丸子部の謎(7)莫越山と名古屋の由来
1)莫越山神社
千葉県南房総市の旧丸山町には莫越山神社(なごしのやまのじんじゃ)があります。延喜式に安房国朝夷郡四座の一つとして記載されています。
祭神は彦火火出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合命。別に安房忌部の祖、手置帆追命、彦狭知命を祀ります。
神梅神社とも言い、小屋安様、祖神様とも通称されます。社伝によれば、源頼朝が御台所の安産を祈願して社殿を造営、神鏡および神田二十町を寄進したと言います。古くから濁酒を醸造して、祭典に神代酒と称して献納する風習がありました。番匠、鍛冶の上ともされています。
莫越山神社から北に3㎞ほど進むと山地との境界に鯨岡があります。鯨岡は常陸国では日本武尊とともに語られる地名です。集落の外れ、平野部とさんちの境目に鯨岡がある傾向がありますので、丸山町の鯨岡も、この古代の鯨岡の特徴を満たしています。
2)万葉集
万葉集 巻10-1822に莫越山が登場します。
我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに
原文は 吾瀬子乎 莫越山能 喚子鳥 君喚變瀬 夜之不深刀尓
莫越山能を佐々木信綱は「な巨勢の山」と解釈しています。巨勢は大和にある山地です。
これは莫越山でないと意味が通りません。莫越山=名越山=なごえやまであり、名+声で「呼ぶ」の縁語もしくは枕詞になるからです。巨勢だと「なこせ」になってしまい、呼子鳥の縁語になりません。
なぜ莫越山というかというと、常陸と磐城の間にある勿来関と同じで、蝦夷に「越える莫れ」と言っているのです。莫越山のすぐ先には、大和朝廷と蝦夷の境界を表す鯨岡があります。丸子部は朝廷から送られてきた移住者なので、境界に呪術的な名前を付けたのでしょう。
とすると万葉集の1822番はとても分かりやすい歌になります。「愛しい人に山を越えて行ってしまわないでと、鳥よ鳴いて呼び返してくれ」という切ない歌になります。丸子部の間で伝えられた歌なのでしょう。丸子部は皇族の子供を育てる部民なので中央に歌が残ってもおかしくはないです。
万葉集1822番は、鎌倉を開発したのが丸子部であり、三浦半島との境界に莫越山(名越山)と名付けた傍証にもなる重要な歌です。
3)名越
丸子部が住んでいた相模国の鎌倉には名越峠があります。鎌倉と三浦半島の間にある山です。50mくらいの様に細い山道があります。鎌倉市の中心部を西に進むと大町があり、この辺りには北条家の邸宅がありました。かつては源頼義の三男新羅三郎義光とその子孫が住んだので佐竹屋敷と呼ばれていました。佐竹氏はやがて常陸国北部に土着します。源義朝よりも前に鎌倉に住んだのが佐竹氏であったのは驚きです。
名越の切通の入り口には二代目執権の息子の北条朝時とその子孫が住むようになり、彼らは名越氏と呼ばれるようになりました。
この名越は恐らく安房から鎌倉に移住した丸子部が、鎌倉西武の山を、安房の莫越山に見立てたのでしょう。
4)久慈郡の丸子部
佐竹氏が土着した常陸国久慈郡にも古くから丸子部が住んでいました。万葉集に歌が残されています。
万葉集巻20-4368番
久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む
久慈郡丸子部佐壮の防人歌です。久慈川よ待っていてくれ、海を渡る船を漕いで私はきっと帰ってくる。という西国へ出発する防人の決意と望郷の歌です。心を打ちますね。
5)那古野氏
愛知県名古屋市はかつては那古野と呼ばれていました。室町時代にはこの地を領する那古野氏がいました。
那古野氏は今川氏の一派で、今川頼国が名越高家の子名越高範を養子にしたと言われています。室町幕府の奉行衆でした。
名越高家は鎌倉幕府評定衆の一員で、赤松氏の反乱を鎮圧するために播磨に向かい戦死したとされています。今川了俊が記した「難太平記」によると、高家は今川頼国の妹と妻としていて、その子が名越高範だったといいます。そして中先代の乱で高範は今川頼国に保護されて、養子になったそうです。
ただし那古野今川氏の系譜は確定していません。
6)那古・奈古・奈胡・名郷・名越
「なこ」という地名は日本中にあります。
那古(千葉県館山市) 坂東三十三観音三十三番札所那古観音があります。古くからの港町。
奈古谷・奈胡谷(静岡県伊豆の国市・なごや) 韮山にある。北条氏発祥の地から一里くらいしか離れていない。
奈胡(福井県小浜市) 阿奈志神社がある。同名の神社が愛知県の知多半島にもある。
名郷浦(千葉県館山市) 那古のま南、向かいの地名。
名越(愛知県新城市)、(滋賀県長浜町)、(大阪府貝塚市)、(岐阜県白川町)
さて面白いことに他でもない北条氏発祥の地の近辺の地名がなごや(奈古谷)です。
そして尾張国の那古野今川氏は、北条氏を養子にしたという記録があります。
7)那古野の名越氏の正体
私が推測するに、尾張国那古野と伊豆国奈古谷には同じ一族が古くから住んでいたのでしょう。そこに北条氏がやって来て姻戚関係を結んだのだと考えられます。今川氏が尾張国に進出するにあたって、那古野の豪族と縁戚関係を結んだと考えられます。那古野は北条氏の名越と音が近いですし、実際に北条氏と血縁関係にあった可能性もありますので、これが今川家の中で伝承されて、名越氏から養子を迎えたという内容になったのではないでしょうか。
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