鯨地名(鳥取県) 孝霊天皇の出雲征服
鳥取県鳥取市福部町久志羅
延暦三年(784)に成立したとされる、伊福部臣古志(伊福部家文書)に伊福部氏第二十五代小智久遅良臣の名がみえる。伊福部氏は法美郡を拠点とする古代因幡の豪族で、「因幡志」は伊福部久遅良が当地に住したとする説があると記す。
正保郷帳には塩見久志羅村と記されている。因幡志によると鎮守は春日大明神とトリキ大明神。春日大明神は明治初年境内末社取木大明神を合祀し久志羅神社と改称した。
福部町は弥生時代中期からの遺跡が多く、稲葉山の南麓を中心に鷺山古墳、糸谷古墳、亀金丘古墳など400基あまりの古墳が濃密に分布する。仏教文化の伝来も早かったようで、袋川上流の袋本に7世紀後半と推定される寺院跡が残る。菅野の酒賀神社は「三代実録」貞観三年(861)10月16日条にのる「酒賀神」とされている。西部には稲葉山山中に古代豪族伊福部氏の一族とされる伊福吉部徳足比売の墓が、南方には因幡国府があった。平家落人伝説もある。(平凡社地名辞典鳥取県)
また、国府平野にある因幡国一宮の宇部神社は、武内宿禰が亀金に双履を残して行方不明になったという伝説があります。仙人と化した人間は死体を残さずに肉体を棄てるという道教の概念で、屍解(しかい)といいます。
このように久志羅には、因幡国(鳥取県東部)で強い力を持っていたとされる伊福部氏の本拠地がありました。取木というのはおそらく鳥木でしょう。わたしは古事記の仁徳天皇の事績には、饒速日尊の伝説が反映していると考えています。河内王朝が始祖とした日本武尊は鳥に縁が深く、仁徳天皇も鳥にまつわる伝説が多いです。下総の鳥見神社は饒速日尊を祀っています。武内宿禰の伝説が残っていることからも、伊福部氏が河内王朝と強いつながりを持っていたことが伺えます。
久志羅の北側の細川はかつては海士(あもう)と呼ばれていました。服部神社があり、御祭神は天羽槌雄命と天棚機姫命で、これは茨城県日立市大甕神社の武葉槌命と神名が似ているように思えます。
伊福吉氏は伊福部氏、五百木部氏(五百旗頭氏)ともされ、古代史にも名前が出てきます。宮廷で働く部民だったと考えられます。伊福吉部徳足比売は文武天皇の時代の人で、宮廷で使えていました。この墓は発掘調査が行われており、畿内の高位の男性以上に厚く葬られていたことが判明しています。彼女は従七位でした。因幡の有力者の縁者であったのでしょう。おそらく国造の母親と考えられます。
鳥取県日野郡江府町
読みがくれなのですが、静岡県沼津市の久連(くづれ)と漢字が同じなので鯨地名の候補地にしておきます。
伯耆国日野郡には孝霊天皇が鬼林山(きりんさん、おにばやしさん)に住む鬼を退治したという伝説があります。山の名前は鬼住山(きずみやま)、笹苞山(ささっとやま、溝口町)ともされています。退治された鬼は牛鬼で、これは水木しげる先生の漫画によく出てくる妖怪です。先生の故郷の境港は同じ伯耆で、更に北方にあります。
日野郡、今の鳥取県日南町と日野町には孝霊天皇の伝説がたくさん残っています。西楽々福神社(にしささふく)の御祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命(孝霊天皇皇后)、彦狭島命。鬼退治をした孝霊天皇が行宮を建て、鬼退治に功があった息子の大吉備津彦命を西社に、若建吉備津彦命を東社に祀ったとされます(県神社誌)。
東楽々福神社(ひがしささふくじんじゃ)は、御祭神大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命(孝霊天皇皇后)、福姫命、若建吉備津彦命です。境内には鬼塚と呼ばれる破壊された墳墓石室が残り、退治された牛鬼を葬ったものとされます。楽々福は吉備の豪族の名前であった可能性が高く、これについては岡山県の鯨地名で触れます。
楽々福神社の神宮寺は和銅二年(709)に行基が崩御山守護のため創建され、元明天皇が寺田二百町歩を寄進したと伝わります。中世に戦乱で荒れ果てた楽々福神社を再建したのは久代氏(久志路氏)です。これは出雲国の豪族で、現在の島根県安来市久白に本拠があったとされ、これについては島根県の鯨地名で触れます。
崩御山という名前は、孝霊天皇がこの地で亡くなったという伝説にちなんでいます。しかしもしかしたら牛鬼がこの土地の有力者で、朝廷に逆らった牛鬼を鎮魂するために、孝霊天皇の墓という名目で祈り続けた可能性もあります。
奥出雲
さてこの牛鬼というのは何者だったのでしょうか?
鳥取県は日野郡の部分が南西に突き出しています。孝霊天皇の牛鬼征伐は、吉備津彦が登場することから、古くから大和朝廷と良好な関係にあった吉備の軍勢を率いて、日野郡の牛鬼を征伐することが目的だったと言えます。その先には出雲があるわけです。
おそらくこういうことではないでしょうか。本来の出雲の領域というのは今の島根県に鳥取県の日野郡を加えた領域であった。しかし孝霊天皇率いる大和・吉備連合軍が、日野郡の牛鬼を攻めて滅ぼした。これによって出雲の防衛線は弱体化して大和に降伏した。
孝霊天皇から三代後の崇神天皇の時代には、大和朝廷の使者が出雲国の神宝を実見するのが恒例になっています。これが服属儀礼であることは明白です、出雲国造が反発しているからです。神殿に武器を隠していないか大和の役人がチェックしているのです。本来よそ者が目にするべきでない神宝を調べることで、出雲を辱めて上下関係を確認する意味もあったのでしょう。
木次線トロッコ列車おろち号
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