けるにはちょうど良いと考えたのでしょう。

とすると、竹千代少年は駿府時代も、丸子の誓願寺を通じて妙光尼、そして織田家と連絡を取っていた可能性が出てくるのです。

 

6)大政所と徳川家康

さらに、徳川家康と豊臣秀吉も

徳川家康ー妙光尼ー大政所ー豊臣秀吉

というつながりが浮かび上がります。

小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉は妹の旭姫を家康に嫁がせ、ついで大政所を和睦の使者に送ります。猜疑心の強い家康を懐柔する手段と解釈されますが、徳川家康と大政所は細いながらも人脈があるため、和睦の使者として適任であったことが分かるのです。さらに大政所が意外に重要人物であることも見えてきます。藤吉郎が織田家に仕官したつても、実は大政所と妙光尼であるのかもしれません。

 

誓願寺を通して、源頼朝、今川家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が不思議なつながりを持っていることが分かると思います。次に京都の誓願寺について調べてみましょう。

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