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2021年8月23日 (月)

丸子部の謎(7)莫越山と名古屋の由来

1)莫越山神社

千葉県南房総市の旧丸山町には莫越山神社(なごしのやまのじんじゃ)があります。延喜式に安房国朝夷郡四座の一つとして記載されています。

祭神は彦火火出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合命。別に安房忌部の祖、手置帆追命、彦狭知命を祀ります。

神梅神社とも言い、小屋安様、祖神様とも通称されます。社伝によれば、源頼朝が御台所の安産を祈願して社殿を造営、神鏡および神田二十町を寄進したと言います。古くから濁酒を醸造して、祭典に神代酒と称して献納する風習がありました。番匠、鍛冶の上ともされています。

 

莫越山神社から北に3㎞ほど進むと山地との境界に鯨岡があります。鯨岡は常陸国では日本武尊とともに語られる地名です。集落の外れ、平野部とさんちの境目に鯨岡がある傾向がありますので、丸山町の鯨岡も、この古代の鯨岡の特徴を満たしています。

 

2)万葉集

万葉集 巻10-1822に莫越山が登場します。

我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに

原文は 吾瀬子乎 莫越山能 喚子鳥 君喚變瀬 夜之不深刀尓

莫越山能を佐々木信綱は「な巨勢の山」と解釈しています。巨勢は大和にある山地です。

 

これは莫越山でないと意味が通りません。莫越山=名越山=なごえやまであり、名+声で「呼ぶ」の縁語もしくは枕詞になるからです。巨勢だと「なこせ」になってしまい、呼子鳥の縁語になりません。

なぜ莫越山というかというと、常陸と磐城の間にある勿来関と同じで、蝦夷に「越える莫れ」と言っているのです。莫越山のすぐ先には、大和朝廷と蝦夷の境界を表す鯨岡があります。丸子部は朝廷から送られてきた移住者なので、境界に呪術的な名前を付けたのでしょう。

とすると万葉集の1822番はとても分かりやすい歌になります。「愛しい人に山を越えて行ってしまわないでと、鳥よ鳴いて呼び返してくれ」という切ない歌になります。丸子部の間で伝えられた歌なのでしょう。丸子部は皇族の子供を育てる部民なので中央に歌が残ってもおかしくはないです。

万葉集1822番は、鎌倉を開発したのが丸子部であり、三浦半島との境界に莫越山(名越山)と名付けた傍証にもなる重要な歌です。

 

3)名越

丸子部が住んでいた相模国の鎌倉には名越峠があります。鎌倉と三浦半島の間にある山です。50mくらいの様に細い山道があります。鎌倉市の中心部を西に進むと大町があり、この辺りには北条家の邸宅がありました。かつては源頼義の三男新羅三郎義光とその子孫が住んだので佐竹屋敷と呼ばれていました。佐竹氏はやがて常陸国北部に土着します。源義朝よりも前に鎌倉に住んだのが佐竹氏であったのは驚きです。

名越の切通の入り口には二代目執権の息子の北条朝時とその子孫が住むようになり、彼らは名越氏と呼ばれるようになりました。

この名越は恐らく安房から鎌倉に移住した丸子部が、鎌倉西武の山を、安房の莫越山に見立てたのでしょう。

 

4)久慈郡の丸子部

佐竹氏が土着した常陸国久慈郡にも古くから丸子部が住んでいました。万葉集に歌が残されています。

万葉集巻20-4368番

久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む

久慈郡丸子部佐壮の防人歌です。久慈川よ待っていてくれ、海を渡る船を漕いで私はきっと帰ってくる。という西国へ出発する防人の決意と望郷の歌です。心を打ちますね。

 

5)那古野氏

愛知県名古屋市はかつては那古野と呼ばれていました。室町時代にはこの地を領する那古野氏がいました。

那古野氏は今川氏の一派で、今川頼国が名越高家の子名越高範を養子にしたと言われています。室町幕府の奉行衆でした。

名越高家は鎌倉幕府評定衆の一員で、赤松氏の反乱を鎮圧するために播磨に向かい戦死したとされています。今川了俊が記した「難太平記」によると、高家は今川頼国の妹と妻としていて、その子が名越高範だったといいます。そして中先代の乱で高範は今川頼国に保護されて、養子になったそうです。

ただし那古野今川氏の系譜は確定していません。

 

6)那古・奈古・奈胡・名郷・名越

「なこ」という地名は日本中にあります。

那古(千葉県館山市) 坂東三十三観音三十三番札所那古観音があります。古くからの港町。

奈古谷・奈胡谷(静岡県伊豆の国市・なごや) 韮山にある。北条氏発祥の地から一里くらいしか離れていない。

奈胡(福井県小浜市) 阿奈志神社がある。同名の神社が愛知県の知多半島にもある。

名郷浦(千葉県館山市) 那古のま南、向かいの地名。

名越(愛知県新城市)、(滋賀県長浜町)、(大阪府貝塚市)、(岐阜県白川町)

 

さて面白いことに他でもない北条氏発祥の地の近辺の地名がなごや(奈古谷)です。

そして尾張国の那古野今川氏は、北条氏を養子にしたという記録があります。

 

7)那古野の名越氏の正体

私が推測するに、尾張国那古野と伊豆国奈古谷には同じ一族が古くから住んでいたのでしょう。そこに北条氏がやって来て姻戚関係を結んだのだと考えられます。今川氏が尾張国に進出するにあたって、那古野の豪族と縁戚関係を結んだと考えられます。那古野は北条氏の名越と音が近いですし、実際に北条氏と血縁関係にあった可能性もありますので、これが今川家の中で伝承されて、名越氏から養子を迎えたという内容になったのではないでしょうか。

2021年8月22日 (日)

丸子の謎(6)蓮華谷と高野聖

1)明遍

高野山の蓮華谷を開いたのは明遍という僧侶でした。明遍は信西の息子です。

信西の俗名は藤原通憲。藤原南家、学者の家に生まれました。二人目の妻朝子が鳥羽天皇の第四皇子雅仁親王の乳母となりました。後に雅仁親王は即位して後白河天皇となります。信西は後白河天皇の重用され、息子たちも出世しました。

明遍は藤原通憲と朝子の間の子供です。康治元年(1142)生まれ。

平治元年(1159)、明遍18歳の時に平治の乱が起きて父の信西は殺害され、明遍の兄弟たちも失脚しました。明遍自身も越後に流罪になりました。反信西の勢力はすぐに平清盛の排除されたので、やがて許されて近畿に帰ってきますが、出家して東大寺で三論を、高野山で真言宗を学びました。

 

2)法然との関わり

当代一の学者信西の息子らしく、南都で高い学識を評価された明遍で、嘉応二年(1170)には興福寺の維摩式の講師を務めています。文治二年(1186)の大原問答に(法然と天台宗の顕真が行ったという論争)に列席していたと言われますが、この論争の記録は浄土宗側の史料しかないそうです。大仏を再建した重源や仏師の快慶とも仲が良かったと言われています。

明遍は最初法然の専修念仏を批判していましたが、いつの頃からか法然の理解者となりました。法然は長承二年(1133)生まれなので、明遍は九歳年下です。

明遍は建久年間(1190-99)に高野山の蓮華谷に隠棲しています。この時には念仏の信者となっていますので、1170-1190の間に法然に帰依したようです。

 

3)観音信仰と浄土信仰

平安時代末期から高野聖の活動が活発になります。全国を遊行して鬼頭氏、寄付を集めました。高野山で起きた大火による再建費用集めが、高野聖の興隆のきっかけになったとされています。

学識高い明遍はなぜか五十代の頃に南都仏教の出世ルートから遠ざかり高野山に籠って修行をするようになります。その時に建てたのが蓮華三昧院です。明遍は後白河院の乳母兄弟に当たりますから、おそらく皇室や実家の高階家からの援助があったのでしょう。

後白河院が建立した三十三間堂の正式名称は蓮華王院です。蓮華は観音菩薩を象徴しています。三十三間堂には千体の千手観音像が納められています。観音菩薩は阿弥陀如来の脇仏なので、観音信仰と阿弥陀信仰は相性が良いです。

元々平安時代の観音信仰というのは、観音様の力で極楽浄土に生まれ変わろうという物でした。ですから観音信仰と浄土信仰の間にはほとんど差はないのです。観音信仰は平安時代後期に大流行して西国三十三観音が整備されました。院政期に大流行した熊野詣も、実質的には那智の観音をお参りして補陀落海に見立てた熊野灘に到る巡礼でした。後白河院は観音信仰のマニアで、熊野も何度も詣でています。

西国三十三観音に触発されて、坂東でも坂東三十三観音が整備されました。源頼朝と北条政子夫妻もまた観音の信者でした。北条政子は二度も熊野詣をしています。墓所の田代観音は坂東三十三観音に入っています。

そのため明遍の信仰は恐らく観音信仰と阿弥陀信仰が融合したもので、その一環として法然の念仏を取り入れたのだと思われます。戦前は真言宗のお寺でも、弘法大師を前にして南無阿弥陀仏と唱えるのは普通のことでした。おそらく明遍や後白河院、それに九条兼実も、観音様を前にして南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生を祈っていたのでしょう。

 

4)蓮華谷の誓願院

明遍が整備した蓮華谷は高野聖の中心となっていきます。蓮華谷の中に誓願院があり、沙石集にもそこにいた僧侶の説話が記録されています。本尊は、洛中の誓願寺から分けてもらった仏像だったらしいです。

先に見たように尾張国の御器所八幡宮の神宮寺は、高野山誓願院の末寺です。おそらく誓願院も高野聖の拠点だったのでしょう。

 

当時の流れを見ていくと、平安末期と鎌倉初期の権力者は誓願寺と深い関わりを持っていたことは明らかです。法然が生み出した教団は、やがて浄土宗と浄土真宗を生み出していきますので、我々は浄土信仰の中心には常に法然がいて彼が主導していたと考えがちです。しかし実際は阿弥陀信仰の中心には誓願寺があって、誓願寺を中心に人は動いていたらしいことが分かってきました。

誓願寺は平安時代から女人の救済の取り組んでいたので、女性に人気があったようです。それで頼朝も母の供養に誓願寺を建てていますし、尾張の妙光尼も熱田に誓願寺を建てました。

2021年8月21日 (土)

丸子部の謎(5)京都の誓願寺

誓願寺というお寺が、中世にはネームバリューがあったことを見てきました。その総本山、京都の誓願寺について見てみましょう。

1)天智天皇

洛陽誓願寺縁起によると、天智天皇四年、天皇は生身の阿弥陀如来を拝せんことを願って念仏を唱え、霊感により大和の良匠賢問子・芥子国不死に勅命を下して丈六(約十メートル)の阿弥陀仏坐像を造立し、奈良に念仏閣を建てて阿弥陀像を安置したのが始まりとされます。

延暦十三年(794)に平安遷都に伴い山城国乙訓郡に移転、ついで一条小川に移転したと言われます。

一説には奈良から相楽郡に移り、平安遷都の後に紀伊郡深草に移転。その後に洛中の元誓願寺町(堀川今出川)に移ったともいわれる。

 

2)女人往生の道場

洛陽誓願寺縁起によると、醍醐天皇が浄土三部経を同時に納め、源信僧都は五十日参籠して不断念仏を修し、清少納言や和泉式部も参籠したと言います。「元亨釈書」によると東上門院(藤原彰子)父道長のために七日参籠し浄土三部経を書写したとされます。

実は奈良県木津町には光明皇后が建立した尼寺の誓願寺があります。どうもこの誓願寺縁起は洛中の誓願寺と、光明皇后の誓願寺の伝承が混線しているようです。しかし洛中の誓願寺はやがて時宗の女性信者の溜まり場になっていきますので、平安時代から女性の救済に取り組んでいたのかもしれません。

承元三年(1209)に焼亡、伊勢権守為家が誓願寺の多聞天を崇敬し、堂宇を私財で再建しています。伊勢権守為家は他にも千本上立売の釘抜き地蔵の願主となっているそうです。

 

3)浄土宗に改宗

この頃、法然が誓願寺に参籠し、住職の二十一世蔵俊僧正は法然に帰依して、それ以降誓願寺は浄土宗に帰依したとされています。一説には西山上人四世深草円空立信の孫弟良玉から浄土宗に改宗したとされています。法然が誓願寺と関わりを持っていたのは、法然に影響されて明遍が高野山に蓮華谷の道場を作り、そこに誓願院が建立されたことから間違いはなさそうです。

しかし浄土宗が教団として成立するのはもっと後なので、法然に帰依して浄土数に改宗したというのを信じることはできません。

また蔵俊は法相宗の僧侶で、法興寺や興福寺の別当を歴任しているので、当時の誓願寺は興福寺に連なるお寺であったことが分かります。

むしろ洛中で念仏・阿弥陀信仰を最も早くから布教していたのは誓願寺であるので、法然が誓願寺で勉強をして得るところがあって専修念仏を始めたとみるべきではないでしょうか。

鎌倉時代の中頃に深草真宗院の円空立信が当寺を兼帯してより、浄土宗西山深草派の本山となったとされています。

 

4)京極への移転

室町時代の誓願寺には時宗の女性信者が多く出入りしていたことが「一遍上人年譜略」に記されています。

応永十七年(1410)には後亀山天皇の皇子が当寺で出家したと記録にあります。室町時代がこの寺の最盛期でした。その後何度が火事に遭うたびに洛中の人々の浄財にて再建されていますが、天正年間の加持の際には再建に苦労したことが記録に残っています。天正十九年に豊臣秀吉の命により、元誓願寺町から現在の京極に移転しました。慶長年間に落語の祖と言われる安楽庵策伝が五十五世となっています(ということは先に見た岡崎誓願寺の泰翁の四代後)。彼の話法は誓願寺に集まる信者を相手に鍛えられました。

禁門の変にて伝来の本尊を失いました。明治維新の時の上地によって広い境内を失い、現在の広さになりました。その後も何度か火災に遭って、現在の本堂は戦後に建設されたものです。

 

歴史に名前は出てきませんが、平安時代から念仏の中心であり、法然の浄土宗は誓願寺に触発されて始まった可能性があります。隠れた重要なお寺というべきです。次に見るように、高野山の蓮華谷を開いた明遍と法然を結び付けたのは誓願院であり、高野聖と浄土宗の交流の接点も誓願寺だったと考えられます。

源頼朝が丸子に誓願寺を作った際に参考にしたのはこの誓願寺であるはずです。女人往生の道場なので、やはり源頼朝は母や乳母を供養するためにこのお寺を建てたのでしょう。ならば鎌倉か熱田に建立すればよさそうなものですが、駿河の丸子に建てたのは謎です。頼朝の乳母は比企氏なのですが、これは少年期の育ての親です。乳児の時の乳母は別にいたはずです。私はそれが丸子氏で、駿河出身だったのではないかと思うのですが、今のところ全く想像にすぎません。

2021年8月20日 (金)

丸子部の謎(4)熱田の誓願寺

さて名古屋市の熱田にも誓願寺があります。これは戦国時代を語るうえで非常に重要な寺です。なぜならば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康がこの寺の開基である妙光尼を通してつながるからです。

 

1)熱田神宮と源頼朝

源頼朝の母は由良御前で、彼女は熱田大宮司藤原季範の娘です。熱田大宮司家の子女は北面の武士や女官として院に仕えているので、由良御前も後鳥羽院や後白河天皇の女官として働いていたと考えられます。そこで院に仕えていた源義朝に見初められて正妻となりました。

みごもった由良御前は、実家の熱田に帰って頼朝を生んだとされています。その頼朝の生家の跡地に織田信秀(信長の父)が建立したのが熱田の誓願寺です。

誓願寺だらけでよくわからなくなってきますが、

 (1)鎌倉時代に源頼朝が父母のために駿河の丸子に誓願寺を建立する

 (2)戦国時代に織田信秀が源頼朝の生地に誓願寺を建立する

 (3)さらに戦国時代に徳川家康が岡崎に誓願寺を建立する

という順序になります。

 

2)日秀妙光尼

さて織田信秀に招かれて誓願寺の開基となった妙光尼は、もとは尾張国御器所の土豪山田藤蔵の娘です。永正三年(1506)の生まれともいわれています。山田氏は吉野右馬允を婿に迎えました。妙光尼は吉野城の奥方でした。

御器所の領主は佐久間氏です。佐久間氏は三浦義明の子孫で、安房国佐久間から尾張に移住したとされます。なんと御器所は丸子部や三浦氏とつながりがあることが判明しました。この佐久間氏から織田信長家臣の佐久間信政が出ます。

彼女は夫の吉野右馬允を戦乱で失いました。失意のうちに信州の善光寺を参拝(善光寺は尼寺です)し、出家して妙光尼となりました。そのため善光尼と呼ばれることもあります。それが二十歳くらいの話と言われています。

その後二十数年経て、織田信秀の支援を得て熱田の地に誓願寺を建立します。

これは織田信長の時代になりますが、妙光尼は元亀元年(1570)に正親町天皇の命で天下泰平・宝祚延長の祈祷を命じられ、上人号と紫衣を許されています。織田信長の支援があったのは間違いないですが、尼として大変な栄誉で、当時から評判が高かったことが分かります。

 

3)御器所と大政所

さて妙光尼の生まれ故郷の御器所は、豊臣秀吉の生母なか(大政所)の生れ故郷でもあるのです。永正十三年(1516)に御器所で生まれました。妙光尼とは十歳違いです。妙光尼はまだ子供ですので御器所にいたはずです。なかは尾張中村の木下弥右衛門に嫁ぎ、とも(日秀)と藤吉郎(豊臣秀吉)を生みました。大和大納言秀長の母でもあります。

注目すべきは豊臣秀吉の姉のともの法号が日秀尼であることです。もともと同じ御器所出身で上人号をもらった日秀妙光尼に倣っていることは間違いないでしょう。上で見たように妙光尼は上人号を朝廷からもらっています。そしてともは豊臣秀吉が関白になってから出家していて、日秀という法号は朝廷からもらったものだからです。

同じく秀吉という名乗りも日秀からもらった可能性があるでしょう。私は木下藤吉郎がなかを通して日秀妙光尼と知り合いで、秀の字をもらって秀吉と名乗ったのではないかと思うのです。想像の域は出ませんが。

 

4)妙光尼と荒野聖

御器所にある八幡宮の別当として神宮寺がありました。その神宮寺は高野山誓願院の末寺でした。誓願院は京都の誓願寺と関わりが深いお寺です。

当時の高野山信仰は高野聖という遊行の僧侶によって支えられていました。高野聖は全国を行脚して、祈祷をして寄付を集めていました。高野聖の本拠地は高野山の蓮華谷で、そこは鎌倉時代になって、真言宗をベースとした阿弥陀信仰の中心地となった高野山の別所です。

寺院の系列が厳格になったのは江戸時代になってからで、中世はそのあたりは厳密ではなく、高野山の末寺でも阿弥陀如来を本尊にして念仏を唱えて極楽往生を祈る、というのは別に珍しいことではありませんでした。

妙光尼の故郷の御器所が高野聖とつながりがあることがから、おそらく妙光尼も高野聖か善光寺に所属する尼僧として、祈祷して寄付を集めていたと思われます。そして熱田神宮の寄付を集めることもあったのでしょう。織田信秀の支援も受けて熱田に誓願寺を建立することになりました。

 

5)妙光尼と竹千代

さて妙光尼はなんと竹千代、徳川家康の先生として記録に残っています。竹千代は織田家に誘拐されて2年間尾張で人質と過ごしていました。その際に竹千代少年を預かって育てていたのが妙光尼なのです。熱田の誓願寺には葵の御門が記されていますので、これは将軍家が公式に認めていることです。

松平家は始祖の徳阿弥が高野聖であったとされいます。家康以前から高野山に寄付をしており、松平家と高野聖の縁は深いです。そのため織田信秀は竹千代を妙光尼に預けたと考えられます。それなりに竹千代を大事に扱っていたことが分かります。その頃の妙光尼は40歳くらいなので、幼少の竹千代を預けるにはちょうど良いと考えたのでしょう。

とすると、竹千代少年は駿府時代も、丸子の誓願寺を通じて妙光尼、そして織田家と連絡を取っていた可能性が出てくるのです。

 

6)大政所と徳川家康

さらに、徳川家康と豊臣秀吉も

徳川家康ー妙光尼ー大政所ー豊臣秀吉

というつながりが浮かび上がります。

小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉は妹の旭姫を家康に嫁がせ、ついで大政所を和睦の使者に送ります。猜疑心の強い家康を懐柔する手段と解釈されますが、徳川家康と大政所は細いながらも人脈があるため、和睦の使者として適任であったことが分かるのです。さらに大政所が意外に重要人物であることも見えてきます。藤吉郎が織田家に仕官したつても、実は大政所と妙光尼であるのかもしれません。

 

誓願寺を通して、源頼朝、今川家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が不思議なつながりを持っていることが分かると思います。次に京都の誓願寺について調べてみましょう。

2021年8月19日 (木)

丸子部の謎(3)徳川家康と誓願寺

1)岡崎の誓願寺

愛知県岡崎市にも誓願寺があります。これは徳川家康が誓願寺51世泰翁のために建立した寺です。本尊は阿弥陀如来です。浄土宗西山深草派。

泰翁は京都の誓願寺の51世住職でした。京都の誓願寺というのは、飛鳥時代から山城国乙訓郡にある寺で、平安時代から浄土信仰と女人救済の中心地でした。もちろんこのシリーズで詳細に説明します。戦国時代には浄土宗西山深草派の総本山でした。

 

2)大林寺三世照翁

泰翁について語るためには、まずその師匠にである大林寺3世の照翁について語らなければなりません。

大林寺は岡崎市の魚町にある寺です。やはり浄土宗西山深草派。徳川家康の祖父清康は尾張国守山城で変死し、大林寺に葬られました。清康夫人春姫は大林寺で尼となって清康の菩提を弔いました。そして大林寺に葬られています。

家康の父広忠も夭折し、墓は大林寺にあります。家康にとって大林寺は祖父母と父の墓がある重要な寺です。春姫の父松平昌安(西郷信貞)の墓も大林寺にありますので、もともとは岡崎松平家の菩提寺であったようです。清康、広忠は変死して岩津松平家は混乱していたので、春姫の実家でひそかに両者を弔ったと考えられます。

その頃の大林寺の住職であった照翁が京都時代に育てたのが泰翁です。

3)山科言継

山科言継は京都山科に所領を持つ下級公家でした。所領を室町幕府に横領されて困窮しました。その時の朝廷は、天皇の即位の礼を開くための資金にも事欠く有様で、財政の実務責任者であった内蔵人の山科言継は、全国各地の大名を回って朝廷のために金策に走りました。

彼の日記「言継卿記」が残されており、戦国時代の重要な史料となっています。

山科言継は照翁から仏道を学んでいました。それで照翁の高弟で京都の誓願寺の住職であった泰翁と交流があったと考えられます。言継卿記には泰翁の名前が頻繁に出てきます。

4)徳川改姓

徳川家康は永禄九年(1566)に、朝廷に奏請して、姓を松平から徳川に変更しました。そして従五位三河上の官位ももらっています。朝廷への申請ルートは徳川家康―泰翁ー関白近衛前久ー正親町天皇です。徳川家康は徳川姓への変更のお礼として後奈良天皇の十三回忌の費用二万疋を寄付をしていますので、お膳立てをしたのが、内蔵人の山科言継であることも間違いありません。

徳川家康はこの時のお礼に、岡崎に誓願寺を建立して、泰翁を開基として迎えました。

2021年8月18日 (水)

丸子部の謎(2)丸子宿の誓願寺、徳願寺とダイダラボッチ

1)丸子宿の誓願寺

東海道の丸子宿は安倍川をはさんで駿府(静岡市)の向かい。今では静岡市の一部になっています。

丸子宿には源頼朝が父母の供養のために建立した誓願寺があります。本尊は阿弥陀如来。誓願寺は真言宗と浄土宗系統の寺が多いので、本来は高野山配下の寺であったと考えられますが、今川氏と武田氏の戦乱によって荒廃し、武田信玄の命で領主の斎藤安元が再興しその時に臨済宗となりました。

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丸子と朝比奈の境目の宇津山は修験者がいたようで、遁世者が隠れ住む場所として歌枕になっていました。「十六夜日記」に山伏に会ったと書いてあり、「信西法師集」や「新古今和歌集」に藤原家隆の「旅ねする 夢路はゆるせ うつの山 せきとはきかず もる人もなし」という歌が残っています。「海道記」「東関紀行」などに当時の風景が記録されています。

「吾妻鏡」では、承元四年(1210)に、将軍源実朝夫人の女房が宇津山で群盗に襲われています。丸子には頼朝が立てた誓願寺があります。丸子の隣は朝比奈で、この駿河の朝比奈氏は三浦氏と同族ともいわれています。「吾妻鏡」は公暁が実朝を暗殺した際に、三浦義村の指示で動いていたかのように匂わしています。丸子は将軍家にとって重要な土地なのに、将軍正妻の女官が襲われるというのは一大事で、実朝と丸子部・三浦氏・朝比奈氏の間には、何か確執があったのかもしれません。

もしくは、宇津山は歌枕なので、歌が好きだった将軍夫妻のお土産に、なにか訪問の印になるものを取ってこようとしてこの女房が道に迷い、山賊に襲われたのかもしれません。何かの拍子に、この女房を襲った山賊が三浦氏の縁者であることが判明してしまい、それで三浦氏が先手を打って実朝暗殺した可能性もあります。

 

2)今川氏と丸子

今川氏の中興の祖である氏親と生母の北川殿は丸子に縁があったらしく、丸子周辺に史跡が残っています。

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勧昌院の参道と天柱山。安房国丸子の莫越山と形が似ています。天柱山という名前から、この山が古くから信仰されていたことが伺えます。

歓昌院(歓勝院)には幼少時の氏親が隠れ住んでいたという伝承があります。当時の氏親は伯父の小鹿範光と家督を争っていましたので、難を避けていたのかもしれません。

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駿府から安倍川を渡った丸子の入り口には徳願寺があり、北川殿の菩提寺です。北川殿は幕府政所執事伊勢氏の娘で、今川義忠に嫁ぎ氏親を生みました。伊勢宗瑞(北条早雲)の姉もしくは妹でした。氏親が幼いうちに義忠が遠江で討ち死にしたため、後見の小鹿範光に家督を奪われそうになりますが、弟の伊勢宗瑞の支援を受けて、小鹿氏を滅ぼして今川氏親を当主にしました。氏親が若いうちは実質的な今川家の当主として活動しました。戦国大名今川氏の発展には、北川殿と伊勢宗瑞の姉弟が果たした役割は大きいです。

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北川殿のお墓

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徳願寺は300mの徳願寺山の中腹にあります。徳願寺からは息子がいる駿府と弟の伊豆国が一望できます。家族を見守ることができる土地に葬られることを望んだ北川殿の優しさを感じました。

 

3)徳願寺とダイダラボッチ

ところで、徳願寺に参拝して、ここがかつては真言密教の山岳仏教の道場であり、徳願寺山は大窪山と呼ばれていたことを知りました。しかも大窪山と書いて「だいあさん」と呼ぶそうです。

なんと丸子の奥の藁科にはダイラボウという山があり、ダイダラボッチの伝説があります。駿河ではダイダラボッチのことをダイラボウと呼ぶのです。ということは大窪山(だいあさん)はダイラボウ、即ちダイダラボッチを指す可能性が出てきます。

大久保、ダイダラボッチで検索してみると沢山の伝説がヒットします。大久保、大窪という地名はダイダラボッチ伝説の痕跡である可能性が出てきました。

しかも四国八十八ヶ所の結願寺(最後のお寺)は大窪寺といいます。徳願寺は真言密教のお寺でしたから、四国の大窪寺を意識して大窪山と名付けたことは間違いないです。大窪寺がある医王山は、讃岐平野からも徳島からも目立ちます。とすると四国八十八ヶ所の大窪寺も、ダイダラボッチ伝説と関連があるのかもしれません。讃岐にもオジョモという巨人伝説があるのです。弘法伝説とダイダラボッチ伝説に繋がりがある可能性が出てきました。

つまり山岳仏教の行者たちは、巨人伝説がある山を選んで道場にしていたかもしれないということです。八十八ヶ所に祀られている観世音菩薩や虚空蔵菩薩の元の姿はダイダラボッチだったのかもしれません。そう思うと、お遍路もワクワクしてきます。

 

4)穴山氏と誓願寺

氏親の孫の今川氏真の代に、今川氏は武田家と徳川家から攻められて領地を失ってしまいますが、丸子城は武田信玄の娘婿穴山信君(梅雪)の領地となりました。不思議なことに穴山氏は、丸子城に戦うことなく接収したという伝承があり、調略で丸子を得たのかもしれません。

誓願寺は今川と武田の戦いで焼亡したため、源頼朝と丸子のつながりをたどるための資料は残されていません。

武田勝頼が滅びた際に穴山信君は徳川家康を通じて織田家に寝返りました。武田勝頼を滅ぼした褒美に、織田信長はこの二人を安土に呼んで歓待し、堺を見物するように勧めました。徳川主従と穴山信君が堺を観光している最中に本能寺の変が起き、両者は山道を抜けて脱出するのですが、穴山信君は途中で徳川家康とははぐれ、落ち武者狩りにあって命を落としました。

あとで説明しますが、徳川家康もまた丸子の誓願寺と縁があります。穴山信君と徳川家康を結んだのも誓願寺であるかもしれません。

 

5)片桐且元と誓願寺

慶長十九年に豊臣秀頼が鋳た方広寺の梵鐘に「国家安康・君臣豊楽」とあり、それを徳川家康が難じました。それに対して弁明の使者として、大阪が駿府に送ったのが片桐且元と大野治長でした。当時前将軍で大御所の徳川家康は、駿府を住居としていました。片桐且元は北山殿の墓所がある徳願寺に逗留しています。

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片桐且元夫妻のお墓

やがて大阪城内で孤立した片桐且元は、大阪城を退去し、豊臣氏滅亡の数日後に死去しているので自害したのではないかとされています。片桐且元夫妻の墓は誓願寺にあります。そのため、大阪城退去後は家康のお膝元の、丸子宿の誓願寺で保護されていたのでしょう。

あとで見るように豊臣家と誓願寺も縁が深いです。そのため片桐且元を預かる施設として誓願寺は適していたと思われます。

2021年8月17日 (火)

丸子部の謎(1)源頼朝

丸子部という古代氏族があります。継体天皇や用明天皇の王子に丸子皇子・椀子皇子・麻呂子皇子という名前の皇子がいるので、皇族を育成する壬生部だったのではないかと言われています。丸子・丸という地名は千葉県南房総市、静岡県静岡市、沼津市、長野県上田市、神奈川県川崎市などにあり、和名抄にも載っています。これらの地域には延喜式内社もあり古代から開かれた地域であったようです。

 

万葉集には常陸国久慈郡の丸子部佐壯(まるこべのすけお)が詠んだ防人歌が掲載されています。奈良時代にも活動していたことがわかります。安房国の丸氏は南北朝時代に中先代の乱に参加しており、信州上田の丸子氏は戦国時代まで残っていました。

 

丸子には日本武尊伝説が残っているため、何か関連があるのではないかと言われています。

 

なんともとらえどころがない氏族ですが、安房国の丸郷(南房総市丸山町)を調べて、源頼朝とのつながりが見えてきました。

 

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1)丸御厨

治承四年(1180)の8月17日、以仁王の令旨を受けて旗揚げした源頼朝は、23日に真鶴の石橋山で大庭景親と伊藤祐親の軍に敗北。山中を彷徨した後に船で相模を脱出し、29日に安房国平北郡猟島に上陸します。付き従う侍は土肥実平、北条時政、義時父子など数名だったと言われています。吾妻鏡によると洲崎神社と丸御厨を訪問し、上総下総の豪族に軍に参加するように使者を出したとされています。

安房国の丸郷は平治元年(1159)に源義朝が嫡男頼朝の昇進を願って伊勢神宮に寄進した荘園です。そのため丸御厨(御厨は伊勢神宮の荘園)と呼ばれていました。開発領主は丸子部の末裔の丸氏です。

 

2)丸氏と和田氏

この辺りは朝夷郡と呼ばれていました。通常は「あさい」と読みますが「あさひな」と読むこともあります。先に述べた静岡県の丸子宿の近くにも、朝夷という地名がありこちらは普通「あさひな」と読みます。これは鎌倉時代から戦国時代まで活躍した豪族の朝比奈氏の本拠地です。

初代侍所の和田義盛の三男の朝比奈義秀は、この朝夷郡で育ったので朝比奈という名字を名乗っています。そのため、和田氏の所領が安房国の朝夷郡にあったのではないかと考えられます。朝比奈義秀が育ったとされる千倉は丸郷のすぐ南です。

安房で源頼朝に追いついた和田義盛は、この時に侍所の別当になることを所望したと言われています。朝夷が和田氏の所領で、この時に和田義盛が頼朝に食糧や武具を補給して、その褒美として侍所を望んだのであれば分かります。

 

3)丸氏と鎌倉党

鎌倉党という武士団があります。相模国鎌倉郡に広がった桓武平氏で高望王の子の平良文の子孫とされています。三浦氏、鎌倉氏、村岡氏、三浦氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏などです。

三浦氏や鎌倉市の始祖は平忠通です。平忠通は桓武平氏の平良文の子孫とされていますが証拠はありません。平忠通は源頼光、源頼信に仕えたとされています。

平忠通の子の村岡章名は相模大領の丸子公影の婿となり鎌倉郡に土着、子孫が鎌倉党として栄えました。大領というのは郡司の最高官です。丸子氏は恐らく鎌倉郡の郡司であったと考えられます。郡司は古代からその土地に根を張る氏族が代々就任します。鎌倉市や横浜市金沢区の六浦と千葉県南房総市は関東地方でも飛鳥時代から奈良時代にかけての横穴墓が多い地域で、古代にこの地域を開発した人々の墓ではないかとされています。この集団が丸子部であったのではないでしょうか。

村岡氏は丸子氏に婿入りすることで相模の国の中心部に広がります。村岡氏と同族の三浦氏も、和田氏が安房国の朝夷郡に領地を持っていたことから、三浦半島と房総半島の豪族と縁戚関係を結んだだようです。

桓武天皇―高望王ー平良文・・・村岡忠道(平忠通)ー村岡章名(丸氏婿)ー鎌倉党

                          |ー三浦氏

4)頼朝と丸子部

安房に落ち延びた頼朝が、丸子部の関東での本拠地の丸御厨を訪問したのは、丸子部と同族の鎌倉党に軍勢に参加するようアピールする意味があったと考えられます。これが功を奏したのか、石橋山の合戦では平家方についた鎌倉党の過半が今度は頼朝側につき、大庭景親は富士川の合戦で頼朝に敗北して処刑されました。これにより鎌倉党は完全に頼朝の配下となり、鎌倉党は御家人の核として働くようになるのです。

2021年1月30日 (土)

かぐや姫(つくば市の蚕影神社と六所皇大神宮)

 

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筑波山の南麓の豊浦の地には常陸養蚕三社の一つである蚕影神社(こかげじんじゃ)があります。

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豊浦から見た筑波山

 

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蚕影神社

 

蚕影神社には3つの由来があります。

(1)第十三代成務天皇の時代に阿部閇色命(あべしこおのみこと)が筑波国造に赴任し、筑波大神に奉仕し、豊浦の地に稚産霊命(わかむすびのみこと)を祀った

(2)昔金色姫が現れて常陸国に養蚕を伝えた時に、筑波の神が影道仙人となって表れて、里の人々に絹糸と布の作り方を教えた

(3)金色姫が欽明天皇の皇女各夜姫(かぐやひめ)として生まれ変わり、筑波の土地に飛来し、神衣を織り、国人たちに養蚕太伸とあがめられた。

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3つそれぞれに根拠がありそうです。(1)成務天皇とは日本武尊の弟です。常陸国が大和朝廷に服属したのは、日本武尊の時代と言われています。阿部閇色命はこの土地に大和地方の信仰を導入したのでしょう。稚産霊命は産業の神様です。下総国の麻賀多神社でも祀られています。どうやら、大和朝廷の支配が常陸や下総に届いたときに、近畿から最初に入ってきた神様は稚産霊命らしいことが分かります。

 

(2)は先に見た星福寺の金色姫伝説です。大陸から活発に技術が導入された六世紀から七世紀にかけての、この地域に起きた変化を表していそうです。

 

(3)は平安貴族が「竹取物語」として改変する前の「原かぐや姫」を伝えています。かぐや姫は元々は筑波の養蚕起源伝説であったようです。かぐや姫は古事記では垂仁天皇の后として登場します。そういう名前の皇族はどうやら上古にいたようです。筑波の伝説では欽明天皇の王女が空を飛んで筑波に舞い降りて、養蚕機織りの技術を伝えたとなっています。

 

私はこの筑波の各夜姫は日本の野蚕であるヤママユを説話にしたものではないかと思うのですがどうでしょうか。ヤママユの幼虫は美しいエメラルドグリーンをしており、緑色の繭を作ります。これが緑色の月の光を連想させ、紀貫之をして月のお姫様の物語を作らせたのではないかと思うのです。

 

さて、蚕影神社から歩いて一時間余り、筑波山の登り口にはかつて六所皇大神宮がありました。皇大神宮とあるように、伊勢神宮の分社でした。伝承では桓武天皇の時代に坂上田村麻呂が鳥居を作ったことになっており、源頼朝が御家人と共に寄進をしたことが確認できるので、少なくとも平安時代にはこの神社は成立していたようです。

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室町時代から江戸時代にかけて、この地域の伊勢信仰の中心として栄えたものの、残念ながらこの神社は戦前に政府によって弾圧されたらしく(村社としての存続が許されなく、無収入になってしまい、祭祀が途切れかけた)、鳥居の根元から発掘されたと言う坂之上田村麻呂の名前があったという銅鏡も、この神社の由来を示す文章もどこにあるのかは不明です。現在この神社は神社本庁には属さない宗教団体が管理しているので出土物や文書は或いはこの団体が保有しているのかもしれませんが公開はされていないのでこれ以上の調査が難しいです。

面白いことに、この神社には幼少期の天照大神が育った土地という伝説があります。果たしてこれは中世に後付けされた話と片づけてよいのか。

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私が気になるのは、あの有名な天の岩屋戸伝説は金色姫と同じストーリー展開であることに気が付いたからです。天の岩戸でも、天照大神が弟の素戔嗚尊の数々の暴虐にショックを受けて岩戸の中に引き籠ってしまいます。そしてより強力な太陽神として復活します。身近な人からいじめられる、中空状の場所に籠って変身するというのは金色姫型の養蚕起源伝説の重要な要素です。

天照大神が元々は養蚕の神様だったのではないかというのは古くから提唱されている説です。記紀神話でも岩戸隠れに先行して、天照大神の侍女(本人という説もある)が機織りをするシーンが入ります。これは天の岩屋戸伝説が、本来は日本固有の養蚕起源伝説を基としている可能性を示唆します。

平安の朝廷も常陸国に残る養蚕起源伝説と記紀神話の類似に気が付いていたのではないでしょうか。それで筑波山のふもとに伊勢神宮の分所を作って崇拝したのではないかと私には思えてなりません。

しかし明治政府は、東国に天照大神の起源に触れる神社があることを、記紀神話との矛盾と捉えたのでしょう。この神社の存続を許しませんでした。

それはともかく、この神社の奥の森林と清流は美しく、古代人が天照大神が幼少期を過ごしたと想像したのも無理はないように私には思えました。筑波山は万葉集の時代から夫婦の神様がいる山として有名でした。山頂が二つあるのですからそれは自然です。その麓に筑波山の夫婦神の子供の神様がいてもおかしくありません。

 

※私は現在六所皇大神宮跡を管理している宗教団体とは全く関係はありません。

2021年1月23日 (土)

金色姫とシンデレラ(神栖市の蚕霊神社)

(1)常陸国養蚕三社

常陸国(茨城県)には、日本の養蚕の起源と呼ばれる三つの神社があります。神栖市の蚕霊神社(さんれいじんじゃ)、つくば市の蚕影神社(こかげじんじゃ)、日立市の蚕養神社(こかいじんじゃ)です。

この三社は日本全国にある養蚕神社の起源と言われています。かつて養蚕が盛んだったころには、この三社にはたくさんの養蚕や絹織物の関係者が参拝に押し掛けました。

三社の由来には金色姫という共通の伝説があります。継母にいじめられた異国のお姫様が日本に漂着して、養蚕を広めるという物語です。これは養蚕の起源を伝える神話としては広く世界に広がっています。

概要は、若い女性が身内(たいていは継母である)からいじめられて様々な困難に見舞われ、しかしそれを機転や親切な人の助けや動物の助けで切り抜けます。業を煮やした継母は、その女性を船に乗せて海や川に流してしまいます。流れ着いた先で女性は親切な老夫婦に助けられるのですが、やがて病気で亡くなってしまいます。しかし老夫婦の夢の中に現れて、自分は虫に変身したからそれを大事に育ててほしい、その虫から糸を取って役立ててほしいと言います。老夫婦が女性の遺品を調べると、箱の中には蚕がいて、そこから養蚕が始まったという話です。

それでは今週と来週は茨城県の蚕霊神社と蚕影神社を訪れてみましょう。

 

(2)神栖市の蚕霊神社と星福寺

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茨城県神栖市の蚕霊神社(さんれいじんじゃ)

 

茨城県の神栖市に養蚕の起源を伝える神社の一つである蚕霊神社があります。この神社は星福寺というお寺に付随する祠でした。明治の神仏分離令によって、神社として独立しました。

 

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星福寺の本堂

 

そのため、星福寺創立の縁起と蚕霊神社の由来は同一です。

 

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星福寺の縁起

飛鳥時代の舒明天皇の時代に、インドから金色姫が流れ着いて、養蚕を広めたという内容です。金色姫を助けたのは、常陸国日川に住む権太夫さんでした。権太夫さんは養蚕で豊かになり、全国に技術を広めて星福寺を建てたのでした。

 

石碑の抜粋

当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(日川)蚕霊山千手院星福寺と称し、奥之院ご本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩)あり(※現在の蚕霊神社のこと)、養蚕守護の尊霊にして、養蚕業者悉く帰依渇望の念を運びきたりて参詣報賽せあらる、霊城赫々四方に高く、これ他に求むべけんや、縁起によれば桑の宇津魚舟が塩路常陸なる豊良浦に漂着、時に舒明帝十三年(584)所の漁師権太夫その浮流木を薪にせんと打ち破りてみれば、金色宝々たる姫宮光明赫々なるをみ黒塚権太夫大いに驚き、家に持ち帰り大事に養育せり、父大王からは汝仏法流布の国に行き、蒼生(民衆)を済度せよ(救え)と今比の浦に流れ来た、霊記によれば蚕虫化した姫宮は桑の葉を食し重ねるに宿縁有りて繭となる。その時影道仙人ありてこれを糸と布とにし、寒暑を防ぐ衣服とすることを教え、後権太夫富を得、諸国を巡り蚕業の普及を図り、一宇建立し尊霊を安置し、蚕霊尊と称し、毎年十一月酉の日を礼典、怠ることなく守護、されば絹は豊良浦より起こり常陸絹として名誉後に伝う。

降りて室町時代から江戸時代には益々信を起こし、善を修し大伽藍を建立し世業の円満成就は曼荼羅の和合よりと、人世は相互供養の上にこそ佳すべきなりと、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆を見、その名刹を江湖に知られるに至る・・・

 

 

(3)金色姫伝説の矛盾

金色姫伝説には矛盾があります。日本では縄文時代の後期にはすでに絹がありました。遺物が出土しています。古代支那でも日本産の絹布は知られていました。星福寺の伝説では金色姫は六世紀の終わりごろに日本に来たことになっています。ですので、金色姫から養蚕が始まったというのは歴史的には正確ではありません。

金色姫伝説はインドより西方の養蚕起源伝説として一般的です。インドのアッサム地方には金色の糸を作る野蚕(ヤサン)がいます。野蚕とは野生の蚕のことです。カイコガの仲間で日本にも古くからヤママユやクワコがいます。桑以外の木の葉も食べます。やはり繭を作り、そこから糸を取ることができます。日本のヤママユからは美しい黄緑色の糸が取れます。皇居で皇室の女性が飼育されているのはヤママユです。古代の絹布を再現する際に、上皇后さまが皇居で飼育している蚕をご提供されたことが報道されたので、覚えている方もいるかもしれません。

インドのアッサムにはエリ蚕という野蚕がいて、美しい金色の繭を作ります。画像検索でも出てきます。この金色の絹がエキゾチックな興味を掻き立てて、金色姫の伝説を生み出したのではないかと考えられます。

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蚕霊神社の由来

 

(4)蚕霊神社と星福寺の起源

では星福寺とはどういうお寺であるのか?常陸国で養蚕が盛んであったことは奈良時代には確認ができます。この黒塚権太夫さんはおそらく大陸渡来の新技術で養蚕を改良したのでしょう。その技術は仏教と同時に常陸の地に導入されたのかもしれません。養蚕を改良して巨万の富を築いた権太夫さんはお寺を建てたのでしょう。これが星福寺です。権太夫さんが活躍したのが舒明天皇の時期だったのでしょう。

残りの養蚕神社のつくば市の蚕影神社の由来も大同小異なのですが、起源が百年さかのぼって欽明天皇の時代になっています。そこには各夜姫(かぐやひめ)が金色姫の生まれ変わりとして登場します。これは次週取り上げます。日立市の蚕養神社では孝霊天皇の時代となっています。蚕養神社が一番古いのですが、孝霊天皇の時代にインドからお姫様が漂着するというのは無理があります。なんらかの後世の後付けがあるのでしょう。しかし日立市もなにか養蚕に由来のある土地だったのかもしれません。

 

(5)軽皇子と中臣鎌足

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星福寺ができたのは舒明天皇の代です。舒明天皇は聖徳太子で有名な推古天皇の次代です。そして皇后は宝皇女で舒明天皇の次に皇極天皇となります。宝皇女は舒明天皇の姪です。皇極天皇は乙巳の変(大化の改新)の後に弟の軽皇子(かるのおうじ)に譲位します。そして弟の軽皇子が孝徳天皇となりました。宝皇女と軽皇子は姉弟で茅渟王の子供です。舒明天皇と茅渟王は兄弟です。

そして舒明天皇と皇極天皇の間に生まれたのが、天智天皇と天武天皇の兄弟です。

何故舒明天皇の一家のことを説明したかというと、なんと星福寺のすぐ近くには「軽野」という地名があるからです。

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神栖市立軽野小学校正門

 

果たしてこの神栖にある軽野と軽皇子は関連があるのでしょうか?私はあると考えています。神栖の軽野と軽皇子をつなげるのは中臣鎌足です。

藤原氏の始祖である中臣鎌足は鹿島神宮の出身でした。上総国の豪族の生まれだったと言われています。優秀であったので、鹿島の中臣氏の養子となり、さらに飛鳥に留学することになりました。中臣鎌足は最初は軽皇子の学友でした。そこでも異才を発揮し、中大兄皇子の目に留まったと言われています。

私が推測する経緯はこうです。舒明天皇の時代に常陸国は養蚕業で大変に栄えていました。養蚕業者の権太夫さんは舒明天皇の一族に資金援助したのでしょう。あるいは舒明天皇かその弟である茅渟王の部民だったのかもしれません。それで茅渟王は権太夫さんが持つ土地である軽野を息子の名前に付けたのではないでしょうか。当時は王子を養い育てる費用を負担した土地の名前を、王子に名付けるのが一般的でした。

そして権太夫さんは郷土の有為な人材は支援していたのでしょう。鹿島神宮にいるという俊才に援助して飛鳥で最新の知識を身に付けさせようとしたのでしょう。それが中臣鎌足青年だったのです。

上総国の高倉観音に伝わる中臣鎌足の出生伝説では、彼の両親は豪族ではなく裕福な農民とされています(母方は大伴氏だったらしい)。どうやら中臣鎌足は農民だったけれども、才能を見出されて鹿島神宮の中臣氏の養子になり、さらに飛鳥に留学するというようにして、出世していったらしいのです。日本史を支配した藤原氏の始祖が、古代業族ではなかったかもしれないのは驚くべきことです。藤原鎌足も日本史で時々現れる豊臣秀吉や伊藤博文と言った、シンデレラボーイの一人だったのかもしれませんね。

 

(6)金色姫とシンデレラ

さて表題ですが、金色姫の伝説の内容はシンデレラそっくりであることに気が付きましたか?おそらく金色姫伝説が西洋に伝わり、養蚕の部分が抜け落ちたのがシンデレラなのでしょう。金色姫の伝説はペルシャ・トルコ・イタリアあたりまでは養蚕と結びついていますが、それ以上北では寒くて養蚕ができないので、蚕に変身するという部分が抜け落ちてしまったと考えられます。

しかし絹からはきれいな衣装が連想されますので、金色姫が死んで蚕に変身するという部分が、魔法でお姫様に変身するというように変えられたのではないかというのが私の推測です。

2020年12月12日 (土)

香取の古社

下総の東庄、小見川、神崎の気になる古社を回ってきました。

 

東大社

千葉県東庄町に東大社という神社があります。御祭神は玉依毗売命。鵜葺草葺不合命の妻で、神武天皇の母親です。

伝説では、景行天皇が日本武尊を偲んで東国を巡幸した際に、この地に七年とどまったと言われています。

堀河天皇の時代に、海上郡高見浦(銚子のあたり)の海が荒れて交易は止まり不漁となって人々が難渋したので、康和四年(1102)に朝廷は海上郡の総社であったこの神社に玉子大明神の尊号を賜い、神輿を銚子の高見ノ浦に押し出して祈らせたところ、海が治まり大漁となったので、以来この地域の三社(東大社、雷神社、豊玉姫神社)が隔年で銚子の渡海神社がある高見ノ浦に神輿を出すのが恒例となりました。今は二十年に一度の銚子大神幸祭となっています。この地域を襲った異変は、大地震による津波を表しているという説もあるそうです。

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この神社は台地の上にあります。当時は海が段丘涯のすぐ下まで来ていましたので、神社からは海がよく見渡せたことでしょう。航海の目印だったのかもしれません。打ち出し祭礼は茨城県の久慈郡金砂郷神社に現在でもあり、東京の府中でも品川の海まで神輿を運ぶ祭礼があったと言われています。海の向こうから神様が宝とともにやって来たという信仰が推測できるお祭りです。

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銚子大神幸祭の由来

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さすがは皇祖神の神社で鷹司平通・和子(昭和天皇次女)夫妻お手植えの杉があります。

 

豊玉姫神社

東大社から内陸に入っていき二時間くらい歩いて、豊玉姫神社があります。御祭神の豊玉比売は海神の娘で玉依姫のお姉さんです。彦火火出見尊の妻、鵜葺草葺不合命のお母さんに当たります。銚子大神幸祭に参加する三社の一つです。日本武尊がこの地で豊玉比売の祭祀をしたのが始まりと言われています。

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東大社から豊玉姫神社に向かう途中、太平洋側が見える場所があります。奥に見える溜池は、かつてこの地にあった椿海の名残です。江戸時代まではここから太平洋まで見渡す限り椿海という干潟でした。

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豊玉姫神社本殿。今では内陸であるが、かつてはこのすぐ下まで海が来ていました。境内はかなり広いです。鳥居から本殿まで結構歩きます。

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豊玉姫神社の縁起です。東大社と同工異曲。荒れる海を日本武尊が玉依姫を祀って沈めたとされています。海を鎮める神様は日本では女神が定番です。

 

木内大神

小見川の内陸には木内大神というとても古い神社があります。佐倉宗吾で登場した木内氏発祥の土地です。木内神社の創始は大同年間(807)、伊勢神宮の外宮から豊受姫命を勧請したとされています。印旛沼の麻賀多神社や船橋大神宮で見たように、下総国では豊受大神の信仰が古代から卓越しています。

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鎌倉時代に千葉常胤の息子の千葉胤朝がこの地に土着し木内氏となったとありますが、木内氏は千葉家より前からこの地にいる豪族で、千葉氏に婿入りするような形で一族に迎え入れられた可能性もあるでしょう。とても由緒がある一族だったわけで、堀田さんは大変な相手を敵に回してしまったと言えるかもしれません。

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鬱蒼とした鎮守の杜。厳粛な雰囲気を感じます。  

 

神崎神社

JRの下総神崎駅から、利根川へ向かって歩いて30分弱、川沿いの小高い丘の上に神崎神社があります。御祭神は天鳥船命、大己貴命、少彦名命、面足命。

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田んぼの中に浮かぶ島のような丘にあります。

常陸国河内郡と下総国香取郡の境、大浦沼の二つ塚から白鳳二年(674、天武天皇三年)にこの地に遷座したと伝わります。非常に古い神社です。平安時代初期の三代実録でも小松の神の名で記録されています。

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利根川の常陸側と下総側には対応するように似たような性質を持つ神様が配置されています。鹿島神宮には香取神宮。筑波神社には麻賀多神社といった具合に。神崎神社に対応するのは恐らく息栖神社です。両方とも船を神様とする神社で、かつては海の中に浮かぶ島だったからです。

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風格のある本殿です。優しさと威厳を併せ持った神社です。丘の上にあるので、清浄な感じがするのも良いです。個人的にはとてもおすすめです。

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本殿の奥には、樹齢千年ともいわれる「なんじゃもんじゃの木」があります。なんじゃもんじゃの木とは神聖な大木のことで、日本中にあります。この大樹は徳川光圀が見て「なんじゃこれは」と叫んだという伝説を持っていますが、実際はそれよりも前から神聖視されていたのでしょう。

 

下総には由緒ある神社がたくさんあります。すべて西国の移住者が持ち込んだと言うだけで説明はつかないと私は思います。玉依姫や豊玉比売だって、古事記に日向の神様と書いてあるからと言って、南九州からもたらされたと決めつける必要はないでしょう。海を鎮める海神の娘という信仰が、それこそ縄文の昔からあって、玉依姫や豊玉比売という名前はあとからつけられたのだと思います。

豊受姫神も海人族とは別系統の、海の民としての物部氏の神話の存在を想像させてくれます。神崎神社の天鳥船命は饒速日尊の天磐船を連想させますが、出雲の神と一緒に祀られていますので、天孫とはまた別の海の民の神話があったのかもしれません。

下総は日本神話を新たな目で見直す視点を与えてくれる不思議な宝箱です。

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