松平信康自刃事件の真相
「どうする家康」面白いですね。私も見ています。物語は中盤の山場である松平信康自刃事件に差し掛かっています。この事件は織田信長の娘で信康の妻であった徳姫(五徳姫)が、義母の築山殿(瀬名)が織田・徳川共通の敵である武田勝頼と内通したことを父の信長に通報し、信長が家康に築山殿と信康を処刑するよう命じたとされています。
築山殿が敵の武田と内通した理由は、築山殿が家康に相手にされなくなって嫉妬した、徳川家中が浜松派(家康)と岡崎派(信康)に分裂していたから、あるいは信康が発狂したからなどと言われていますが古来より定説がありません。酷薄な命令を下されたのに信長と家康の関係はこの後も表面上は悪化しておらず、信康の申し開きのために岐阜に呼ばれた酒井忠次が役目を果たせなかったにもかかわらずこの後も家康から重用されているなど不可解な点があります。家康は信康のことを惜しんでいたとされ、家康と信康の関係が悪化していたわけでもないようです。
古来から謎とされているこの事件ですが、一つ手掛かりとなりそうなことに思い当たりました。松平信康は今川宗家の血を引いているので今川家を継ぐことができます。そして今川家は足利将軍家に何かがあった時には、将軍を継ぐべき家と当時信じられていました。すなわち、信康は征夷大将軍の有力候補だったかもしれないのです。
徳川家康の正妻である築山殿の母は、今川義元の妹でした。築山殿も今川の血を引くことを意識していたと言われています。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、跡を継いだ今川氏真は武田信玄と徳川家康に攻められて今川氏は滅亡します。ただし氏真は死んだわけでは無く、この後も各地を流浪していました。
氏真にも男子がいましたし、後北条氏三代目北条氏康の妻はやはり義元の姉で、二人の子供である北条氏政や上杉景虎(後述)も今川家の血を引いています。今川家の血を引く男子ならば複数いたのですが、松平信康のアドバンテージは織田信長の娘婿であることです。
織田信長は元亀三年(1572)に室町幕府十五代将軍足利義昭と決裂し、それ以降数年間は多方面から攻撃を受けて苦境にありました。その中心にいたのは将軍義昭です。この頃は将軍が実力者と関係悪化することは珍しくなく、将軍が京都から追放されて、実力者は新しい将軍を立てるのが普通でした。この当時の義昭のスペアとしては阿波公方や古河公方・小弓公方がいましたが、信長は阿波の三好氏の関係は安定していませんでしたし、古河公方と小弓公方がいる関東は遠いです。信長は阿波公方の縁者を小姓として使っていたという話もありますが、あまり血筋がはっきりしませんでした。となると、出自が明確で身内である将軍候補として松平信康が浮かび上がってきます。
今川氏真は元亀三年ごろに浜松にいたらしく、天正三年(1575)に浜松から上洛して、義元の仇である織田信長と会見して和解をしています。同じ頃、信康のお膝元の岡崎では大岡弥四郎の事件が起き、築山殿が勝頼と内通を始めたとされています。
私はこの時に織田信長と今川氏真の間で、松平信康を氏真の養子にして今川家を再興させる構想が話し合われたのではないかと考えたいです。そして信康を遠江において武田勝頼との間の緩衝地帯にすることを考えたのではないでしょうか。この構想は氏真が浜松にいる間に、家康・築山殿と話し合われていたはずです。築山殿は信長黙認で武田・上杉・北条との交渉に入ったと考えられます。
信康を征夷大将軍、あるいは駿府公方とでも言うべき地位にして、武田・上杉・北条を統括させるのです。武田勝頼は織田・徳川との戦いに疲弊していました。上杉謙信は北条氏・古河公方と戦っていました。謙信は足利義昭に忠誠を誓っていましたが、義昭は西国にいましたので頻繁に連絡が取れません。北条は古河公方を掌中に持っていましたので微妙です。
この構想は天正六年(1578)の上杉謙信の死によって大きく動いたようです。謙信が急死したことにより、北条家から養子に入っていた上杉景虎(北条三郎)と謙信の甥である上杉景勝の間でお家騒動が起きます。これを御舘の乱と呼びます。武田勝頼は最初は景虎を支援してたのですが、途中から景勝に乗り換えました。北条と奥羽の大名は景虎を支援していましたが、中下越の国侍が景勝についたので最終的に景勝が勝利します。
北条氏政、上杉景虎、早川殿(今川氏真の妻)は北条氏康と瑞渓院(義元の姉)の間の子供ですから今川の血を引いています。なので信康将軍構想があったとすると、信康側につくはずです。しかし天正七年(1579)の三月に上杉景虎は景勝に攻められて討ち死にしました。この頃になると織田信長の優勢は動かなくなっていましたので、信長は武田と上杉を滅ぼすことに決めたのではないでしょうか。信康を将軍にする必要もなくなっていました。
しかし築山殿は尚も信康に今川家を継がせて駿河国を治めさせることを勝頼と交渉したのではないかと考えられます。これは織田信長の方針に反します。征夷大将軍になれるかもしれない信康は、今度は信長にとって危険人物となってしまいます。そこでまず築山殿が処刑されたのでしょう。
北條氏と織田氏との交渉は天正七年の景虎討ち死にから本格化しますが、その時に交渉役に立ったのは北条氏照でした。氏照は古河公方足利義氏の後見人でした。これは北条家からの信康将軍構想の拒否回答です。信康が蟄居させられたのが天正七年(1579)八月三日、築山殿が処刑されたのが八月二十九日、氏照の使者が安土に到着したのが九月十一日ですので浜松には八月末には来ていたでしょう。ここで徳川家康と北条氏照の使者との間で築山殿と信康の扱いが話し合われたのではないかと思います。信康は九月十五日に自刃しましたが、これは織田信長と北条氏照の使者の会見の結果を早馬で確認した上でのことと考えられます。万が一にも織田と北条が決裂した場合は、北条を内部分裂させる材料として信長が信康を生かしてくれる可能性に家康は賭けていたのでしょう。
8月3日 徳川家康が岡崎に入り、信康が蟄居させられる
8月中旬 北条氏照の使者が浜松に入る
8月29日 築山殿が処刑される
9月11日 織田と北条の使者が会見、和睦
9月15日 松平信康が自刃する
こう考えると、築山殿は大河ドラマでいうような甘い妄想に走ったわけでもないですし、信康も恐らく発狂はしていなかったと思われます。最初の内は織田信長も黙認の和平交渉だったのでしょうが、状況の変転によっていつの間にか織田信長の障壁となってしまい、家康は二人を手にかけざるを得なかったのでしょう。これならば誰も悪くないですし、家康も誰も責めることができません。
信康征夷大将軍構想は、後に徳川家康が天下取りに動いた動機の核をなしたのではないかと私は考えます。
私はこのブログに書いたことの著作権は放棄しないですが、このアイデアに関しては好きに使って論文や小説を書いていただいて構いません。きっと従来の徳川家康像を変えることでしょう。正当に評価されてこなかった築山殿と信康の名誉も回復されるでしょう。
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