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2021年3月22日 (月)

札所二十番ー二十一番

五日目は札所二十番鶴林寺と二十一番太龍寺へお参りしました。初日と同じでほとんど山登り。

 

Minamikomatsujima

南小松島駅から横瀬西行のバスに乗り30分くらいで生名のバス停に到着。仕出川の方面へ歩いていくと鶴林寺の標識があるので、それに従って山へ入っていきます。1時間半ですが急勾配の登山道が続きます。

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登り口のミカン園から勝浦の町を遠望。

 

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水飲み大師の辺りの道しるべ。南北朝時代の町石が残る。

 

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前日からの雨が上がり、ありがたい感じの写真が取れました。

杉林の中をつづら折りに進む車道を横切りながら急こう配の参道を登っていきますと鶴林寺に到着します。

 

札所二十番 鶴林寺

霊鷲山 宝珠院

ご本尊 地蔵菩薩

仁王門は運慶の作と伝えられる金剛力士像が守っています。木々に囲まれた境内は静かで清冽な感じがしました。

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本堂。山腹の狭い土地に本堂、大師堂、三重塔が建っています。かつてこの土地に修行に訪れたお大師様は、地蔵を守る二羽の金色の鶴を見てこの地に寺を作ることにしたそうです。

鶴林寺からの山道は崩落して通行止めになっていたので、車道を下り、大井の集落に出ました。

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鶴林寺を降りたあたりで阿南市に入る。だいぶ南まで来たなという思い。

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若杉山辰砂採掘遺跡

太龍寺の登山道のわきにありました。辰砂とは水銀鉱石です。古代の石器、陶器、勾玉などと一緒に坑道の跡が見つかっています。意外なことに古代の辰砂採掘跡としては日本唯一だそうです。水銀は古墳の石棺に敷かれていました。遺体の防腐のためとも、時間とともに色が鮮やかに変化する辰砂に神聖さを感じたためともいわれています。水銀は低い技術でも分離しやすく、古代から重視されていた金属です。金メッキに不可欠なため、仏教伝来以降はさらに大量に採掘されたのは確実でしょう。

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阿波国に住んでいた忌部氏は、機織りや農業の技術をこの地に持ち込んだという伝説を持っており、技術者の集団であったようです。鉱業の技術もまた持っていたのでしょう。平城京の大仏を作るために大量の水銀が必要とされたはずですので、このあたりは奈良時代には意外に開けていたのかもしれません。

険しくはないのですが、長く続く山道を2時間くらい歩きつづけてようやく太龍寺に到着しました。

 

札所二十一番 太龍寺

捨心山 常住院

ご本尊 虚空蔵菩薩

太龍寺は空海の生涯を語るうえで非常に重要な寺院です。空海が24歳の時に記した三教指帰に「阿国大瀧岳によじのぼり、土州室戸ノ崎に勤念す、谷響きを惜しまず、明星来影す 」と書いてあります。この大瀧岳は太龍寺と室戸岬の2つの説があります。母玉依御前に会うまで七日かかったという恩山寺の伝説や、太龍寺に辰砂の鉱山があって当時から開発されていたことから推測するに、空海の修行の本拠地は太龍寺で、さらに室戸岬まで赴いて修行することもあったと考えるのが適当でしょう。

空海は大瀧岳で百日間で虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱える虚空蔵求聞持法という厳しい修行をして、満願の日に明けの明星が体内に入って悟りを開いたといわれています。虚空蔵求聞持法は百日間ひたすら真言を唱え続けるので、誰かに生活の面倒を見てもらわないとできません。大規模な寺院で行ったと考えるべきでしょう。となると室戸岬ではなくて太龍寺だったのではないでしょうか。

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太龍寺の山門。

非常に深い山なのですが、太龍寺の辺りは少し平らになっており、境内は広いです。西の高野山ともいわれています。おそらく空海が高野山を選んだ際には、若い頃に滞在した太龍寺を意識していたと思われます。

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太龍寺の本堂(奥)

ご本尊は勿論虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩は知識を司る仏様です。金星の神様でもあります。若い女性の守護神でもあり、昔の女性の成人式である十三詣りでお参りする神様でした。

虚空蔵求聞持法を達成すると、記憶力が飛躍的に伸びるそうです。これによって空海は漢語と梵語に通じるようになったと言われています。真言を唱えることで記憶力が伸びて、言語能力も伸びたと言われても、にはかには信じがたいことです。frも虚空蔵菩薩の真言は「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリーキャマリボリソワカ」です。早口言葉のような感じで、活舌は良くなりそうな気はします。

密教では、天空に蓄えられた智慧と慈悲を表すと言われています。これは金剛般若経の「空観」を発展させたものです。空というのは、言語では表し切れない智慧という意味でした。それを密教では空間に知識が書き込まれていて、虚空蔵菩薩にアクセスすれば、その無尽蔵な知恵を取り出すことができると考えるようになりました。

これは「空」という言葉の連想から生まれたオカルトなのですが、それが正しいかどうかについてはここでは論じません。

虚空蔵菩薩に対応するのは地蔵菩薩です。だから札所二十番に地蔵菩薩がいて、隣の山に虚空蔵菩薩がいるのでしょうか。虚空蔵菩薩は修行者のための仏という面があり、地蔵菩薩は庶民を守ってくれる仏様です。

虚空の神様、金星の神様なので、深山幽谷の地に祀られていることが多いです。お遍路では焼山寺、太龍寺、室戸岬。京都の神護寺。意外なところでは安芸の宮島の厳島神社というのは元々は虚空蔵菩薩を祀った寺院でした。どことなく女性的な雰囲気を漂わせる優美な仏像が多いのも特徴です。剣を持っている姿は不動明王に似ていて、如意宝珠(摩尼珠)を持っているのは如意輪観音や地蔵菩薩や摩利支天と似ています。なかなかミステリアスな仏様です。

ただ、虚空蔵菩薩を祀る寺院の中には、商売本位なところもいくつかあるので、そこは変な行者につかまらないように注意してください。

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太龍寺の大師堂。本堂と大師堂、共に重層で見事でした。一日山道を歩いてたどり着いただけあって、感慨もひとしおでした。

恩山寺から太龍寺そして室戸岬の最御崎寺にかけては、史実の空海が実際に歩いた道です。千二百年前にお大師様が同じ道を歩いたのかと思うと感慨深いです。

この日は太龍寺を降りて国道195号まで歩き、バスで阿南駅に行きました。その日は徳島市に宿を取りました。今回のお遍路はここまで、最終日は神山町に戻り、神社を回りました。

2021年3月13日 (土)

札所十八番、十九番

ダウンロード - お遍路マップ札所18-23番 ohenromap1823.pdf

 

札所十八番 恩山寺

母養山 宝樹院

ご本尊 薬師如来

 

南小松島駅から歩いて一時間半くらいで札所十八番につきます。ここにはお大師様とそのお母さんの伝説が残っています。

その昔、お大師様がこの寺で修行中、母の玉依御前が讃岐から訪ねてきました。しかしこの寺は女人禁制だったため、お大師様は七日七晩この山の女人禁制を解く秘法を修め、御前を寺に招き入れて孝養を尽くしたそうです。

この物語は史実に基づいているのかもしれません。というのは、お大師様は唐に渡る前、若い頃にこの先の札所二十一番太龍寺で修行をしていました。今でいう中学生くらいで讃岐から奈良の都の大学に入学した眞魚少年ですが、大学の勉強に飽き足らず私的に出家して近畿地方や四国の修験道上で修行していました。

奈良の都で眞魚少年の世話をしていたのは、玉依御前のお兄さんに当たる阿刀大足でした。大足は大学の先生でした。なので学校を抜け出したことはすぐにお母さんには伝わったはずです。まだ高校生ぐらいですから、お母さんはとても心配したことでしょう。その息子が四国に戻ってきて修行しているということを知れば、矢も楯もたまらずに逢いに来るのは自然なことです。佐伯家は村長に当たる地位ですので、そのくらいのお金はありました。

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恩山寺から太龍寺までは私の足で二日の旅程です。当時は道も悪かったでしょうから三日くらいでしょう。太龍寺は修行道場ですので、もちろん女性は上がれませんし、険しい山の上にあります。おそらく讃岐から船で阿波に渡って小松島に上陸し、恩山寺のあたりに泊まり、太龍寺に使者を出したと考えられます。

玉依御前の使者が太龍寺に到着するのに三日、眞魚少年の説得に一日、眞魚少年が山を下りて恩山寺にたどり着くまで三日、合わせて七日かかります。このように、この説話は実話に基づいているのかもしれません。

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恩山寺の大師堂、右側は玉依御前を祀る御母公堂。玉依御前はここで剃髪したとされる。

 

ここから歩き遍路道は道路を離れてハイキングコースのような道を行きます。それほど険しくなく、自然も豊かで快適です。

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二時間くらい歩くと立江寺にたどり着きます。

 

札所十九番 立江寺

橋池山 摩尼院

ご本尊 延命地蔵菩薩

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立江寺は安産祈願のお寺として知られ、境内には立派なお堂が複数建っています。立江駅近くにあり、付近には門前町もあります。

ここは阿波の関所寺といわれ、行いの悪い人はここから先には進めなくなるそうです。それは札所二十番から二十二番までは険しい山の中にありますので、生半可な気持ちの人はそこから先を進むのは二の足を踏むという意味と思われます。

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大師堂

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本堂。市街地にある八十八ヶ所のお寺としては大きいです。

 

ここから遍路道は再び山中に入っていきます。四日目は朝に小松島を出て昼に立江寺につき、門前の定食屋でお昼を食べ、後はひたすら山に向かって歩きました。

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櫛淵で見つけた歴史学者喜田貞吉の銅像。ここの出身だそうです。

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櫛淵八幡神社。鯨マニアとしては外せません。櫛淵荘は寛元元年(1017)から石清水八幡宮領となり、八幡神社が祭祀されたそうです。そのせいか小松島は八幡神社が多いです。境内には樹齢数百年の楠木があります。

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この日は鶴林寺の登り口まで行き、バスで引き返しました。バス停の位置が変更されているので注意です!新道沿いのコメリの横になっています。

2021年3月 6日 (土)

宅宮神社

古いお遍路のルートは、十七番の井戸寺から南に折れて再び鮎喰川を渡り、徳島市内を通らずに眉山の西側を回って小松島方面へ行きます。近世になるまでは徳島市は湿地帯でまだ拓けていなかったからです。

 

眉山のふもとに地蔵院という大きな真言宗の寺院があります。安産の祈願所です。大きな池もあります。ここから歩き遍路は登山道になります。このルートは地蔵越えといわれています。

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地蔵院 ご本尊 延命地蔵菩薩

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地蔵越え、標高は150m程度だが、坂は急で滑りやすく遍路転がしの坂といえる。

 

峠で県道203号から西に分岐する林道があり、小一時間ほど下ると八万町の集落に出ます。ここに宅宮神社(えのみやじんじゃ)という古い神社があります。

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宅宮神社鳥居

今回の旅行に出る前から「変わった名前の神社だな」と何となく気になっていたのですが、読みが「えのみや」であることを知り、Fateという漫画の主人公の衛宮(えみや)と同じ名前なので俄然興味が湧いて行ってみることにしました。

 

御祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)で家宅・建築の守護神。だから家を守ると書いて宅宮なのだそうです。

他には大年大神(おおとしのおおかみ)と稚武彦命(わかたけるひこのみこと)もお祀りしています。

 

この神社は延喜式に意富門麻比売神社(おおとまひめ)として名前を留める由緒ある神社です。札所一番霊山寺の奥に鎮座する大麻比古神社と名前が似ています。戦国時代に戦乱で焼けて江戸時代になって現在の場所に再建されたそうです。徳島藩主蜂須賀家から代々篤く崇拝され、今でも地域住民から大事にされている神社です。

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由緒の説明。この辺りの寺社はたいてい長曾我部元親によって焼かれたことになっています。どこまで本当なのでしょう?

社務所でご朱印と古代文字で書かれた護符をいただけました。ありがとうございました。

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境内はよく整備されていました。宮司さんも熱心な方のようで、お祭りも盛んで、資料館もあるようです(コロナでお休み中でしたが)、神代文字についてはちょっと眉唾でしたが、とても落ち着いた気持になれました。

 

この日は地蔵橋駅まで歩き、徳島市内のホテルに泊まりました。

2021年2月27日 (土)

札所十三番から十七番

二日目は神山温泉を出て、吉野川の支流鮎喰川(あぐいがわ)をひたすら下り、第十三番大日寺横の名西旅館に泊まりました。料理がおいしくボリュームもあって、大いに満足しました。名西(みょうさい)というのは変わった響きですが、これはこの地域の郡の名前です。今の神山町と石井町(今は徳島市に合併)のあたりをかつては名西郡と呼びました。古代には名方郡と呼ばれ、やがて東側が名東郡となり、西側が名西郡となりました。二日目は名西郡を端から端まで歩いたことになります。

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こんな感じの小道を歩いていく。

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やがて安喰川沿いの大きな県道に出る。車が飛ばしてくるので注意が必要。

 

三日目は札所十三番から十七番まで、5か所お参りしました。徳島県内で札所が一番固まっている場所で、遍路転がしを頑張った人へのご褒美のボーナスエリアです。

 

阿波国下一ノ宮

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阿波国の一宮で、大宣都比売命(オオゲツヒメ)を祀っています。大宣都比売命は伊耶那岐命と伊耶那美命が国生みをした際に産んだ一身四面の神である伊予之二名島即ち四国のうち、阿波国を表す神様です。葦原中国を追放されて地上へ天下りした素戔嗚尊をもてなしたのですが、その時に目や口や鼻の穴から穀物を出してそれを食べさせたので、素戔嗚尊は激怒して大宣都比売命を殺してしまいます。

しかし、大宣都比売命の死体から穀物や蚕が生まれたという神話です。大地母神の死体から農作物が生まれるというのは世界中で見られる神話の類型です。素戔嗚尊は風雨の神様ですので、これは季節をめぐらせて冬をもたらして、草木を殺し、しかし春に種を芽吹かせて大地に生命を再生させるという素戔嗚尊の神性を説明する神話です。生命が若返るためには、一度死ななければならないので、素戔嗚尊の破壊は自然にとって必要不可欠です。わけもなく暴虐をしているわけでは無いのですね。

下一ノ宮というのは、神山町に上一ノ宮があるからです。上一ノ宮が本来の大宣都比売命を祀った土地で、しかし奥深過ぎてお参りが大変だったのでこの地に下一ノ宮神社を建立したと言われています。札所一番の裏にある大麻比古神社も阿波一宮と呼ばれているのですが、名西郡の両一宮の方が正しいようです。

 

札所十三番 大日寺

大栗山 華蔵院

ご本尊 十一面観世音菩薩

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道路を挟んで向かい側が大日寺。かつては下一ノ宮神社とひとつながりの境内でした。そして十三番札所は一ノ宮神社で、大日寺が別当寺でした。

 

札所十四番 常楽寺

盛寿山 延命院

ご本尊 弥勒菩薩

大日寺から安喰川の左岸に渡り、少し歩くと小さな丘があります。その上に立つのが十四番常楽寺です。むき出しの岩肌の上にお堂が立っています。秩父霊場の龍石寺や岩之上堂を思い出します。四国八十八ヶ所で弥勒菩薩を本尊としているのは十四番常楽寺だけです。

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弥勒菩薩は未来仏で釈迦寂滅後五十六億七千万年後に現れて衆生を救うと言われています。法華経では釈迦に問いかけをする司会者の役割で登場します。法華経に登場する菩薩や羅漢は、前世に釈迦の元で修行していたという設定になっています。弥勒菩薩は実はその時には一番出来の悪い弟子だったため、悟りを開くまで時間がかかるのですが、どんな末法の世が来ても、弥勒菩薩が最後には救ってくれることになっているのです。だから悟りを開くことができなくて、六道を延々と輪廻する人も、いずれは弥勒様が救ってくれるから大丈夫というわけです。

この辺りはボーナスゾーンだけあって、参拝者にもよく行き当たります。

 

札所十五番 国分寺

薬王山 金色院

ご本尊 薬師如来

十四番から歩いて十分くらい。天平年間に聖武天皇の勅願で全国に建立された国分寺の一つ。

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本堂は修理中です。

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近くの水田で発掘されたという七重塔の礎石があります。往時の繫栄が偲ばれます。

 

天岩戸別八倉比売神社

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国分寺の近くに阿波史跡公園があります。国分寺があったことからわかるように、古代にはここに国府がありました。徳島県内では最大級の矢野古墳、宮谷古墳もあり、杉尾山の山腹にある矢野古墳をご神体とした八倉比売神社もあります。古代の竪穴式住居を再現した遊び場もあります。

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八倉比売神社も阿波一ノ宮の論社とされていて、延久二年(1070)に、この神社の祭祀を怠った国司を叱責した記録が残っているようです。古文書八倉比売本紀には天照大御神の葬儀の様子が記されています。この古文書は江戸時代になってから作られた偽書であることは明白ですが、この地は上古から阿波国の政治の中心でしたから、かつてこの地に強い勢力を持つ豪族がいて、その豪族が崇めた神様がいたのは間違いないでしょう。

拝殿に登る参道は長くて立派でして、境内も独特な感じがしました。お遍路さんも足を延ばして参拝してみる価値ありです。

 

第十六番札所 観音寺

光耀山 千手院

ご本尊 千手観世音菩薩

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古い住宅地の真ん中にあるお寺です。この辺りは国府町と呼ばれていました。かつては阿波国の政庁がありました。

このお寺には雨宿りした女性に焚火が燃え移って大火傷を負ったという伝説があります。その女性は年老いた姑をひどく折檻していたということです。お遍路にはこういう怖い伝説がたまにあります。

 

大御和神社(おおみわじんじゃ)

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国府を守る神社だったと言われています。名前からもわかるように大己貴命を祀る出雲系の神社です。八倉比売神社にも千家が書いた扁額ば残されており、この地域では出雲から来た人たちが住んでいたようです。札所十番切幡寺で見たように、古代に讃岐から物部と出雲の連合軍がやって来て、原住民の忌部氏を南に追いやったという伝説が粟嶋に残っています。物部氏は板東郡に入植したようです。出雲族は名東に入植したのかもしれません。この辺りは条里制の遺構も残り古くから豊かな土地でした。八倉比売神社に伝わるという天照大神の葬儀の伝説も、この物部出雲に負けた古い部族がいたことを表しているのかもしれません。

 

第十七番 井戸寺

瑠璃山 真福院

ご本尊 七仏薬師如来

天武天皇が白鳳二年(674)に建立した妙照寺が前身。阿波市にある大野寺は天智天皇が建立したと言われており、大海人皇子が出家したという伝承もあります。さてこれは荒唐無稽な伝説なのでしょうか?そうとも切って捨てられない事情があります。

斉明天皇の時代、朝廷は百済を救援するために朝鮮半島に遠征軍を派遣しました。その派遣軍は伊予国に停泊して兵と軍船を集めています。この遠征軍には斉明天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)が参加していました。朝廷が丸ごと四国に移っていた時期があるのです。この時の朝廷の実質的な指導者は中大兄皇子で、遠征軍の総司令官は、日本書紀には記述がありませんが、大海人皇子であることは間違いないです。この後の壬申の乱における大海人皇子の手際の良さから、彼が朝廷の軍事指揮権を握っていたとみてよいでしょう。

朝廷が遠征軍の主力となる四国と山陽道の豪族の協力を得るために、寺を建立したのは十分に考えうることです。そして新羅遠征が失敗した後に、命からがら帰還した大海人皇子は、兵を帰還させるために瀬戸内の諸国を回ったのかもしれません。そして飛鳥に帰還する前に、遠征失敗の責を負い、戦死者の冥福を祈るために大野寺で出家したというのはあり得ないことではありません。

Idodera

 

この日は地蔵峠を越えて宅宮神社まで行ったのですが、それは次回に。

2021年2月20日 (土)

遍路転がしの坂と札所十二番

昨年末にお遍路の続きに行ってきました。しょっぱな前回の到着点の札所十一番藤井寺から札所十二番焼山寺まで、古来からの山道を通ってお参りしました。別名遍路転がしの坂です。

ダウンロード - ohenromap01.pdf

遍路転がしの坂とは歩き遍路の途上にある険しい道のことです。お遍路さんが坂を転げ落ちる尾で、遍路転がしといいます。いくつかありますが、最初にぶつかるのが藤井寺から焼山寺までの道で、そして現在のお遍路ルートの中では最も長い未舗装路です。完全な登山路で、全長13㎞くらいあります。高さ800mほどの山を3回越えなければなりません。

登山に慣れた人にとっては、これは初級なのですが、京大阪といった平坦な都会に慣れた人たちにとってはとても大変だったろうと思います。間違いなく足腰を痛めたことでしょう。

 

焼山寺の本堂の左手から山道に入っていきます。しばらく石仏が並ぶ道を歩いていくと、やがて登山道に入ります。道はきれいに整備されており、乾いているので歩きやすいです。傾斜も登山道としては緩やかです。

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1時間ほど歩くと、眼下の徳島平野が一望できる場所があります。

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中央に川に囲まれた田園地帯が見えるでしょうか。これが粟嶋(善入寺島)です。とても広い中洲です。

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行程の1/3くらいの場所にある長戸庵というお堂。近くに公衆便所があります。

次のトイレは焼山寺の直前にある柳水庵なので、ここで用を済ませておいた方がよいでしょう。

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行程の中間点あたりにある一本杉大師。杉の大木と、お大師さんの大きな銅像があります。ここまで来ると人里から隔絶していてとても静かです。

800mくらいの山を3つ越えると左右内の集落があります。ここからの最後の坂が非常に急です。山の中腹にある焼山寺まで300mを一気に登ります。最後の難所です。

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水平距離ではすぐ横のはずなのですが、焼山寺がなかなか見えません。一時間くらい急坂を上ると急に参道に出ます。やっと焼山寺につきました。藤井寺を出てから4時間半でした。山に慣れていない人だと6時間かかるでしょう。

 

第十二番 焼山寺

摩廬山 性寿院

ご本尊 虚空蔵菩薩

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きれいに掃き清められた境内に、杉の大木が並びます。奥に見えるのが本堂です。この山では役小角が修行したとされ、弘法大師も来て、村人を悩ます大蛇がいて炎の幻影で弘法大師を悩ませたと言います。弘法大師が印を結んで祈ると虚空蔵菩薩が現れて、大蛇を巨大な岩に封じ込めました。そのためこの山を焼山寺と呼ぶようになったと言います。

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焼山寺の大師堂。

大蛇を封印したという巨岩と、役小角が蔵王権現を祀ったという奥の院は焼山寺の山頂にあります。私も奥の院までお参りしてきました。巨岩はかなり迫力がありました。そして巨岩の手前にニホンカモシカがいて私のことを見ていました。野生のカモシカを見たのは初めてだったのでとても興奮しました。本堂から奥の院は歩いて往復1時間半。山は陽が沈むのが早いですから、お昼には本堂につかないと、奥の院までお参りするのは厳しいでしょう。

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奥の院から四国山脈を眺める。この辺りは四国で最も山が険しいです。一番奥に見えているのは恐らく剣山なのではないかと思います。

 

さて歩き遍路ですので、ここから宿まで歩かなければなりません。これが大変。この日は神山温泉に宿を取ったのですが、町営バスが走っている県道まで2時間歩きました。

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左右内川。

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この日は木星と土星が最接近しました。大きな木星と小さな土星がキラキラと冬の夜空にきらめいていました。さすがは木星、スマートフォンのカメラでも撮影できました。

神山温泉は町営の温泉施設で、宿泊施設も付随しています。肌がすべすべになる白いお湯が特徴。とても温まります。遍路転がしで疲れた足腰を癒すことができました。ホテルのレストランの食事もおいしかったです(7時ラストオーダーなので注意)。部屋も広くて快適でした。

2021年2月13日 (土)

房総半島太平洋側の神社

房総半島の太平洋側にある神社にお参りしてきました。

 

1)玉前神社(上総国一ノ宮)

千葉県長生郡一宮町にある玉前神社。文字通り上総の国一ノ宮です。一宮というのは、院政時代以降にその国の代表的な神社を自然と呼ぶようになったものです。上総国は玉前神社、下総国は香取神宮、安房国は安房神社(忌部神社)です。房総三国の一宮には、海に所縁のある神様が選ばれています。

玉前神社に祀られているのは、玉依姫命です。玉依姫命は、大綿津見命(大海神命)の娘で、豊玉姫命の妹です。豊玉姫と日子火火出見命(山幸彦)の間に生まれた鵜茅葺不合命を乳母として育て、命が長じてはその妻となり生まれた子供が日本磐余彦命(神武天皇)です。

ダウンロード 神代系図 - shindaikeizu01.pdf

そのため玉依姫命は縁結び、子授け、出産などの神様とされ、北条政子が懐妊の折、源頼朝は安産を願って玉前神社に捧げものをしたことが伝わっています。

 

上総国の玉前神社には上総十二社祭という房総半島では最古の浜降り神事があります。玉依姫とその一族の神々が釣ヶ崎の海岸に集まって再会するという壮大な祭です。下総にも平安時代になって始まった神幸祭が伝わっています(後述)。

 

境内には小さな白石を並べた環状の通路があり、そこを裸足で三周すると健康になるとされています。トライしてみましたけれども、足のツボが刺激されてめちゃくちゃ痛かったです。

 

2)玉崎神社(下総国二宮)

上総国一ノ宮は九十九里浜の南端にあります。浜の北端である旭市飯岡にも玉依姫を祀った玉崎神社があります。こちらは下総国二宮に選ばれています。

玉崎神社は日本武尊が人柱になった妻の弟橘姫を偲び、海神を鎮めるために玉依毘売命(玉依姫)の神霊を祀ったとされています。パンフレットによると、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤らが参拝したそうです。最古の記録は崇徳天皇の長承年間から残っているそうです。

飯岡は天保水滸伝のモデルとなった飯岡助五郎が活動していた土地でもあります。座頭市のモデルも飯岡に住んでいたと言われています。江戸時代には東回り航路の風待ちの湊として銚子は栄えました。平田篤胤も滞在しています。

 

3)橘樹神社

茂原市にあります。日本武尊が海神を鎮めるために人柱になった妻の弟橘姫を偲んで、海岸に漂着した櫛をこの地に祀ったのが始まりといわれています。川崎市にある橘樹神社に伝わるご由緒と同じです。上総国二宮です。

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拝殿の扁額は東郷平八郎の揮毫です。海の守護神ですし、弟橘姫が入水した走水は横須賀の鎮守府の沖だからでしょう。

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神社にいた猫ちゃん。尻尾が太くて狸のようでした。

 

4)猿田神社

銚子市にあります。垂仁天皇の時代に創建されたとされています。平安時代初期にはあったことが確認できます。民衆から強く信仰されており、茨城県や千葉県には猿田という名字の人が多くいます。とても霊験あらたかな神社なのだそうです。猿田彦神も海に所縁のある神様です。

 

5)雷神社(らいじんじゃ)

旭市見広にある神社。この地域はかつては海上と呼ばれており、東側には椿海という大きな湖が広がっていました。神社は50mの高台の上にあります。

神社の縁起によると、応神天皇の御世に下海上国造となった久都伎直(くずきのあたえ)が、自らの祖先神を奉祀したと言われています。

御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)です。天穂日命は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた五男神三女神のうちの一柱です。天から大国主命の元に遣わされたとされています。出雲国造や土師氏の祖になったとされています。すなわち久都伎直は出雲国造系の氏族ということになります。

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印旛沼周辺と椿海の西側の匝瑳には、登美命(長髓彦、櫛玉命)と饒速日尊を信仰する物部氏が住んでいました。鹿島には武御雷神が祀られていています。武御雷神は天孫系の神様。香取には経津主神が祀られています。出雲に残る神話では、天穂日命は経津主神と共に地上を平定したことになっており、物部系の天孫の信仰が強い下総国の中にあって、香取と海上はなぜか出雲系の信仰を持つ人たちが生活していたようです。

あるいは、景行天皇が亡き日本武尊を追慕して東国を巡幸された際に、椿の海の東端の高台に立たれ、ここに東国鎮守として一社を創建したともいわれています。

東大社、豊玉姫神社、雷神社の3社は20年に一度、銚子の渡海神社まで神輿で渡御して集合する式年大神幸祭を行います。東大社、豊玉姫神社がある香取と雷神社がある海上から、渡海神社がある銚子までは20㎞以上あり、数日かかる大規模な祭礼です。平安時代から千年、合計54回、戦国時代の混乱を除いてほぼ欠かさずに20年に一度行われてきました。混乱した際も一年ずらしただけで、やはり祭礼は挙行されています。

 

6)渡海神社

銚子市外川浦にあります。御祭神は綿津見大神と猿田彦命です。猿田彦命を祀っているのは、この土地が人々が集まり散っていく道標となる場所であることによるそうです。外洋に突き出た銚子にふさわしい伝説といえます。

文字通り、遠方から海を渡って人々が移住してきたことを記憶する神社です。式年大神幸祭では、東大社、豊玉姫神社、雷神社の神輿がここに集合します。鎮守の杜は鬱蒼とした照葉樹林の極相林で、小さな丘によって周囲からは隔絶していて境内は静寂が支配しており、厳粛な気持ちになりました。

 

房総半島の海神系の神社には天孫の影は薄く、大和朝廷によって神話が再編成される前の、海人族の古い信仰を伝えていると言えそうです。つまり豊玉姫や玉依姫は祀られているけれども、その夫である日子火火出見命や鵜茅葺不合命の伝説は残されていません。この地域の天孫は印旛沼や匝瑳の物部氏が信仰していた饒速日尊ですが、物部氏は房総の海人族とはあまり交渉を持っていたようには見えません。

記紀神話を分析する際に、海人族は天孫神話を生み出した母胎とされることも多いのですが、房総に残る海人族の神話を見る限りでは、海人族と天孫はやはり別物であったと考えるべきかと思います。

印旛沼周辺の麻賀多神社では豊受大神が信仰されており、その祖神として稚産霊命と稚日女尊が祀られています。豊受大神が天照大神とは独立した別の神様だったことが分かります。

天照大神の原型ともいえる養蚕の神は、神栖や筑波山周辺で信仰されています。

この房総と常陸国の神様の分布は、大和朝廷が記紀神話を創り出す前の日本の原始的な信仰を良く保存していると言えるのではないでしょうか。

そして関東では皇祖神は神倭伊波礼毗古命(神武天皇)ではなく、誉田別命(八幡神)であるのです。関東でも皇祖神は古くから信仰されていましたが、それは天照大神でも神武天皇でもないのです。それが意味するところは私もまだよくわかりません。しかし古代の日本人は、神を統一しなくても、日本人としてのアイデンティティーを共有することに支障はなかった。そういうあり方もあることは指摘しておきたいです。

2021年1月16日 (土)

大野寺と札所十一番

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

かつての遍路道は、十番の切幡寺から南下して、大野寺を通過し、吉野川最大の中州である善入寺島(古代からの名前は粟島)で吉野川を渡河して、川島、鴨島と進んで十一番の藤井寺に向かっていました。大野寺は天智天皇の勅願寺と伝わる、阿波国最古のお寺です。そして粟島には宿場町があり、遍路客と物資の参集地として大変栄えたと言います。

しかし粟島が遊水地に指定されて住民が強制退去させられ、お遍路も電車やバスで回るのが主流になると、十番と十一番の間の地域は閑散とするようになってしまいました。粟島は今は園芸農業が盛んですが宿場町としての見る影はありません。

 

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大野寺は阿波市市場町山野上大西にあります。天智天皇の勅願寺と伝わります。本尊は阿弥陀如来。

同じく天智天皇勅願が阿波にはもう一つありまして阿南市宝田町の隆禅寺です。大野寺と隆禅寺は兄弟のお寺で、中世に両寺が衰微した時代、片方の住職が途絶えたら、もう片方が住職を派遣するなど支え合っていたそうです。

何でこんな話が分かったかというと、参拝していたら大野寺の御住職のお義母さんからお話がきけたからです。先代の住職の妹さんということでした。八十過ぎですがとてもしっかりとされていました。

お婆さんからの聞き取りと鴨島図書館で調べた話を総合すると、天智天皇は阿波国に大野寺と隆禅寺を建立しました。その後嵯峨天皇の勅願で大野寺の末寺14寺が建てられました。粟嶋にも宝幢寺と宮ノ坊善入寺があったそうです。

大野寺は飛鳥時代には東西に奈良の薬師寺と同じ塔が建っていたということです。

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このように礎石が残っていますので塔があったのは事実と考えられます。

大野寺では大海人皇子が得度したという伝承があります。俄には信じがたいのですが、忌部氏が記紀神話作成で果たした役割を考えると何らかの事実を伝えているのかもしれません。忌部氏が大嘗会に荒妙を献上するようになったのも天武天皇の時代からです。

一時期衰微しましたが、嵯峨天皇によって再興されたそうです。

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本堂

大野寺は蜂須賀の殿様からも崇拝されました。縁日には大きな市が立ったそうです。それはこの地の町名に残っています。切幡の市よりも大きかったと言います。

近代になって明治政府からかなり土地を没収されてしまったが、それでも徳島県最古の寺として重視され、お遍路も必ず通っていたので栄えていました。戦前までは学問所もあり、50人もの学僧が学んでいたそうです。お寺専門の宮大工が住んでいたそうです。付近の寺が次々と無住になったので、お堂と本尊を吸収していったそうです。虚空蔵堂も大日堂も周辺のお寺にあったものだということです。正月には阿南の隆禅寺に挨拶に行く行事もあったらしいです。

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大日堂

戦後に一時期衰微したが、当代(おばあさんの娘婿)が苦労して再興したということです。とても貴重な証言がきけました。ありがとうございました。

 

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川島から粟嶋へ渡る沈下橋。四万十川だけの専売特許ではありません。

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川島神社。天日鷲命が祀られています。

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奈良時代から続く由緒ある神社です。

 

鴨島はかつては宿場町として栄えたのですが、お遍路がバス主流になってからは急速に衰えてしまいました。でも駅前にはお遍路用のリーズナブルな宿があります。夜中まで開いている料理屋さんもあります。駅前の宿に二泊しました。

 

十一番 藤井寺

金剛山

本尊 薬師如来

鴨嶋駅から南に歩いて三十分くらいで藤井寺につきます。山道の入り口にあります。

ご本尊の薬師如来は体内の墨書から久安四年(1148)の作であることが確認されています。四国八十八ヶ所では最古の仏像だそうです。もとは釈迦如来だったが、この地に残る弘法大師伝説に合わせて薬師如来に変えられたとのことです。秘仏です。

 

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藤井寺の山門

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本堂。

お遍路はここから完全な山道に入ります。世に言う遍路転がしの坂です。

 

秋はここまで行きました。年末にさらに先へ進もうと思っています。

2021年1月 9日 (土)

土御門上皇と札所六番から十番

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

札所六番安楽寺から上板町に入ります。

ここでこの区間を歩き遍路をする場合の注意点。

札所五番地蔵寺のあたりまではバスやタクシーも多いのですが、安楽寺から先の上板町と阿波市はいきなり交通の便が悪くなりますので、宿泊地や補給には十分に注意してください。県道12号まで出ればコンビニもありますが、遍路道にはコンビニがなく、それどころか札所六番から九番までの間には自動販売機もありません。夏場には水を確保した上で歩かないと大変なことになります。便利な都会に慣れた人は注意です。

徳島市と鴨島駅の間にはバスが通っていますが、一日5往復ほどしかありませんので時間は十分に確認する必要があります。札所が並ぶ山すそと、徳島交通鴨島線のバスルートは3㎞ほど離れており、札所七番~十番からバス停までは、最低30分はかかります。

坂東三十三ヶ所や西国三十三ヶ所は、たいてい山門までバスが来ていますが、四国八十八ヶ所にはお寺の前までバスが来ているとは限りませんので、百観音と同じ感覚で行くと大変な目に遭います。

逆に言うと、江戸時代のお遍路の雰囲気が味わえるルートともいえるわけです。

 

第六番 安楽寺

温泉山 瑠璃光院

本尊 薬師如来

この日はまず朝にバスで板野から東野へ行って安楽寺の宿坊へ荷物を置いてからスタートしました。

安楽寺は弘法大師が赤茶色の温泉を掘り当てて、その地の病人を癒したという伝説があります。あるいは、猟師が鹿と間違えて座禅中のお大師様を射てしまったのですが、偶然木の枝が落ちて矢が当たってお大師様は助かり、お大師様がその枝を土に植えると枝は根付いて大木になったと言われています。それが境内の逆松です。

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かつて逆松があったという庭。境内はよく整備されています。

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札所一番から始めて最初に行き当たる宿坊です。札所二番の宿坊は現在休業中。広い湯船の温泉があります。熱めのお湯で歩き遍路の疲れを癒してくれます。料理もおいしいです。夕食前のお務めがあって希望者は参加ができます。ここのお務めは趣向を凝らしています。普段は入れない大師堂の中にもお参りさせてもらえます。

本尊薬師如来はこのお寺でお遍路を勧められて道中でお陰をもらって病気が恢復した、大阪の夫婦が寄進した薬師像です。秘仏の本尊が胎内物として納められています。この夫婦の感動的なお話は食堂で流れるビデオで見ることができます。つい三十年ほど前の実話だそうです。

昔の面影が残る街並みを通っていくと、小一時間で札所七番にたどり着きます。

 

第七番 十楽寺

光明山 蓮華院

本尊 阿弥陀如来

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お遍路とはあまり関係ないかもしれませんが、こちらの絵馬は絵が可愛かったです。

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ダウンロード -鎌倉時代前期皇室系図 zenkikamakurakeizu.pdf

さてここから遍路道を外れて北の山へ向かいました。気になる神社があったからです。山皇子神社、宮川神社、御所神社です。その日はお祭りの日で山皇子神社の神主さんから神社の由来を教えていただけました。山皇子神社には土御門上皇の御所があったという伝説があるそうです。

土御門上皇とは後鳥羽天皇の第一皇子。建久九年(1198)に四歳で践祚。父の後鳥羽上皇が院政を敷きました。そして承元四年(1210)十六歳の時に後鳥羽上皇の命により、弟の順徳天皇に譲位しました。

土御門上皇はとても温和な性格で、後鳥羽上皇の討幕計画には関与しませんでした。そのため、承久の乱でも罪に問われなかったのですが、「父が遠島なのに、息子の自分だけが京都に留まるわけにはいかない」と言って、自ら土佐国へ遷御しました。その後幕府の勧めで、畿内に近くて環境が良い阿波国へと移りました。その時の住居がこの辺りにあったと言われています。

上皇の御所と墓地の候補は複数あってどれが本物かは定かではないです。山皇子神社は、いかにも古代人が信仰しそうな形の山のふもとにありますので、古代からの信仰があって、それが上皇の記憶と習合したようにも思えます。

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山皇子神社の遠景。平野に突き出した半島状の山。まさしく櫛。なだらかな三角型の山で、いわゆる神南備山です。上皇がお移りになる前からの聖地であったのでしょう。

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山皇子神社。とても雰囲気の良いお社です。すぐ近くに謎の巨大な木造建築がありますが、この神社とは関係はなさそうです。

 

更に山の方へ行くと宮内川沿いに宮川神社があります。天照大神をお祀りする神社です。

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こちらでもお祀りをしていました。お彼岸の中日だったからでしょうか。ここも静かで良いお社でした。古くからの鎮守といった感じです。

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天然温泉御所の郷

温泉施設を横目に見ながら西へ向かうと神宮寺と御所神社があります。御所神社の御祭神は土御門上皇と素戔嗚尊です。

神社に掲示してあった由緒によりますと、元々は吹越天王社と呼ばれていて、天禄年間(970頃)に、高林坊盛尊が讃岐国多度津浦から天王像を奉じて霊地を探してこの地に到り、領主の原田義富、三木景久とともに願主となって神社を創建したそうです。

元禄九年(1696)に神宮寺別当の順雄は、吹越神社が宮内川の洪水にさらされていることを憂えて、高台の上にお宮を移したと伝わっているそうです。

ここでも女性の神主さんが祝詞を唱えていました。御所神社という名前の通り、上皇の行在所の候補の一つです。神宮寺には驚くほど立派なお堂が立っておりました。

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御所神社の本殿。とても長い階段を上ったところにあります。

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でも実は高台の上にも道路があるので、車でお参りするのならば裏の道路から入るのが良いでしょう。神主さんも車で来ていました。

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神宮寺の境内。薬師如来の道場らしいです。とてもきれいな境内で、地元の人たちから篤く信仰されていることが見て取れます。

 

幕府は上皇のために守護の小笠原長経に命じて御所を造営させていますので、気を遣っていたようです。上皇は寛喜三年(1231)に阿波国板野郡池谷で37歳で崩御されます。池谷は一番札所よりもさらに東ですので、実際はこの辺りに住んでいたようです。しかし熊野の海賊が上皇を迎えるために攻め寄せたこともあるそうで、この土成のあたりに避難することもあったのかもしれません。

十一年後に上皇の第三皇子が即位します。それが後嵯峨天皇で現代に繋がる皇統です。

 

第八番 熊谷寺

普明山 真光院

本尊 千手観音菩薩

江戸時代の初期に建てられた重厚な仁王門が目立つお寺です。大師堂からは徳島平野が遠望できます。

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大きな多宝塔。熊野修験と関わりが深いお寺だそうです。

 

第九番 法輪寺

正覚山 菩提院

本尊 涅槃釈迦如来

熊谷寺から吉野川へ向かってなだらかに傾いている平野を下っていくと、九番札所につきます。この辺りは条里制跡もよく残っていて歩くのが楽しいです。

涅槃釈迦像がご本尊なのは、八十八ヶ所ではこちらだけです。

 

第十番 切幡寺

得度山 灌頂院

本尊 千手観音菩薩

ここからは約一時間ほどずっと緩い上り坂が続いて、地味に疲れます。でも道は歩きやすいです。名前の通り機織りの伝説が残っています。弘法大師がこの地を訪れた時、山麓で機織りの娘に出会いました。この時大師はほころびた僧衣を繕うために布切れを求めたところ、娘は織りかけていた布を惜しげもなく切って大師に差し出しました。

貧しい娘のこの行為に大師は感謝し、望みを尋ねたところ、「亡き父母の菩提を弔いたい」と言ったので、大師は一夜で観音菩薩像を彫り上げ、娘に得度灌頂を授けると、娘は生きたまま仏と化し、観音菩薩に姿を変えたそうです。

あるいはこのような伝説もあるそうです。弘仁年間機織りの娘が雲水に請われるままに布を与えました。その娘の父は北面の武士で(御所を警固する武士)阿部某といったが冤罪で殺されてしまい、妻も後を追ったので娘は天涯孤独の身なのでした。母が観音菩薩を作りたいと言っていたその願いをかなえてあげたいと娘は言いました。

雲水は一夜で本堂と本尊を作りました。そして娘はやはりその場で即身成仏して観音菩薩となりました。南向きの本尊がこの時に大師が彫った仏で、秘仏の北向き本尊は即身成仏した娘と言います。

この地域は機織りで有名な忌部氏の本拠地でしたので、このような伝説ができたのでしょう。

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お遍路の最初の難関。長い石段を登った先に本堂はあります。

観音巡礼者には懐かしい、観音霊場に多いタイプの山寺です。

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大師堂。

 

この日は歩いて安楽寺まで戻りました。かなり疲れたです。

2021年1月 2日 (土)

札所四番から五番そして鹿江比売神

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

第四番 大日寺

本尊大日如来(黒岩山、遍照院)

第三番金泉寺を過ぎ、山に入っていくと札所四番の大日寺にたどり着きます。

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大日寺の本堂と大師堂の間の回廊には西国三十三観音の仏像も展示されています。

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第五番 地蔵寺

本尊 将軍地蔵菩薩(無尽山、荘厳院)

大日寺から山を下っていくとまず地蔵寺の奥の院の羅漢堂にたどり着きます。羅漢とは仏になる前の修行中の僧です。

お釈迦様の涅槃(死)に立ち会った直接の弟子は五百人いたと言われています。その全ての等身大の像がここには納められています。悟りを開く前の羅漢ですので人間味のある像です。

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羅漢堂は二百米くらいの長い回廊です。本堂が釈迦如来、向かって左側に弥勒菩薩、右側に弘法大師の像が安置されています。弥勒菩薩は56億年後の未来に、人間を導いてくださる仏様です。法華経に登場します。弘法大師様は現代の日本人を導いてくださる菩薩です。過去(釈迦如来)、現代(弘法大師)、未来(弥勒菩薩)の三つの世界を導く仏がそろっているという見立てなんですね。

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奥の院の羅漢堂から地蔵寺へと下る道。

地蔵寺は、将軍地蔵菩薩をご本尊とする珍しいお寺です。武人の姿をしたお地蔵様で、武士から篤く崇拝されました。

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札所五番地蔵寺と札所六番安楽寺の間には鹿江比売神(かえひめがみ)を祀った殿宮神社があります。鹿江比売神とは、大麻比古神の娘で大山祇神の妻とされる神様です。延喜式には板野郡に鹿江比売神社があったとされています。有力なのが板野町の神宅の殿宮神社です。

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殿宮神社。神宅の集落の真ん中にあります。別名葦稲葉神社。草野姫(かやのひめ)を祀っています。鹿江比売と音が同じなので、延喜式の鹿江比売神社であろうと言われています。

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殿宮神社の由緒。仁明天皇の承和九年(842)に従五位下を得たとあります。承和の変があった年です。清和天皇の貞観九年(867)に従五位上を得ています。応天門の変の翌年です。中央で政変があった年に、人心を鎮めるために、地方の神社が叙爵されていることが分かります。

この辺りは背後に山地を持つ扇状地です。山の神に対する、野の神という信仰があったことが伺えます。

 

神宅の殿宮神社は、大山寺へと登る道の入り口です。大山寺はお遍路の別格二十番の第一番です。標高691mの大山の中腹450mにあります。つづら折りの林道を登っていったところにあります。徒歩であれば登山用の遍路道を登るのが早くて足も傷めないですが、夏は蜘蛛の巣がかかってて難渋します。登山道を歩く場合には、マムシにも注意してください。

 

別格一番 大山寺

本尊不動明王・千手観音

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登山道から見る徳島平野の眺望は格別です。遠く淡路島や和歌山市も見えます。

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山門から続く石段。

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本堂、不動明王と弘法大師が唐の恵果上人から授かったという千手観音を祀っています。阿波国の山岳仏教の嚆矢と言える寺院です。徒歩であれば殿宮神社から往復で3時間は見ておいた方が良いです。納経所では別格二十番のご朱印帳、掛軸、特製の数珠など装備は全て揃えることができます。別格二十番というのは、八十八ヶ所には選ばれなかったものの、お大師様とは深い縁を持つお寺二十寺を集めたものです。いずれも山奥でお参りするには難易度が高い場所にあります。八十八ヶ所と二十寺合わせて、煩悩の数と同じ百八になります。ご朱印とは別に、各お寺にあるお数珠の珠を集めていって、全て回るとお数珠が完成するというのもやっています。

2020年12月26日 (土)

大麻比古神社から札所三番まで

ダウンロード -お遍路マップ (札所1~19番) ohenromap01.pdf

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、阿波国一ノ宮です。徳島県鳴門市にあります。大麻山(541m)の麓に鎮座。奥宮は大麻山の山頂です。周辺に古墳も多く畿内にも近いことから古くから開けた地域でした。古代には南海道の石濃駅(いそのえき)が大谷にあったとされています。吉野川の北側です。

社伝によると、神武天皇の御代に天太玉命(大麻比古大神)の子孫である、天富命が勅命により肥沃の地を求めて全国各地を巡り、阿波国に到り、麻や楮を育てて麻布・木綿を作り殖産興業の基を築きました。そして太祖である天太玉命を阿波国の守護神としてこの地にお祀りしました。猿田彦大神は、大麻山の山頂にお祀りされていたが、後世に大谷の大麻比古神社に合祀されたそうです。

清和天皇貞観元年(859)には朝廷より神階従五位上を賜り、以後順次進んで、中御門天皇の享保四年(1719)に正一位を賜りました。

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現在でも徳島県の人々に親しまれている神社です。

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このアーチ形の石橋は、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵が建築したものです。近くには板東俘虜収容所跡があります。日本で最初にヴェートーベンの第九を演奏した場所として音楽好きの間では有名です。鳴門の人たちとドイツ兵の交流は日独友好の証です。

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大麻比古神社のご由緒。

 

大麻比古神社が吉野川南岸の忌部神社と同工異曲の神話を持っていることはすでに触れました。しかし神様の名前が天太玉命・天富命・大麻比古命になっています。忌部神社は天日鷲命です。吉野川を遡っていくと、天日鷲命を祀る神社が増えてきます。私は讃岐や畿内から入ってきた人たちが板野郡の先住民の忌部氏を吸収していったのではないかと考えています。

板野郡の奈良時代の戸籍が奇跡的に残っていて、この辺りは物部と粟凡直が多かったことが分かっています。

このあたりには宇志彦神社・宇志比売神社という、古代の族長を神格化したと思われる神社もあるのですが、今回はお参りする機会がありませんでした。

 

以下は私の想像ですが、この神社には丸山神社という摂社があります。大麻比古という神名は、稲城市の大麻止乃豆乃天神社と似ています。大麻止乃豆乃天神社は大丸にあり、占いの神様でした。大麻止乃豆乃天神社は武蔵国稲城にも忌部氏が来ていた名残なのではないかと思うのです。全国に分布する「丸子部」も忌部氏と関連がありそうだと考えています。

 

一番札所 霊山寺(竺和山一条院)

本尊釈迦如来

大麻比古神社から二百米ほど下ると、八十八ヶ所の第一番、霊山寺があります。かつてはお遍路さんは大麻比古神社で道中の無事を祈ってから打ち初めをする習わしでした。

伝説では弘法大師がこの寺を開いたときに、一人の老僧が弟子に教えを説いているのを目にしたとされています。これは即ち、大麻山をお釈迦様が教えを説いたマガダ王国の霊鷲山に見立てているわけです。だから和国にある天竺の山ということで竺和山という山号なんですね。

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重厚な山門。ここでお遍路は長い道中に思いを馳せます。

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境内にはお遍路グッズの売店があります。多くのお遍路さんはここで道具をそろえます。ここはコロナの渦中にあっても営業を続けています。

 

板東捕虜収容所跡地・撮影村

霊山寺から少し山側に入った場所に、日本だいきゅ初演の地である板東捕虜収容所の跡地があります。映画の撮影セットを保存した撮影村や、道の駅第九の郷もあります。

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日独友愛の碑

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捕虜が建築したアーチ橋

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当時の水タンク跡。水を汲んで下の浄水槽に貯水し、モーターでタンクに組み上げて、収容所に配水したらしい。モーターもそのままに残っている。

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道の駅第九の里、喫茶店ではドイツビールとホットドッグやスープが食べられます。でも地元の人たちはうどんしか頼んでいませんでした(笑)

 

札所二番 極楽寺(日照山無量寿院)

本尊 阿弥陀如来

霊山寺から歩いて三十分ほどで二番札所の極楽寺につきます。朱塗りの仁王門が印象的です。

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残念ながら宿坊は現在は営業していません。

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これは薬師堂です。右側の石段を登ります。

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小山を登ったところに本堂と大師堂があります。伝説では、お大師様が彫った阿弥陀像の光があまりにまぶしかったため、この山ができたことになっています。確かここに前は石が置いてあって、願いごとを頭に浮かべながら持ち上げて、楽に持ち上げればその願いは楽にかなう、重たければ努力が必要といういわれがあったはずですが、コロナ感染防止のため現在は非公開になっているようです。

 

第三番札所 金泉寺(亀光山釈迦院)

本尊 釈迦如来

極楽寺からやや歩いたところ、高徳線板野駅の北側に金泉寺はあります。この寺の裏には亀山という山があります。伝説では鎌倉時代の亀山法皇がここで祈ったことになっていますが、さすがにそれは信じられません。しかし、亀山神社・奥山神社という古い神社がありますので、古代からこの山は神格視されていたようです。

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金泉寺の伝説。泉と亀山が重要なキーになっているようです。源義経はここから大坂峠を越えて、讃岐の屋島(香川県高松市)に攻め込みました。高徳線が走っているルートを義経は駆け抜けました。義経の電撃的な進軍に平家は態勢を崩して、壇ノ浦に撤退します。この地域の武家にとって源氏に協力したのは重要なことだったようで、ルート上には義経や弁慶の伝説が多く残ります。さらに阿波の奥地には佐藤兄弟の末裔が移住した伝説も残っています。

 

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亀山神社。金泉寺の裏手にあります

 

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奥宮神社。高松自動車道が大きく北に曲がるあたり。

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奥宮神社の手水鉢の蛇口。ユーモラスな顔をしたお魚さんです。

 

大麻比古神社から札所一番~五番あたりまでは阿波国の板野郡です。奈良時代に板野郡から勝虞(勝悟)という高僧が出ました。天平四年(732)~弘仁二年(811)。凡直氏(粟国造)。法相宗の僧です。義淵ー神叡ー尊応ー勝虞ー護命という相承関係です。

義淵は阿刀氏ですので、弘法大師のお母さんの実家です。飛鳥時代から続く学者の家柄です。玄昉・行基・良弁の先生に当たります。元正・天武天皇の護持僧であったともいわれます。天武天皇の皇子と共に育ったという伝承がありますので、舎人か乳母子だったのかもしれません。

神叡も法相宗の僧で新羅に渡って学んだそうです。南山城の芳野の現光寺で庵を結んだとあります。自然智を得たとありますので、山岳で修行をしていたのではないかと考えられます。

勝虞の弟子護命は、最澄とは対立しましたが、空海とは親交がありました。空海は讃岐(香川県)の人で、母は阿刀氏でした。板野出身の勝虞と空海は交流があったと考えられます。空海が若い頃に平城京の大学を抜けて私度僧となり、山岳を修行してまわっていた際に、南山城の芳野の現光寺に行ったと考えるのも自然です。

八十八ヶ所が板野からスタートするのは、若き日の空海と法相宗のつながりによるものではないかと私には思えます。

※私は、歴史上の人物として語る際には「空海」と使い、信仰上の存在を語る際には「弘法大師」と呼ぶようにしています。あまり厳密な使い分けをしているわけでは無いですけれど…

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