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2021年10月11日 (月)

鯨地名(島根県) 海部系神話の故郷

Shimane2

鯨島

島根県松江市美保関町福浦

美保関は出雲神話では事代主神の故郷です。まず岬の先端には恵比須神社があります。美保関の湾には美保神社があり、御祭神はもちろん事代主神です。出雲国譲り神話では、事代主神はこの岬で釣りをしていたことになっています。

鳥取県の境港の向かいの福浦にも美保神社があります。御祭神は美保津姫と事代主神です。出雲国風土記島根郡に載る美保社に比定されています。同社では漁師が春と秋に「なます祭」を行うとあります。春は大根なますに鰯、秋は大根なますにイリコと鰹を炒って混ぜて食します。そして秋にはその後竜神祭が行われます。美保神社より一町ほどの海上に鯨島という島があり、「雲陽誌」によると大昔のこの海上へ鯨が集まって美保社に年頭の礼をしたそうです。その時に一頭の鯨が凝り固まって島となったので鯨島と名付けたとあります。鯨が固まって島となるという伝説は北海道や東北でも見られます。

 

鯨ヶ浦 くじらがうら

島根県美保関町諸喰

美保神社の北、外海側の雲津には多数の入り江があり、東から細尾、竹ヶ浦、鯨ヶ浦と呼ばれているそうです(平凡社地名辞典)。どの入り江が鯨ヶ浦かは未確認です。出雲国風土記に久毛等浦(くもつうら)があり、雲津浦に比定されています。風土記には十艘の船が停泊可能と記されています。隠岐に渡るための風待ち湊で、隠岐に流された源義親が脱出してこの地に上陸して暴れて平正盛に討たれたので、それにまつわる伝説が数多く残っています。また後鳥羽上皇と後醍醐廃帝が隠岐に流される際にも風待ちのために滞在したとされています。

 

久白 くじら

島根県安来市久白町

久白川流域の地名です。「雲陽誌」に鯨村と記録があります。塩津神社一帯には数多くの古墳があります。字大平の谷あいには久白廃寺跡があり単弁蓮華文鐙瓦が出土していて、奈良時代から平安時代かけてこの地に寺があったと推定されます。中仙寺墳墓群では弥生時代の四隅突出型墳墓が見つかっており、直刀や多数の鉄鏃が見つかっています。残念ながら未調査のまま破壊された墳墓も多いそうです。宮山墳墓群には出雲第二位の規模を誇る前方後円墳があったものの、学校建設のために完全に破壊されました。埴輪と葺石があり、五世紀代の古墳と推定されるそうです。この辺りは弥生時代の四隅突出型古墳と古墳時代の前方後円墳が混在する珍しい墳墓群です。

 

久代 くしろ

島根県浜田市久代町

この地域にはかつて石見国国府がありました。櫛色天蘿箇彦命神社(くしろあめのこけつひこじんじゃ)があり、延喜式に載る那賀郡の同名の社に比定されています。始めは久代の稲葉に鎮座し、底筒男命・中筒男命・上筒男命を祀っていました。明治44年には庵の上(あんのうえ)にあった大年神社を合祀しています。大年神社は恐らく大歳神を祀った神社であり、葛城山の麓には葛木御歳神社があり、静岡市の浅間神社にも大歳神が祀られていることから、この久代も鯨地名と推測されます。

益田市の久城と同じく櫛代氏が開拓した土地と考えられます。

 

 

久城 くしろ

島根県益田市久城町

益田川右岸の河口低地と遠田台地の西部一帯です。櫛代賀姫神社(くししろがひめじんじゃ)が地名の由来とされています。石見国西部の開拓者櫛代族が初めて定住した土地とされ、数多くの群集古墳があります。

櫛代賀姫神社は明星山にあり、御祭神は櫛代賀姫命です。延喜式神名帳美濃郡五座の一つです。櫛代賀姫命は櫛代族の祖神で、櫛代族が和泉国から石見に移住した時に、祖神の分霊を杜山に奉祭したとされます。天平九年(737)に益田歴短が官命によって社殿を建立し、大同元年(806)に藤原緒継が緒継浜へ社殿を移転したとされています。万寿三年(1026)の大津波で社殿が壊滅して、現在地に移転しました。

 

海部系神話の故郷

久城には櫛代賀姫命と久代の櫛色天蘿箇彦命にまつわる神話があります。女島と男島で二人は逢引きをするのだけれど、櫛色天蘿箇彦命がほっかむりをして通うので、いつしか二人はすれ違ってしまい、それが月の満ち欠けだという物です。櫛代賀姫神社が明星山にあることから、櫛代族は天文の知識を持った海部族だったと考えられます。櫛代賀姫命が太陽で、櫛色天蘿箇彦命が月、太陽と月が空の上で追いかけっこをして、月の影が移動していくことを、櫛色天蘿箇彦命の頬被りと表現したと考えられます。詩的でありながら自然をよく観察した神話です。

和泉国にも葛城山はあるので、櫛代族は和泉の葛城出身かもしれません。和泉の葛城山には八大竜王が祀られています。葛城修験では、山を二十八宿に見立てて礼拝します。やはり星座が関わっています。益田市には柿本があり、これは柿本人麻呂の終焉の地、あるいは故郷ではないかとされています。天津神神話と天体の対応関係: おかくじら (cocolog-nifty.com)にて解明したように、記紀神話は古代の星座の物語です。櫛代族、あるいは柿本氏が記紀神話の編纂に関わっているのかもしれません。櫛代造と柿本氏はともに和邇族とされているのです。

国譲り神話の原型: おかくじら (cocolog-nifty.com)で見たように、国譲り神話の原型は、鯨である事代主神を主人公とする物語であったと考えられます。出雲平野を開拓した出雲族は恐らく朝鮮半島からの移住者ですから、もともと石見と出雲には海部の櫛代族がいて、そこに農業や冶金に優れた出雲族が移住してきたのでしょう。両者は海と平野で住む地域を別々にしているので、移住は平和的に進んだことでしょう。

出雲族は櫛代族の神話を取り入れて素戔嗚尊の八岐大蛇神話や国造り、国譲りの神話を作ったと考えられます。その際に海の生き物や星座の部分は十分には理解されないで物語から脱落したと考えられます。こうして出雲ナイズされた神話が、飛鳥時代になって藤原京の朝廷に採用されて古事記と日本書紀が作られたと思われます。朝廷は天皇家のルーツが海部であることには気が付いていたようですが、葛城では伝承が失われていたため、葛城から移住した櫛代族の末裔である柿本人麻呂を編集者に入れて、海部の神話を復元しようとしたのではないかと私は推測しています。

柿本人麻呂がどこまで神話に隠された星座の知識を持っていたのかはよくわかりません。同時期に役小角が葛城修験を創始しており、葛城修験には星の信仰の要素があります。しかし役小角は朝廷から弾圧されたという伝承があります。柿本人麻呂も失脚して石見に流されたという説が江戸時代からあり、哲学者の梅原猛も「水底の歌」で力説していました。神話と天文の関わりが秘伝であるからその知識を持つ役小角と柿本人麻呂が弾圧されたのか、あるいは大和朝廷が海部の天文知識を非科学的と恥じたのか、それは今となってはわかりません。

 

鯨石

島根県邑智郡美郷町長藤

詳細不明

2021年10月 5日 (火)

鯨地名(岡山県) 温羅伝説と鯨

Okayama

久志良村 くじらむら

岡山県瀬戸内市邑久町福中

地名の由来は、因幡国岩美郡に居住した久遅羅臣の子孫が当地に移住したことにちなむとしています。鳥取県鳥取市の久志羅に居住した伊福部氏が備前にも移住して久志良という名前を残したことになります。

 

久代 くしろ

岡山県総社市久代

高梁川支流の新本川中流域に位置します。総社市秦の正木山山麓には、古墳後期の横穴式石室墳である久代大塚古墳や横口式石棺を持つ長沙2号墳などの古墳が分布しています。平安時代の和名抄に備中国下道郡十五郷の一つに釧代郷(訓代郷)があり久之呂(くしろ)の訓が付されており、総社市久代を中心とする地域に比定されています。正木山にある麻佐岐神社は延喜式にも記録されている古い神社。「吉備温故秘録」には山頂に神殿の柱石・玉垣・鳥居などがあったとしています。備中誌は末社に加茂社と竜王社を載せています。正木山の北西山麓には石畳神社があり、これも式内社です。岡山県神社誌によると祭神は経津主神です。

総社市秦には秦廃寺跡があり、飛鳥様式や白鳳様式の瓦が発掘されています。この地域に有力な豪族がいたことを伝えています。本川と高橋川の合流地点位は伊予部山があり、これは初期の天皇家が瀬戸内を放浪していた時期の名残の可能性があり、愛媛県の鯨地名で触れます。

加茂氏が信仰していたのは鯨である事代主神ですし、北海道や東北では鯨が龍と同一視されているケースもあり、正木神社も興味深いです。

 

鯨谷 くじらだに

岡山県岡山市北区下高田

岡山空港の北西2㎞くらい、低い丘陵に挟まれた細長い平野です。平凡社地名辞典によると、下高田村の枝村として鯨谷村があったそうです。下高田村の鎮守は楽々森権現(ささもり)でした。御祭神は吉備津彦命の従者の県主楽々森彦命です。鳥取県の鯨地名で見たとおり、楽々福神社(ささふく)は伯耆国に分布し、吉備津彦命や孝霊天皇を祀っています。その楽々福が備中の国では吉備津彦命の従者の名前となっています。おそらくこの鯨谷の楽々森彦命が、孝霊天皇軍の主力として牛鬼と戦い、勝利したのちに伯耆国の日野郡を所領としたのでしょう。

楽々森神社は残念ながら現存しておらず、跡地だけが残るようです。Google Mapの口コミによると、楽々森彦命は温羅伝説に登場し、吉備津彦命妃の高田姫の父親とされているそうです。桃太郎伝説の猿のモデルともいわれています。吉備津彦神社には楽々森彦命の荒魂を祀る鯉喰神社があります。上高田の鼓神社は御祭神四道将軍大吉備津彦命、御功臣遣霊彦命、県主楽楽森彦命、同御娘にして将軍御后の高田姫命とあります。この辺り一帯を治める楽々森彦命という豪族が実在したことはほぼ間違いないのではないでしょうか。そしてこの地域の地名は鯨谷でした。

 

吉備津彦の命の鬼退治

温羅(うら)とは吉備にいたとされる鬼です。村人を悩ましたので、大和から派遣された四道将軍の吉備津彦命が、温羅を退治することになりました。

吉備津彦が放った矢を温羅は石で撃ち落とします。鯨地名の周囲には矢にちなんだ地名が分布することが多く、矢のちなんだ地名は雷神と鉱山を表しているようです。二本の矢のうち一つは温羅の左目を射て温羅は片目になりました。片目は冶金の神の重要な要素です。温羅は吉備の鉱山を掌握していたのかもしれません。

温羅は雉に変身して逃げたので、五十狭芹彦命 (吉備津彦命)は鷹に変身して追いかけました。鳥に変身するのは日本武尊と同じで、河内王朝の王族の重要な要素です。さらに温羅は鯉に変身して逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変身して捕まえました。鵜飼もまた古来から大和朝廷の重要な部民でした。あるいは鯉に変身した温羅を楽楽森彦命が仕留めたともいわれています。

鯨地名(三重県)で見たようにダイダラボッチは鯨に変身します。あるいは鯨が陸に上がってダイダラボッチになります。この地域が鯨谷であることを勘案すると、温羅が鯉に変身するのは、ダイダラボッチ伝説の痕跡のように私には感じられます。温羅にはダイダラボッチとしての要素もあるのです。

久代で見たように、吉備には巨石の構造物が遺跡として残っています。飛鳥時代に唐と新羅を警戒して建設された城砦以外にも古い巨石信仰の形跡が見られます。巨石もまたダイダラボッチ伝説の重要な要素です。

 

  1. 鉱山資源の争奪戦
  2. 河内王朝の鳥信仰
  3. 鯨・ダイダラボッチ信仰

 

温羅伝説には複数の要素が混ざり合っており、相当に複雑な成り立ちであることがわかります。

2021年10月 2日 (土)

鯨地名(鳥取県) 孝霊天皇の出雲征服

Tottori

久志羅 くじら

鳥取県鳥取市福部町久志羅

延暦三年(784)に成立したとされる、伊福部臣古志(伊福部家文書)に伊福部氏第二十五代小智久遅良臣の名がみえる。伊福部氏は法美郡を拠点とする古代因幡の豪族で、「因幡志」は伊福部久遅良が当地に住したとする説があると記す。

正保郷帳には塩見久志羅村と記されている。因幡志によると鎮守は春日大明神とトリキ大明神。春日大明神は明治初年境内末社取木大明神を合祀し久志羅神社と改称した。

福部町は弥生時代中期からの遺跡が多く、稲葉山の南麓を中心に鷺山古墳、糸谷古墳、亀金丘古墳など400基あまりの古墳が濃密に分布する。仏教文化の伝来も早かったようで、袋川上流の袋本に7世紀後半と推定される寺院跡が残る。菅野の酒賀神社は「三代実録」貞観三年(861)10月16日条にのる「酒賀神」とされている。西部には稲葉山山中に古代豪族伊福部氏の一族とされる伊福吉部徳足比売の墓が、南方には因幡国府があった。平家落人伝説もある。(平凡社地名辞典鳥取県)

また、国府平野にある因幡国一宮の宇部神社は、武内宿禰が亀金に双履を残して行方不明になったという伝説があります。仙人と化した人間は死体を残さずに肉体を棄てるという道教の概念で、屍解(しかい)といいます。

このように久志羅には、因幡国(鳥取県東部)で強い力を持っていたとされる伊福部氏の本拠地がありました。取木というのはおそらく鳥木でしょう。わたしは古事記の仁徳天皇の事績には、饒速日尊の伝説が反映していると考えています。河内王朝が始祖とした日本武尊は鳥に縁が深く、仁徳天皇も鳥にまつわる伝説が多いです。下総の鳥見神社は饒速日尊を祀っています。武内宿禰の伝説が残っていることからも、伊福部氏が河内王朝と強いつながりを持っていたことが伺えます。

久志羅の北側の細川はかつては海士(あもう)と呼ばれていました。服部神社があり、御祭神は天羽槌雄命と天棚機姫命で、これは茨城県日立市大甕神社の武葉槌命と神名が似ているように思えます。

伊福吉氏は伊福部氏、五百木部氏(五百旗頭氏)ともされ、古代史にも名前が出てきます。宮廷で働く部民だったと考えられます。伊福吉部徳足比売は文武天皇の時代の人で、宮廷で使えていました。この墓は発掘調査が行われており、畿内の高位の男性以上に厚く葬られていたことが判明しています。彼女は従七位でした。因幡の有力者の縁者であったのでしょう。おそらく国造の母親と考えられます。

 

久連 くれ

鳥取県日野郡江府町

読みがくれなのですが、静岡県沼津市の久連(くづれ)と漢字が同じなので鯨地名の候補地にしておきます。

伯耆国日野郡には孝霊天皇が鬼林山(きりんさん、おにばやしさん)に住む鬼を退治したという伝説があります。山の名前は鬼住山(きずみやま)、笹苞山(ささっとやま、溝口町)ともされています。退治された鬼は牛鬼で、これは水木しげる先生の漫画によく出てくる妖怪です。先生の故郷の境港は同じ伯耆で、更に北方にあります。

日野郡、今の鳥取県日南町と日野町には孝霊天皇の伝説がたくさん残っています。西楽々福神社(にしささふく)の御祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命(孝霊天皇皇后)、彦狭島命。鬼退治をした孝霊天皇が行宮を建て、鬼退治に功があった息子の大吉備津彦命を西社に、若建吉備津彦命を東社に祀ったとされます(県神社誌)。

東楽々福神社(ひがしささふくじんじゃ)は、御祭神大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命(孝霊天皇皇后)、福姫命、若建吉備津彦命です。境内には鬼塚と呼ばれる破壊された墳墓石室が残り、退治された牛鬼を葬ったものとされます。楽々福は吉備の豪族の名前であった可能性が高く、これについては岡山県の鯨地名で触れます。

楽々福神社の神宮寺は和銅二年(709)に行基が崩御山守護のため創建され、元明天皇が寺田二百町歩を寄進したと伝わります。中世に戦乱で荒れ果てた楽々福神社を再建したのは久代氏(久志路氏)です。これは出雲国の豪族で、現在の島根県安来市久白に本拠があったとされ、これについては島根県の鯨地名で触れます。

崩御山という名前は、孝霊天皇がこの地で亡くなったという伝説にちなんでいます。しかしもしかしたら牛鬼がこの土地の有力者で、朝廷に逆らった牛鬼を鎮魂するために、孝霊天皇の墓という名目で祈り続けた可能性もあります。

 

Okuidumo01

奥出雲

 

さてこの牛鬼というのは何者だったのでしょうか?

鳥取県は日野郡の部分が南西に突き出しています。孝霊天皇の牛鬼征伐は、吉備津彦が登場することから、古くから大和朝廷と良好な関係にあった吉備の軍勢を率いて、日野郡の牛鬼を征伐することが目的だったと言えます。その先には出雲があるわけです。

Ushioni

おそらくこういうことではないでしょうか。本来の出雲の領域というのは今の島根県に鳥取県の日野郡を加えた領域であった。しかし孝霊天皇率いる大和・吉備連合軍が、日野郡の牛鬼を攻めて滅ぼした。これによって出雲の防衛線は弱体化して大和に降伏した。

孝霊天皇から三代後の崇神天皇の時代には、大和朝廷の使者が出雲国の神宝を実見するのが恒例になっています。これが服属儀礼であることは明白です、出雲国造が反発しているからです。神殿に武器を隠していないか大和の役人がチェックしているのです。本来よそ者が目にするべきでない神宝を調べることで、出雲を辱めて上下関係を確認する意味もあったのでしょう。

Okuidumo02

木次線トロッコ列車おろち号

2021年9月26日 (日)

鯨地名(兵庫県)

Kyotohyogo

久代 くしろ

兵庫県川西市久代町

鯨かどうかは不明ですが、島根県の久代との関連で候補地として入れます。

 

鯨岡

兵庫県姫路市稲岡山古墳

地元民によると、古墳の別名が鯨岡であるそうです。

鯨地名(京都府) 賀茂氏の謎

Kyoto

京都府亀岡市宮前町宮川鯨

亀岡市にある字です。鯨と名付けられた由来などは不明ですが、賀茂氏の伝説が色濃い地域ですので、葛城山の櫛羅と関連があるでしょう。

付近に宮川神社があり、google mapの説明によると「御祭神伊賀古夜日売命。賀茂御祖神社に祀られる賀茂建角身命のお嫁さん。同じく玉依比売の母」と地元の伝説ではなっているようです。なので鴨氏や玉依姫に関わりがあることが分かります。奈良県葛城山の櫛羅と関連がありそうです。

この辺りは相模国から移住したという波多野氏の本拠地です。

宮川神社 (亀岡市) (genbu.net)

金輪寺本堂(亀岡市)/京都府ホームページ (pref.kyoto.jp)

上記リンク先の玄松子の記帳によると、賀茂建角身命は大和国の葛木山(葛城山)に宿り、さらに山城国の加茂に移り、丹波国神野(亀岡市宮前町)の伊賀古夜日売命を娶り、玉依姫を生んだことになっているそうです。葵祭には宮内庁からの要請でここの氏子が参加する習わしになっているそうです。

 

折田(くじた) 京都府京都市中京区堂ノ前町 頂法寺(六角堂)

京都市のある京都盆地は山城国愛宕郡と呼ばれていました。平安京建設以前から愛宕郡にあったとされる寺が法観寺(東山区)と六角堂頂法寺(中京区)です。北白川にも寺があったことが発掘調査からわかっています(北白川廃寺)。

頂法寺創建の由来を記録した「六角堂縁起」には、六角堂は愛宕郡折田郷土車里にあったとされています。この折田は「クジタ」と訓が振ってあり、鯨地名である可能性があります。平凡社の地名辞典は平安京遷都によって消えてしまった地名と推測しています。

京都市の最も古い地名は鯨だったのです。

京都の俗信では六角堂は京都のヘソに当たり、平安京を建設した際には六角堂を測量の起点にしたと言われています。今の六角堂は発掘調査によると中世までしか遡ることができないので、平安京より前にあった六角堂は別の場所と考えられますが、京都の人たちが京都の中心と信じてきた六角堂が折田郷(くじた=くじら)にあったというのは驚くべきことです。

 

賀茂氏と折田氏

京都市と鯨のつながりはそれだけではありません。京都市の地主神である上賀茂神社(加茂御祖神社)は平安遷都以前よりこの地に住した賀茂氏の氏神です。「山城国風土記逸文」によると、可茂の神は日向国曾の峰に天降りした賀茂建角身命であり、その神は神倭伊波礼毗古命を先導して大和の葛木山に宿り、その地より山城国岡田の賀茂へ移り、さらに木津川を北上し賀茂川上流へと至り、久我国北山基に鎮座しました。これが京都市の下鴨神社、上賀茂神社です。

そこで賀茂建角身命は丹波国神野(兵庫県氷上郡氷上町御油の神野神社)の神伊可古夜比売をめとり、玉依日子、玉依日売の男女が生まれました。

古事記では玉依姫は海神大山祇神の娘ですが、賀茂建角身命の娘とする伝承もあったことが分かります。玉依姫は神武天皇のお母さんです。

ある日玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上より流れ下り、取っ手床の辺りに差し置いたところ、日売は男子を生みました。成人して祖父の賀茂建角身命が「汝の父と思う人に酒を飲ましめよ」と言ったところ、その子は天に向かって祭りを成し昇天しました。そこで賀茂建角身命は孫を賀茂別雷命と名付けました。実は彼の父は乙訓社の雷神でした。

折田氏は珍しい苗字で、丹波国と薩摩国にしか記録がありません。丹波誌氷上郡の条に折田氏が油利村にいるとあり、神野神社とは10㎞くらいの距離にあります。同じ盆地です。京都市中心部の愛宕郡折田郷にいた賀茂氏の一派が氷上郡の神野に移住したのかもしれません。となると、玉依比売の出身地は、亀岡市の宮川鯨と氷上郡の御油の二つがあることになります。どちらが正しいのでしょうか?しかし京都市の賀茂神社は二つありますから、どちらも正しいのかもしれません。

神野というのは嵯峨天皇の諱で、桓武天皇の甥には葛野王がいました。氷上郡には葛野庄という皇室相伝の荘園がありました。氷上郡と皇室のつながりは、古墳時代にまでさかのぼる可能性があります。

 

賀茂建角身命=事代主神=鯨

賀茂建角身命が降り立ったという大和の葛城山は、櫛羅(鯨)にあります。櫛羅には事代主神が祀られています。賀茂建角身命の別名は三島溝咋(みしまみぞくい)で、この神様は伊豆諸島では三島明神として祀られています。三島明神の妻は伊古奈比売(イコナヒメ)で、賀茂建角身命の妻の神伊可古夜比売(カムイカコヤヒメ)と似ています。賀茂建角身命と事代主神は同一とみてよいでしょう。

葛城山にいた鯨を崇拝する賀茂氏は山城国風土記逸文によれば、

 

日向国曾の峰→葛城山(櫛羅)→山城国岡田→山城国愛宕郡(折田)→上賀茂・下鴨に分離→丹波国氷上/丹波国宮川(鯨)

というように移動していったと考えられ、この流れは継体天皇が北陸から大和に来たルートや、品遅別命の旅路、聖武天皇の放浪、そして桓武天皇の平安京遷都ルートにも重なります。

飛鳥時代から奈良時代にかけて、ダイダラボッチや鯨を一度は忘れてしまった朝廷が、奈良時代の後半になってから、何故か古い鯨の伝説をなぞるように行動しているのはとても興味深いです。

 

玉依姫の謎

玉依姫は古事記では神武天皇の母であり、山城国風土記では丹塗り矢に感応して妊娠し、雷神の子供を産みます。東京都品川区大崎には奈良時代創建の品川貴船神社があります。この品川貴船神社は元々荏原神社であり、後から沿岸部に移転して今の荏原神社となり、元の大崎の神社は貴船神社になったとされています。

京都の貴船神社には、浪速から玉依比売が淀川を遡って貴船に至ったという伝説があります。今の品川貴船神社には玉依比売は祀られてはいませんが、本来の神様は玉依比売かもしれません。

品川貴船神社が移転したという荏原神社には恵比須様(事代主神)が祀られています。つまり玉依比売のお父さんです。近所の神社に思いもよらぬ古い伝承の跡が残されていることが分かりました。山城国風土記逸文に残されている古事記には採用されなかった古い伝承が、武蔵国荏原郡品川の神社と対応するのは非常に興味深いことです。

 

鯨塚

京都府与謝郡伊根町亀島

蛭子神社に鯨の胎児を祀った鯨塚があるそうです。

私は伊耶那岐命と伊邪那美命が最初に生んだ蛭子(ひるこ)は鯨ではないかと考えています。人間の胎児は最初は魚のような姿をしています。これは流産した胎児を見れば古代人でもわかります。狩猟をしていれば哺乳類の胎児はみな魚の姿をしていることもわかるはずです。そこで大昔の海部は、全ての生物の祖先は鯨なのではないか?という信仰を持つに至ったのではないかと考えています。

伊耶那岐命と伊耶那美命が蛭子を海に流したのは出来損ないだったからではなくて、一番最初に生まれた動物は鯨であると古代の日本人が考えていたからではないでしょうか。

であるから、恵比寿様と蛭子が土地によっては同一視されているのだと思います。鯨の胎児は丁重に葬られたという記録は各地にあるので、人間の胎児と似た姿を持つ、鯨の胎児を食べることはタブーであったのかもしれません。

2021年9月22日 (水)

鯨地名(奈良県)

Nara

櫛羅 くじら

奈良県御所市櫛羅

古代からの聖地葛城山の住所です。すなわち葛城山は、大和の鯨山です。葛城山は古事記や日本書紀にも頻出します。古代豪族の葛城氏の本拠とされています。日本書紀によると第五代孝昭天皇、第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇は葛城山の東側に都を作り、そして葬られたとされています。第七代の孝元天皇の時に、葛城から奈良盆地の中心である橿原に遷都したそうです。

その後日本書紀の舞台はしばらく橿原と巻向(桜井)に移ります。葛城は仁徳天皇の時代に再び登場します。仁徳皇后磐之姫は葛城氏です。履中天皇、反正天皇、允恭天皇は仁徳天皇と磐之姫の間の子供なので、葛城氏は五十年間にわたり河内王朝の外戚として力をふるったのでしょう。そして雄略天皇は、葛城山で狩りをしている最中に一言主神に出会ったとされています。

Narakatsuragi

葛城山東麓の神社

葛城山の東側の櫛羅は鴨氏の中心地で鴨山口神社(大山祇神・大日霎貴命・御霊大神)、鴨都波神社(事代主神)、恵比寿神社などが鎮座しています。駒形大重神社も奥州安部氏との関連で興味深いです。葛木御歳神社は日本全国の大歳神を祀る神社の中心とされています。大歳神も三重県と静岡県で見たとおり、鯨と縁が深い神様です。このように非常に由緒ある神社が集中している地域です。

寺社仏閣 | 御所市 (city.gose.nara.jp)

鴨氏の中心地で、事代主神が櫛羅に祀られていて、御所の人々の鎮守として親しまれた神社が恵比寿神社というのは、当ブログとしては見過ごせません。事代主神は古くは鯨を神格化した神であったと考えられ、事代主神の聖地なのでこの地の名前がクジラなのでしょう。初代神武天皇の皇后は事代主神の娘で、第二代綏靖天皇、第三代安寧天皇、第四代懿徳天皇までは事代主神の女系子孫です。初期の天皇家が、鯨を神と崇める鴨氏と密接な関係にあったことが伺えます。

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恵比須様、事代主神と同一視される(東京品川荏原神社)

事代主神の女系子孫である初代~第四代の天皇が、日本書紀では葛城ではなくて橿原にいたとされ、第五代になってから何故か大和盆地の中心地の橿原を南下して、鴨氏の本拠地であるはじっこの葛城に移住しているのは矛盾しています。それは私は天皇家は神武天皇の時に南九州を脱出し、そこから四代かけて瀬戸内を東上して、第五代孝昭天皇の時に初めて大和盆地に入ったのだけれども、神武天皇を神格化するために東征を神武一代の出来事にしてしまったために、第二代~第四代の事績が不明となり、さらに橿原にいたという創作がなされたと考えていますが、これについては瀬戸内の鯨地名を語る際に明らかになるでしょう。

私は孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇は兄弟であり、それが神武天皇の四兄弟(五瀬命、御毛沼命、稲氷命、神倭伊波礼毗古命)に反映しているのではないかと考えています。諡号に四代続けて孝の字が入っているのは、何らかの伝承が奈良時代まで伝わっていたからではないかと思うのです。

 

葛城山は飛鳥時代に役小角が山岳仏教の修行地として開発しました。葛城山系、金剛山系は特徴的な岩石が多く古くから神聖な場所として崇められていたようです。

葛城山の西麓、即ち河内側は和泉山脈、金剛山地(葛城山系)を行場とする葛城修験の霊場です。葛城修験は法華経二十八品を一品づつ山中に埋めて経塚を作り、二十八宿の行場を設定したとされます。二十八宿というのは、古代中国の星座で月の位置を表すのに使います。どうやら葛城山の信仰は星座ともつながりがあるようです。海部は星座を作り、航海の道標としていました。日本神話には海部の天文知識が隠されています。

 

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インドの天体観測施設(日本史とは関係はありません)

2021年9月20日 (月)

鯨と人魚と観音

(1)鯨と観音とダイダラボッチ

関東で鯨に見立てられた山は筑波山と日光の二荒山と八溝山ですが、いずれも坂東三十三観音に選ばれていて、古くからの観音信仰の中心地です。いずれもダイダラボッチの物語が残る山です。同じく鯨地名が残る安房国と三浦半島も観音信仰が盛んな土地です。古い観音信仰の背景にはダイダラボッチがあるのかもしれません。

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筑波山のへこみは、ダイダラボッチが腰かけた跡とされる

 

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八溝山、やはりダイダラボッチが腰かけてへこんだという伝説がある。

観音信仰は海の民とつながりが深いです。魚籃観音なんていうのもあります。観音信仰は懐が深いので、殺生を生業とする漁師でも救ってくれるからということで、漁師の間に広まったと言われています。また観音浄土である補陀落は南の海上にあるとされ、日本の古くからの常世信仰と習合したともいわれています。

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浅草寺の金蔵門

例えば有名な浅草寺では、推古天皇十三年に檜前浜成・竹成兄弟が投網の中に正観音像を感得。つまり漁をしていたら観音様が網にかかったので祀ったのが始まりとされています。鎌倉の長谷寺は天平八年に大和の初瀬から観音の巨像が三浦半島の長井に流れ着き、藤原房前が徳道上人を開山として祀ったのが始めとされています。全国の長谷寺はみな同様にして、奈良の長谷の大仏と同木から作り出したという伝説を持っています。たいていが海に流れ着いたということになっています。

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観音信仰では巨大な草鞋が奉納される

 

どうもこの漂着する仏というのは寄り鯨の変形のように思えてなりません。元々は鯨とダイダラボッチを信仰していたのが、仏教伝来とともに観音様に入れ替わったのではないでしょうか。全国の長谷寺が大仏を作るのも、元々はダイダラボッチの信仰だからかもしれません。

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奈良の長谷寺。初瀬は万葉集では死者と生者が出会う場所とされていて、仏教伝来以前から宗教的な場所であったらしい。

 

それと観音の重要な特徴は、男性であると同時に女性でもあることなのですが、筑波も日光も八溝山も男体山と女体山があって男女一体の山なのです。

甲斐と信濃の鯨山である八ヶ岳にも観音平があります。八ヶ岳には男体山と女体山は無いようなのですが、甲斐には八ヶ岳は男の神様で、富士山が女の神様という古くからの伝承があります。やはり東国では山の神様は男女セットなんですね。

 

(2)ジュゴンと観音と人魚

あるいは観音信仰は女神信仰と習合している形跡もあります。古い十一面観世音菩薩がある山には女神の伝説が残っています。漁師が網にかかった観音を家に持って帰って拝んでいたら長者になれたというパターンが多いのですが、これなどは豊玉姫命、玉依姫命などの人魚の信仰と混ざり合っているのかもしれません。つまり元々は漁師が人魚と夫婦になるという物語だったのが、仏教が広まったり、あるいは近世になって古事記神話が広まって、山幸彦と同じ物語は畏れ多いということで人魚が観音様に入れ替わったのかもしれません。

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現代の人魚

人魚と言えばジュゴンです。江戸時代までは屋久島にジュゴンがいたと言います。ジュゴンは餌を探して数百㎞も泳ぐので、温かい縄文時代には瀬戸内海や伊勢湾にもいたかもしれません。ジュゴンは非常においしいそうです。これはネットで検索すると話が出てきます。ジュゴンが絶滅危惧種になる前は、沖縄ではジュゴンの肉は珍重されていたそうですし、数十年前までは東南アジアやオーストラリアでも食べられていたそうです。

人魚を食べると長命になるという伝説も、ジュゴンの肉の話が形を変えて伝わったのかもしれません。そして観音には、飢えた人に食べられたという伝説が残っています。飢えた修行僧が鹿の遺体を食べて生き残ったが、後になって拝んでいた観音を見ると腿の部分が欠けていたというような話です。

 

(3)鯨石と龍涎香

鯨を調べていると、鯨の体の中から玉が出てきたので畏れ多いということで祀ったという話が出てきます。豊玉姫と玉依姫は名前に玉が入っていますし、潮満玉と潮涸玉が出てきます。従来これは真珠とされることが多いのですが、もしかしたら龍涎香(りゅうぜんこう)かもしれません。

龍涎石とはマッコウクジラの胎内でできる結石です。作られる仕組みはまだよくわからないそうです。高貴な香りがするとされて、インドや中国で珍重されました。たまたま海岸に打ち寄せられたマッコウクジラの死体から取り出されるもので、とても高価でした。

だから鯨は体の中に不思議な石(玉)を持っているという伝説が生まれたのでしょう。鮫も胎生ですので昔の人は大型の鮫と鯨は区別していなかったと思われます。

南インド起源の古い仏典には、船乗りが難破して謎の島にたどり着いて、龍の王様から不思議な玉をもらって大金持ちになる。という話が出てくるのですが、これなどもインドネシアや或いは日本までインド商人が到達していて、現地人から龍涎香を買い求めていたしるしかもしれません。

 

(4)鸕鶿草葺不合尊とラッコあるいはアザラシ

先日国譲りの神話を分析した際に、ウミウが登場することに気が付きました。しかしよく吟味してみると、これはラッコの生態を表していることがわかりました。元々はラッコだったけれども、南海に物語が伝わるうちに何の生物かわからなくなり、海に潜って魚を捕まえることからウミウだろうと間違って伝わったのではないかと考えられます。

海幸彦山幸彦の物語は海を舞台にしています。豊玉姫と玉依姫は海の世界のお姫様で、鯨・鮫・ジュゴンと考えられます。であれば生まれた子供の鸕鶿草葺不合尊も恐らく海の生物であるはずで、私はラッコなのではないかという説を提示したいです。

ラッコは海の上で寝起きします。寝床がありません。昆布を体に巻いて流されないようにして寝ます。それで家づくりが間に合わなかったという名前なのではないかなと思うのです。

鸕鶿草葺不合尊はカヤブキが間に合わなかったという意味です。古代は屋根や竪穴式住居の壁をカヤの茎や木肌で覆いました。これを茅葺(カヤブキ)と言います。茅葺が間に合わなかったということは、家に屋根や壁の草木がついていないということですから、要するに毛が無いということになります。

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アザラシ?

海に潜り、毛が無い生き物と言えばアザラシです。人間と鮫、あるいは鯨の合いの子である鸕鶿草葺不合尊は、人間に似た顔を持ち、海で暮らすラッコかアザラシだったのではないかと考えられます。北米のネイティブアメリカンには、人間の女性とアザラシの男性が夫婦になって子供を作り人間の女が最終的にアザラシになってしまうという話もありますので、山幸彦と鸕鶿草葺不合尊の神話は、海の民に伝わる昔話の一種だったと考えられます。

天皇家が東国出身かはまだよくわかりませんが、古事記に残っている海部の神話の起源は、どうも東国にありそうです。縄文時代は関東や東北地方の方が豊かで人口も多かったです。縄文時代には九州は阿蘇山や姶良カルデラの噴火で壊滅しています。弥生時代にも開聞岳や霧島の噴火で南九州は甚大な被害を受けています。私は神武天皇に象徴されている天皇家の祖先が九州を脱出したきっかけは火山の噴火と考えています。中国地方や近畿地方は花崗岩質で土地が瘦せているので動物が少ない。東国の方が海も山も動物が豊富でドングリも多くて豊かでした。文明の中心は東国にあったのでしょう。

 

鯨地名(三重県) 鯨と観音とダイダラボッチ

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朽羅神社 くちらじんじゃ

三重県度会郡玉城町原

内宮摂社の第十二番で、御祭神は千依比売、千依比古、姉弟の神様です。大歳神の子とされています。

大歳神は奈良県御所市の葛木御歳神社にまつられています。葛木御歳神社は全国にある大歳神を祀る神社の総本社です。御所市櫛羅(くじら)から南に2kmくらい。三重県の外城田で葛城の神様が祀られているのは朽羅神社だけですから、朽羅には櫛羅から派遣された部族が住んでいたのかもしれません。

朽羅神社(伊勢神宮 内宮摂社)|伊勢志摩の観光スポットを探す|伊勢志摩観光ナビ (iseshima-kanko.jp)

御歳神社 (mitoshijinja.jp)

現在の朽羅神社は江戸時代に式内社久麻良比神社の跡地に再興されたもので、元は原村にあったともされています。田園に浮かぶ島に見える鎮守は宮田の森と呼ばれています。伊勢国度会の朽羅神社と葛城は関連があると考えるのが自然でしょう。

玉城町の外城田(ときだ)の辺りを開発したのは荒木田氏とされています。荒木田氏は古代から内宮の神主を代々勤めた神職の名門です。 荒木田氏は中臣氏と同系統で、大鹿島命の孫の、天見通命を始祖とします。景行天皇の時に大貫連の姓をもらい、成務天皇の時に荒木田神主の姓をもらったとされています。七世紀後半に二系統に分離して、一門と二門に別れました。

多気郡の外城田は荒木田氏が開発したという伝承は重要で、その中心にあるのが朽羅神社ですので、伊勢でも鯨が開発センターだったわけです。

伊勢は猿田彦信仰の拠点なので猿も関わってきます。

 

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東京都大田区蒲田の稗田神社の御祭神にも荒木田襲津彦がいる。大田区では最古の神社で、弥生時代の祭祀跡も発掘されている。

 

伊勢の外城田の奥に祭られている速河比売と速河比古は、天須婆漏女命(あめのすばろめのみこと)の子供です。天須婆漏女命 は昴を神格化した神様とされ、天宇受賣命と同一視されています。そして速河比売と速河比古は は狭田国生神社に祭られていました。父は猿田彦とも言われています。速河比売と速河比古の別名は寒川姫、寒川彦で、これは相模の目久尻川(真鯨)の寒川神社の神様と同じです。

相模川流域には、古墳時代に東海地方から人が移住してきたことが考古学的に確かめられています。その人たちは、伊勢の度会から来て、鯨という地名と寒川姫、寒川彦の信仰を持ち込んだのかもしれません。

 

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相模の寒川神社

 

そういえば、静岡浅間神社の奈古屋明神に祀られているのも大歳神です。これは偶然でしょうか。駿府を開拓したのも、葛城から派遣されてきた鯨信仰の部族なのかもしれませんね。

 

鯨山・鯨石・鯨観音

三重県鳥羽市松尾町519 青峰山正福寺

伝説では、観音菩薩を載せた鯨が鯨崎にたどり着き、土地の男が観音像を手に取ると、鯨は見る見るうちに石に変わったとされています。鯨が石になるというのは、北海道や東北に多い伝承です。観音様は十一面観音菩薩でした。観音像が青峰山に行きたいと言ったので、そこに寺を建てて祀ったとされています。そこで正福寺を鯨観音とも言います。

鳥羽市観光情報サイト - 知る (tobakanko.jp)鯨の背に乗った仏様

 

鯨石

三重県志摩市大王町波切1 波切神社

鯨石があります。捕鯨で捕まえた鯨から丸い石が出てきたので(龍涎香?)村人は祟りを恐れてその鯨を厚く葬ったと言われています。波切にはダイダラボッチの伝説もあり、大きな草鞋を神社に備える風習もあるそうです。葦夜権現(いやごんげん)の草鞋祭といい、大きな草鞋を海に流して豊漁を祈るそうです。

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浅草寺の金蔵門

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浅草寺金蔵門の大草鞋、日本の観音信仰では大草鞋の奉納がみられる

これは上の鯨観音とも関連するかもしれません。何故なら観音様には昔から大きな草鞋を奉納するからです。さらに、観音様はインドではヴィシュヌの化身なのですが、ヴィシュヌを表すのは大きな足跡です。かつてはお釈迦様もビシュヌの化身とされました。仏教信者がお釈迦様の足跡を信仰していたからです。

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東京芝増上寺の仏足石

日本人が観音を受け入れたベースには、ダイダラボッチがあるのかもしれません。お釈迦様=観音様=ヴィシュヌ=ダイダラボッチは大きな足というキーワードで結びつきます。そして波切ではその草鞋を海に流すわけですから、ダイダラボッチと鯨が同一視されていることもわかります。

波切神社|観光スポット|観光三重 (kankomie.or.jp)

 

鯨岩

三重県北牟婁郡紀北町引本浦



三重県伊賀市音羽鯨
伊賀市にある字です。なぜ鯨と呼ばれるようになったかの情報はありません。音羽という地名は観音信仰(清水寺、坂上田村麻呂)と縁が深いので、三重県では鯨信仰は観音信仰と習合しているようです。

2021年9月13日 (月)

鯨地名(岐阜県)

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久尻 くじり

岐阜県土岐市泉町久尻

久尻神社を中心とする一帯、かつては久尻村がありました。神奈川県海老名市に真鯨と目久尻川があるので、この久尻村もかつては鯨であったと推測が可能です。久尻川も流れています。慶長時代の郷帳には国尻村とあり、正保郷帳では群尻村とあるそうです。

久尻村には奈良時代から室町時代にかけて窯跡が確認されています。戦国時代に加藤市左衛門春厚(加藤景光)が久尻に良土を発見し天正十三年より窯焼きをはじめ、その子の四郎右衛門景延は唐津へ赴いて登り窯を久尻に持ち帰り、美濃焼の陶祖といわれています。

久尻には古墳群があり、乙塚古墳はその中で最大級で七世紀の営造とされます。地元の伝説では八坂入彦命の女弟姫のゆかりの者を葬ったと伝えられます。しかしこれは発掘調査の結果とは異なっています。

ともあれ八坂入彦命は崇神天皇の皇子で尾張氏を母とし、美濃の久々利(くくり)に土着したとされます。久々利は久尻村の北隣でした。その子孫が八坂入媛と弟媛で、景行天皇が美濃に行幸した際に弟媛を見初めるのですが弟媛は姉を憚って八坂入媛を勧めました。

おそらく当時の東海地方の王族には伊勢の斎宮のような習慣があり、弟媛は神に仕える巫女なので結婚ができなかったのでしょう。そこで景行天皇は八坂入媛を連れ帰ります。やがて皇后の播磨稲日大郎姫が亡くなったので、入れ替わりに八坂入媛が皇后となり、生まれたのが成務天皇とされています。

八坂入彦の墓/可児市 (kani.lg.jp)

播磨稲日大郎姫は日本武尊の母親です。日本武尊は天皇になれませんでした。尾張氏の八坂入媛が吉備の播磨稲日大郎姫を押し退けて皇后となり、それで日本武尊が皇位を継ぐことができなかったと読むこともできます。しかし常陸国風土記では日本武尊は倭武天皇と記されています。景行天皇は妃も子女も多いため(総計七十人超!)、複数の人間の業績が一人にまとめられていることは明白です。当時の王族の中で吉備氏と繋がった人がいてそのうち誰かが関東に赴いたのでしょう。それが日本武尊伝説として残りました。尾張氏と結びついた人もいるのでしょう。その一族から出たのが成務天皇であるようです。

九州に遠征した景行天皇、吉備にいて四国に子孫を派遣した景行天皇、出雲に派遣された日本武尊、関東に派遣された日本武尊(倭武天皇)、尾張氏とつながりを持った景行天皇(成務天皇の父)これらはそれぞれ別人物と考えた方がよさそうな気がします。

八坂入彦命と弟媛の伝説は、常陸国の豊城入彦命の物語、日本武尊と弟橘姫の伝説に似ているようです。相模や常陸には美濃や伊勢の人たちが移住していますので、故郷の伝説を持ち込んだのかもしれません。豊城入彦命の墓が残る石岡には鯨岡があり、弟橘姫が日本武尊をもてなした久慈にも鯨岡があります。常陸国風土記に現れる弟橘姫は倭武天皇の皇后と称され、山海の珍味で天皇をもてなしています。その地の女酋長であったのかもしれません。

久尻神社は江戸時代になってからできた神社らしいのですが、御祭神に事代主神がいることが気になります。

久尻神社詳細 (gifu-jinjacho.jp)

2021年9月 9日 (木)

鯨地図(愛知県)

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鯨山

愛知県西尾市吉良町宮崎鯨山

吉良スライダーパークという遊園地の中にある小山らしいです。名前の通り鯨山を利用した滑り台がたくさんあります。子供が大喜びしそうな場所です。鯨山については、ネット上にも地名辞典にも情報がありませんでした。宮崎という土地らしいので神社に関わりがあるのかもしれません。要現地調査です。

西尾市観光協会 吉良ワイキキビーチスライダーパーク

 

鯨脇

愛知県知多郡南知多町豊浜鯨脇

鯨浜

愛知県知多郡南知多町篠島鯨浜

これも全く情報がありません。

海獣(地名コレクション) (uub.jp)