稲毛三郎重成(源頼朝の弟たち)
稲毛三郎重成は鎌倉時代初期の御家人です。武蔵国で強い勢力を誇った秩父氏で、今の川崎市宮前区、多摩区、麻生区を領地としていました。源頼朝と同時代の人物です。
稲毛重成は坂東武士の鑑と讃えられた畠山重忠と従兄弟でした。源平合戦では、畠山重忠の弟分としていつも一緒に戦っていたと言われています。さらに稲毛重成の妻は北条政子の妹でした。つまり稲毛重成は初代将軍源頼朝と義兄弟です。
この時代の重要人物を秩父氏を骨格としてまとめた系図です。
秩父氏は北条氏、多田源氏(清和源氏)、比企氏といった名族と姻戚関係を結んでいました。それは秩父氏が武蔵国国司の代理である検校という役職に代々就任していたからです。実質的に現地のトップとして、武蔵国の国衙領(朝廷の直轄領)を管理していました。秩父は鉱業や養蚕で豊かでしたので、周辺の武将は秩父氏と血縁関係を結ぶことを望んだのです。
しかし、秩父氏は源氏と北条氏によって弱体化させられます。まず源義経と血縁関係を結んでいた河越氏が源頼朝によって滅ぼされます。河越氏は武蔵国検校職を持つ秩父氏の棟梁でした。次いで畠山重忠が北条時政に謀殺されます。その際には、時政の娘婿である稲毛重成も心ならずも北条氏に加担してしまいます。さらに稲毛重成も重忠を殺した罪を着せられて殺されます。武蔵国検校職は再び河越氏に戻りましたが、昔日の面影はなかったと言います。
というわけで身近な御家人稲毛氏の関連の史跡を回ってみました。
(1)枡方城跡
小田急向ヶ丘遊園駅から南に200m行くと丘陵があります。これが稲毛氏の城塞枡形城の跡地です。高さは50mくらいですが、東京23区と川崎市南部を見下ろすことができる要害の地です。跡地は生田緑地として公園になっています。
公園には展望台があります。東は筑波山、東京スカイツリー、新宿副都心、西は丹沢富士山まで見通すことができます。
見張り小屋があった場所からの長めです。都心のビル群が見えます。
枡形城は関東北部の勢力から鎌倉を守る要でした。
(2)広福寺
枡形城の北側には広福寺というお寺があります。ここは飛鳥時代からの由緒あるお寺で、鎌倉時代に稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)を弔うために、自分の館をお寺に改装したと言われています。
広福寺の境内の石碑から書き写した由緒書きです。
当寺は平安時代仁明三年承和四年慈光大師(圓仁)の開山。開基は狛江郷主の一族刑部広主(広福長者)の妻直刀自が主人為建立の寺。
中興は鎌倉時代源頼朝の御家人稲毛庄長者(現川崎市現稲城市)稲毛三郎重成の館となる(
・父は現町田市の領主小山田別当有重
・母は現宇都宮市の領主宇都宮宗綱の娘
・重成は畠山重忠とは従兄弟)
重成の内室は北条四郎時政の娘で将軍頼朝の妻政子の実妹。
然后建久六年七月重成妻病没。悲しみに堪えず入道館を氏寺として広福寺を中興する。
建久九年十二月廿八日相模川に架橋(馬入橋)て妻の冥福を祈る。将軍橋の渡り初めに臨み落馬して翌正治元年正月死亡する。
後稲毛、畠山(秩父一族)北条氏の陰謀により元久二年六月滅亡する。当寺広福寺は初めは稲毛館により稲毛寺と称す。
天正時代に信州松本氏一族が入山し、松本山とも称す。
永正元年九月北条早雲今川氏親の軍当寺に座陣。永禄十二年六月武田信玄の軍当寺に攻め寄せ、横山式部少輔弘成防戦する。
稲毛山広福寺第四十一世勝健代
この寺の創建は平安時代で狛江の領主が願主になったそうです。狛江の領主といえば、飛鳥時代に調布市の深大寺を創建した一族と同じです。深大寺は織物業と深いつながりがあるお寺ですが、その一族が橘郡まで勢力を伸ばしていたのでしょう。そして、平安時代末期の御家人もその基盤を受け継いでいたと言えます。
また、稲毛重成は源頼朝の死因となった相模川の橋を架けた願主であったこともわかります。稲毛重成が亡き妻を供養するために、寄付して架けた橋でした。その落成記念には義理の兄である頼朝も出席しないわけにはいきません。ただしその後、落成供養の主宰者である稲毛重成が何ら咎めを受けていないところを見ると、頼朝の落馬は純粋な事故なのかもしれません。
実は頼朝が落馬したという伝説は世田谷区の駒繋神社にもあります。頼朝はもしかしたら乗馬があまり上手ではなかったのかもしれません。弓の名手だったという伝承はあるのですが、馬についてはあまり良い評判が残っていません。頼朝があまり戦いに出たがらなかった原因かもしれません。
升形城(広福寺)が要害の地であったことは、戦国時代にも有名な武将が立てこもっていたことからもわかります。
広福寺は稲毛準西国観音霊場の第一番札所です。
(3)妙楽寺
広福寺の南東の長尾丘陵には妙楽寺という天台宗のお寺があります。ここは平安時代初期の文徳天皇の時代に創建された威徳寺の跡地なのではないかといわれています。
威徳寺には源頼朝の弟で義経の同母兄である阿野全成が住職となっていて、源氏の祈願寺として重視されました。
長尾に行ってみればすぐにわかりますが、ここは多摩川からちょっとした崖になっていまして、やはり要害の地です。頼朝は、弟である阿野全成(僧侶だった)をこの寺に配置することで、鎌倉の守りを固めようとしたと考えられます。
妙楽寺は現在は紫陽花寺として親しまれています。
(4)寿福寺・九郎明神社
川崎市麻生区の読売ランドから新百合ヶ丘にかけては、源義経の伝説が残っています。
読売ランドの東麓にある寿福寺には、逃亡途中の義経が立ち寄ってお経を奉納したという伝説があり、新百合ヶ丘の九郎明神社は義経を祀っています。そのほかにも二枚橋など多く伝承が残ります。これは義経の家臣がこの土地を領地としていたためそのような伝説が残ったのでしょう。
※真偽は不明ですが、関東で源氏は犬養系(犬飼)の集団を取り込んでいったという考察がありました。http://www.raifuku.net/special/wolf/wolf_top.html
また、 たまプラーザ駅付近には「犬蔵」という地名があります。光明皇后の母親である縣犬養美千代(橘美千代)と影向寺の繋がりを調べる過程で、武蔵の国にも犬養氏がいたことが浮かび上がってきたのですが、源氏と犬養というのも気になる説です。
このように、川崎市北部には稲毛重成、阿野全成、源義経という源頼朝の義理と実の弟が三人配置されていました。頼朝は当初は、鎌倉の北の守りを、弟たちに任せるつもりだったのかもしれません。現在の埼玉県東部を支配していた秩父氏としても、神奈川県北部に住む稲毛氏や河越氏と源氏の間に血縁関係を結ぶことによって、鎌倉との間に緩衝地帯を作りたかったのかもしれません。しかし運命のいたずらか、やがて彼らは頼朝自身の手により、あるいは北条氏の手にかかって、次々と討ち取られてしまったのでした。
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