丸子部の謎(2)丸子宿の誓願寺、徳願寺とダイダラボッチ
1)丸子宿の誓願寺
東海道の丸子宿は安倍川をはさんで駿府(静岡市)の向かい。今では静岡市の一部になっています。
丸子宿には源頼朝が父母の供養のために建立した誓願寺があります。本尊は阿弥陀如来。誓願寺は真言宗と浄土宗系統の寺が多いので、本来は高野山配下の寺であったと考えられますが、今川氏と武田氏の戦乱によって荒廃し、武田信玄の命で領主の斎藤安元が再興しその時に臨済宗となりました。
丸子と朝比奈の境目の宇津山は修験者がいたようで、遁世者が隠れ住む場所として歌枕になっていました。「十六夜日記」に山伏に会ったと書いてあり、「信西法師集」や「新古今和歌集」に藤原家隆の「旅ねする 夢路はゆるせ うつの山 せきとはきかず もる人もなし」という歌が残っています。「海道記」「東関紀行」などに当時の風景が記録されています。
「吾妻鏡」では、承元四年(1210)に、将軍源実朝夫人の女房が宇津山で群盗に襲われています。丸子には頼朝が立てた誓願寺があります。丸子の隣は朝比奈で、この駿河の朝比奈氏は三浦氏と同族ともいわれています。「吾妻鏡」は公暁が実朝を暗殺した際に、三浦義村の指示で動いていたかのように匂わしています。丸子は将軍家にとって重要な土地なのに、将軍正妻の女官が襲われるというのは一大事で、実朝と丸子部・三浦氏・朝比奈氏の間には、何か確執があったのかもしれません。
もしくは、宇津山は歌枕なので、歌が好きだった将軍夫妻のお土産に、なにか訪問の印になるものを取ってこようとしてこの女房が道に迷い、山賊に襲われたのかもしれません。何かの拍子に、この女房を襲った山賊が三浦氏の縁者であることが判明してしまい、それで三浦氏が先手を打って実朝暗殺した可能性もあります。
2)今川氏と丸子
今川氏の中興の祖である氏親と生母の北川殿は丸子に縁があったらしく、丸子周辺に史跡が残っています。
勧昌院の参道と天柱山。安房国丸子の莫越山と形が似ています。天柱山という名前から、この山が古くから信仰されていたことが伺えます。
歓昌院(歓勝院)には幼少時の氏親が隠れ住んでいたという伝承があります。当時の氏親は伯父の小鹿範光と家督を争っていましたので、難を避けていたのかもしれません。
駿府から安倍川を渡った丸子の入り口には徳願寺があり、北川殿の菩提寺です。北川殿は幕府政所執事伊勢氏の娘で、今川義忠に嫁ぎ氏親を生みました。伊勢宗瑞(北条早雲)の姉もしくは妹でした。氏親が幼いうちに義忠が遠江で討ち死にしたため、後見の小鹿範光に家督を奪われそうになりますが、弟の伊勢宗瑞の支援を受けて、小鹿氏を滅ぼして今川氏親を当主にしました。氏親が若いうちは実質的な今川家の当主として活動しました。戦国大名今川氏の発展には、北川殿と伊勢宗瑞の姉弟が果たした役割は大きいです。
北川殿のお墓
徳願寺は300mの徳願寺山の中腹にあります。徳願寺からは息子がいる駿府と弟の伊豆国が一望できます。家族を見守ることができる土地に葬られることを望んだ北川殿の優しさを感じました。
3)徳願寺とダイダラボッチ
ところで、徳願寺に参拝して、ここがかつては真言密教の山岳仏教の道場であり、徳願寺山は大窪山と呼ばれていたことを知りました。しかも大窪山と書いて「だいあさん」と呼ぶそうです。
なんと丸子の奥の藁科にはダイラボウという山があり、ダイダラボッチの伝説があります。駿河ではダイダラボッチのことをダイラボウと呼ぶのです。ということは大窪山(だいあさん)はダイラボウ、即ちダイダラボッチを指す可能性が出てきます。
大久保、ダイダラボッチで検索してみると沢山の伝説がヒットします。大久保、大窪という地名はダイダラボッチ伝説の痕跡である可能性が出てきました。
しかも四国八十八ヶ所の結願寺(最後のお寺)は大窪寺といいます。徳願寺は真言密教のお寺でしたから、四国の大窪寺を意識して大窪山と名付けたことは間違いないです。大窪寺がある医王山は、讃岐平野からも徳島からも目立ちます。とすると四国八十八ヶ所の大窪寺も、ダイダラボッチ伝説と関連があるのかもしれません。讃岐にもオジョモという巨人伝説があるのです。弘法伝説とダイダラボッチ伝説に繋がりがある可能性が出てきました。
つまり山岳仏教の行者たちは、巨人伝説がある山を選んで道場にしていたかもしれないということです。八十八ヶ所に祀られている観世音菩薩や虚空蔵菩薩の元の姿はダイダラボッチだったのかもしれません。そう思うと、お遍路もワクワクしてきます。
4)穴山氏と誓願寺
氏親の孫の今川氏真の代に、今川氏は武田家と徳川家から攻められて領地を失ってしまいますが、丸子城は武田信玄の娘婿穴山信君(梅雪)の領地となりました。不思議なことに穴山氏は、丸子城に戦うことなく接収したという伝承があり、調略で丸子を得たのかもしれません。
誓願寺は今川と武田の戦いで焼亡したため、源頼朝と丸子のつながりをたどるための資料は残されていません。
武田勝頼が滅びた際に穴山信君は徳川家康を通じて織田家に寝返りました。武田勝頼を滅ぼした褒美に、織田信長はこの二人を安土に呼んで歓待し、堺を見物するように勧めました。徳川主従と穴山信君が堺を観光している最中に本能寺の変が起き、両者は山道を抜けて脱出するのですが、穴山信君は途中で徳川家康とははぐれ、落ち武者狩りにあって命を落としました。
あとで説明しますが、徳川家康もまた丸子の誓願寺と縁があります。穴山信君と徳川家康を結んだのも誓願寺であるかもしれません。
5)片桐且元と誓願寺
慶長十九年に豊臣秀頼が鋳た方広寺の梵鐘に「国家安康・君臣豊楽」とあり、それを徳川家康が難じました。それに対して弁明の使者として、大阪が駿府に送ったのが片桐且元と大野治長でした。当時前将軍で大御所の徳川家康は、駿府を住居としていました。片桐且元は北山殿の墓所がある徳願寺に逗留しています。
片桐且元夫妻のお墓
やがて大阪城内で孤立した片桐且元は、大阪城を退去し、豊臣氏滅亡の数日後に死去しているので自害したのではないかとされています。片桐且元夫妻の墓は誓願寺にあります。そのため、大阪城退去後は家康のお膝元の、丸子宿の誓願寺で保護されていたのでしょう。
あとで見るように豊臣家と誓願寺も縁が深いです。そのため片桐且元を預かる施設として誓願寺は適していたと思われます。
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