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2022年5月 8日 (日)

鯨地名(高知県) 天災の陰に隠された近畿地方との深いつながり

鯨坂八幡宮 高知県佐川町庄田

高岡郡の佐川町庄田地区にある八幡宮。御祭神は応神天皇(平凡社地名辞典高知県)です。「土佐太平記」には応神天皇・神功皇后・武内宿禰とあるらしいですが、今のところ確実な資料で確認が取れていません。

このサイトによると、地元の伝承では平安時代からある神社とされているそうです。元ネタは「八幡庄伝承記」で、これは鯨坂八幡宮に伝わる伝承を、別当寺である蜷崎山正泉院八幡寺の僧侶が記したものであるようです。そのため史料的価値は低いとされているそうですが、佐伯文書と符合する部分もあるので、中世の文章でないことは明らかであるものの、その当時に伝わった伝承は正しく記録していると思われます。

それによると、延長元年(923)に土佐国安芸郡室津にいた土佐権守別府康弘の次男別府経基は、分家して高北(今の越智町付近)を開拓して別府庄を作ったそうです。その際に自分の領地の守り神として、兄の別府康高の領内にあった鯨坂八幡宮を勧請したのが最初ということです。

この安芸郡にあった元の鯨坂八幡宮は現在では不明です。「土佐太平記」には夜須の坂のほとりと推測してあるようです。

 

土佐別府氏

姓氏系図事典によると土佐国の室津別府氏は惟宗氏ではないかとあります。惟宗氏は秦氏の一派です。土佐国には幡野郡もあります。高岡郡にも別府がいて、これは久佐賀別府氏と呼ばれています。

土佐国の惟宗氏は、天武天皇の時代に流された蘇我赤兄の末裔を称しています。

室戸市の室津城の別府氏は文氏を名乗っていたという記録も残っていて、なかなか定まらないのですが、惟宗氏にせよ文氏にせよ渡来人であることは間違いがなさそうです。

 

今年のゴールデンウイークではお遍路で室戸から唐浜にかけて歩きました。この辺りの海岸部では八幡信仰が盛んで、御田八幡宮、田野八幡宮、安田八幡宮などがあります。

安田八幡宮に伝わる神宝の大般若経は非常に古く、神亀四年(727)に一般民衆が財物を出しあって書写したという記録が残っています。残念ながら神亀四年に書写された大般若工は鎌倉時代に火事で焼けてしまったのですが、文永から弘安にかけて書写し直されたものが残っており、高知県の重要文化財に指定されています。鎌倉時代に書き直された経典に、最初の経典は神亀四年にこの地域の善知識がお金を出し合って書かれたと記録があるとのことです。

この大般若経は安田の人々によって保管されていたらしく、天正年間に領主の安田三河守親信から安田八幡に奉納されています。私は安田八幡宮をかつて安芸郡にあったという鯨坂八幡宮の候補に挙げたいです。

 

鯨野(いさの) 高知県土佐清水市伊佐

平安時代の和名抄に土佐国幡野郡鯨野郷が記録されています。これは足摺岬を指す地名であるとされています。現在でも足摺岬に伊佐という地名が残ります。なぜ鯨野で「いさの」と読むかというと、古代には鯨を「いさな」とも呼んだからです。

伊佐という地名は沖縄県、鹿児島県、山口県、兵庫県、茨城県等に残ります。海岸部に多く、海部とのつながりがありそうです。茨城県稲敷市には伊佐部という地名が残っていて、大杉神社(あんばさま)の近くでもあり古代の海部とのつながりを思わせます。兵庫県養父市の伊佐は山間部にあるのですが、養父には鯨地名や鯨の伝承が残っています。

 

仁井田神社

もう一つ注目したいのが仁井田神社です。仁井田神社は高知県に広く分布する神社です。仁井田神社の御祭神は孝霊天皇と吉備彦狭島命です。吉備彦狭島命は伊予神社の御祭神です。

仁井田神社の伝承では、欽明天皇の時代に、孝霊天皇王子の伊予親王の末裔である伊予の小千家(越智家)の小千玉澄が高岡郡に移住し、小千玉澄についてきて伊予から移住した河野氏や高野氏が、土佐国東部を開拓したとされています。

孝霊天皇は鯨地名ととても縁が深いです。佐川町にも仁井田神社はあり、土佐から阿波に抜ける物部川沿いにも仁井田神社は分布しています。

 


自然災害との戦いと近畿地方からの大量移住

実は土佐国には鎌倉時代より前のことがあまり伝わっていません。四国の他の県と比べても古代の記録がとても少ないです。日本書紀には天武天皇の時代に大地震があって、沿岸部は津波で壊滅したとあります。海中に没した土地もあったとあり、これは高知市の浦戸湾の辺りではないかと推測されています。山間部も地滑りで消滅した集落があるようです。

その後も奈良時代や平安時代に疫病や飢饉に何度も襲われています。

このシリーズは古代の海部の痕跡を探っています。土佐も海に面した国であるので古代に海部が活動していたはずですが、海部の記録はあまり残っていません。安芸郡の鯨坂八幡宮も地震や疫病で荒廃してしまったのかもしれません。

仁井田神社や別府氏の伝承からはこんな流れが想定できそうです。

  1. 伊予から欽明天皇の時代に、伊予国の海部が渡来人を連れて、高岡郡を中心に土佐東部を開拓
  2. 海部の中心地であった高岡郡は天武天皇の時代の南海地震でいったん壊滅、その後も疫病や飢饉に何度も襲われる
  3. 安芸に移住した人たちは生き残り、安田神社の大般若経に安芸郡の人々の記録が残っている。
  4. 平安時代の中期、室津の渡来人と海部が十分な力を蓄えて高岡郡の再開拓をし、その痕跡が鯨坂八幡宮

この他にも高知県には葛城氏と賀茂氏の流れがあります。雄略天皇の時代に大和朝廷と対立して流されたことになっていて、これは上記の1に当たる移民の波かもしれません。伊予だけでなく、近畿からの移住の波も、五世紀から六世紀にかけてあったようです。伊予からの海部の移住と、近畿からの葛城氏・賀茂氏・渡来人の移住は恐らく連携していたのでしょう。

越智氏の伝説では、天智天皇の時代の新羅征伐の主力は四国水軍だったとされています。だとすると白村江の戦の大敗による被害もかなり大きかったと考えられます。徳島県の大野寺や隆禅寺には、天智天皇の時代に大海人皇子が阿波で出家したという伝承が残っています。大海人皇子はこの時の戦いの総司令官だった可能性が高く、敗戦の被害を受けた四国を訪問して慰撫して(反抗しないようになだめること)いたのかもしれません。

高知県と徳島県は近畿地方と遺伝子の共通性が高く、高知県や徳島県山間部の方言は、上古の近畿地方の言葉や発音を良く保存していると言われています。これも飛鳥時代から平安時代にかけて、災害や戦災にあった土佐国を救援するために、近畿から大量の移住があった痕跡なのかもしれません。

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