擬声語、擬態語が豊富であるのは日本語の特徴の一つです。擬声語とはトントン、パタパタといった自然の音を言語化した単語で、擬態語はソワソワ、ユラユラといった音にならない状態を言語化した単語です。
特に日本語に特徴的なのは、上で例としたような二音節を重ねた擬声語、擬態語です。
しかし、論語や五経など古代中国語の書物を読んでいると、時折意味不明の繰り返しの語句が出てきます。
例えば論語の八佾に「天子穆穆」とあり、「天子は麗しい、ゆったりしている」と訳しますが、実際のところ意味はよくわかっていません。
論語の雍也に「文質彬彬」とあり、バランスがとれた文体と訳されています。
日本語の研究者には国粋主義的なところがあって、あまり漢文や仏典の影響を認めたがらないのですが、二音節の繰り返しは日本語というよりは中国語に近い単語の作り方であるので、日本語の擬声語と擬態語は三千年前から二千年前にかけて中国から渡ってきた人達が日本語にもたらしたのではないかと私は思います。
どこかの博物館で縄文時代の言語を再現した展示があったのですが、擬声語と擬態語が古い日本語だという前提に立って、擬声語と擬態語を組み合わせたような言語を作っていました。しかしこれは縄文人ではなくて中国からの移民がもたらしたのではないかと思います。
例えばかんかん照りのカンカンは「干干」でしょうし、ざあざあ雨が降るは「漸漸」でしょうし、ふわふわは「孚孚」ではないかと思います。ちょきちょき切るは「摘摘」です。
まあ、日本語の古層に中国語の影響があることを認めたくない人は多いので、市民権は得られないと思いますが。
多分上の論語の「穆穆」は「ポカポカ陽気」の「ポカポカ」語源で、「彬彬」は「ピンピンしている」の「ピンピン」の語源だと思います。諡号(王や皇帝に死後つけられる名前)で「穆」は徳を広く行き渡らせた優しい王に付けられます。彬は形式と装飾が並び備わっている、という意味です。
逆に五経で意味不明とされているこれらの繰り返し語句は、日本語を参考にすると解明できるのでは?と私は考えています。
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