2009年6月 4日 (木)

桑の葉のそよぐ国

陰暦 五月十二日 【伝教大師忌】

 標題は藤沢周平の上杉鷹山伝である「漆の国のみのる国」をもじったものです。

 「漆の実のみのる国」は前半が改革派の家老竹俣当綱(たけのまたまさつな)と官僚の莅戸善政(のぞきよしまさ)が愚鈍な殿様である上杉重定を隠居させ て、英明な養子の上杉治憲(鷹山)を藩主に据えるまでを、後半は青年君主の治憲が米沢藩の立て直しに悪戦苦闘するも、天明の飢饉といった天災に襲われるな どの不運もあってなかなか治績が上がらず、藩の困窮は続き、最後の最後に隠居していた莅戸善政が家老に取り立てられるところまでで終わっています。

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2009年6月 2日 (火)

家綱時代の経済政策(二)

陰暦 五月十日

 酒井忠清大老時代です。

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2009年5月31日 (日)

家綱時代の経済政策(一)

陰暦 五月八日

 徳川家綱の時代の経済政策を整理してみました。「江戸時代年鑑」(雄山閣)より。

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2009年5月30日 (土)

大名貸し

陰暦 五月七日

 江戸時代の経済の勉強するのは、現在の複雑な経済を理解する上で非常に有効です。基本的な仕組みは江戸時代に全てそろっていますし、江戸時代の方が単純なので分かり易い、更に変な漢語や横文字を使わず、生活に根ざした言葉を使っているので我々庶民にも理解がしやすいという利点があります。それにまだバーチャルマネーがそれほど発達しておらず、小判や米といった実態とマネーの対応関係がはっきりとしているので分かり易いのです。

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2009年1月15日 (木)

御陰参りとデフレ(三)

陰暦 十二月廿日 【小豆粥】

 (一)と(二)を増補しましたので、興味がある方はご覧下さい。

 それにしても庶民の生活を楽にするためには貨幣流通量を増やせばよいと言うことを知っていたとは、江戸城に詰める老中たちは現代の日本の指導者よりも経済のことが分かっていたと言えるでしょう。

 平成の日本と江戸時代の日本を対象して考えてみましょう。時系列を追うと

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2009年1月13日 (火)

御陰参りとデフレ(二)

陰暦 十二月十八日

 四回の御陰参りはどのような情勢の中で発生し、収束したのでしょうか?

 面白いことに御陰参りの発生と収束はインフレ・デフレと大いに関わっていることが分かりました。御陰参りの四回とも、江戸時代の金融の転換点と同時期に発生しています。

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2009年1月12日 (月)

御陰参りとデフレ(一)

陰暦 十二月十七日 【成人の日】

 江戸時代も元禄を越える頃になると人口の増加求まって超安定社会となって、貨幣経済の発達の割りには消費が伸びなくなり、恒常的な需要不足に陥りました。最も重要な商品であるお米の価格は下がり続けます。欧州の場合、富を国王が回収して軍備増強をして戦争をしたり、植民地を獲得したり、技術の革新に投資したりして富が活用されていたのですが、当時の日本は海外進出を停止し、国内でも戦争は禁止されていた上に、幕府や藩は科学教育には熱心でなかったので、支配者は金の使い道に困りました。

 仕方がないので武士は、ありあまった貨幣を借金という形で回収し、城の普請や大河川の改修といった公共工事、参勤交代や将軍のお成り(大名のお屋敷を将軍が訪問する、接待側は多大な失費を強いられ る)や儀式による出費、等に使って需要を増やそうとしました。

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2008年4月17日 (木)

小さな政府と福祉国家は矛盾しない(二)

陰暦 三月十二日【土用の入り】

 この時期、米だけに藩の収入を頼ることはほとんど不可能になりました。開幕以来の食糧増産の努力が実を結んで、米が大いに剰っていたからです。それに対して技術が進んで商品生産が盛んになり、貨幣も流通したので、出費は増えました。

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2008年4月15日 (火)

小さな政府と福祉国家は必ずしも矛盾しない(一)

陰暦 三月十日

 私は以前は小さな政府派で、税金は安いほどよいと考えていたのですが、医療や福祉の現場がかなり疲弊していることを知って、相応の負担により、社会保障を充実させる方が世の中全体としては支出が減るはずという考え方に改めました。

 税金の国民負担率はバブル期が最高でした。日本の税金、特に法人税は会社が儲かると納税額がグンと増える仕組みになっているためです(詳しくは知らない、現象的に知っているだけ)。

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2007年11月28日 (水)

上杉鷹山はえらい

陰暦 十月十九日

 人物叢書の「上杉鷹山」を読んでいます。立派な人だとは聞いていましたけれども、そのために反発を感じて今まで伝記は読まないできました。この前米沢へ行って、自筆の書などを見て、興味がわきました。そこで人物叢書となったわけですが、何が感動したかというと・・・

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2007年11月 7日 (水)

中世の物権法

 古本屋で見つけた「日本法制史概要」がなかなか面白い。今までいまいちよく分からなかった昔の法律用語が明快に説明されているのが有り難い。なんといっても初版が昭和二十七年なので、あまり余計な色が付いていないから分かり易い。特に感銘を受けた中世法の物権法の部分を抜き出します。

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2007年5月15日 (火)

破産する中世人

【沖縄本土復帰記念日】
三月廿九日【葵祭】

 室町時代の話を読んでいると、借金で破産する人が大勢登場します。貴賤も老若も男女も分かたずみんな自己破産。なんだってこうもだらしないのか、中世の日本人は特別浪費家揃いであったのでしょうか。そうではありません、これはかつて貨幣というものがどういう存在であったかを知らないと実態が見えなくなります。

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2007年2月21日 (水)

応仁の乱後の畿内(七)

陰暦 一月四日

 永正十七年(1520)の政変をまとめると、四国と摂津の軍勢を率いた細川澄元・三好之長を、細川高国が北陸・近江・丹波連合軍で追い払ったということができます。この段階でも京都というのは、畿内諸国を二分する勢力が、争奪し合う価値がある土地であったのでした。

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応仁の乱後の畿内(六)訂正版

 間違いが見つかりましたので大幅に訂正します。三好之長を殺害したのは細川高国でした。細川澄元は三好之長と一時期不和になった物の、最後の段階では両者は行動をともにしていました。どうも人間関係が入り組んでいますので気をつけないと間違ってしまいますね。澄みません。

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2007年2月18日 (日)

応仁の乱後の畿内(六)

陰暦 一月朔日 【正月】

 平成丁亥年の年明けです。あけましておめでとうございます。実は正月を新暦で祝うのは東アジアでは日本人だけです。沖縄でも、支那でも、韓国でも、ヴェトナムでも正月は今日です。

 細川澄元は細川家の惣領になることができましたが、保護者であったはずの三好之長が今度は疎ましくなりました。

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2007年2月16日 (金)

応仁の乱後の畿内(五)

陰暦 十二月廿九日

 細川政元には子がなかったため、前の摂政太政大臣九条政基の子の澄之を養子にとりました。澄之は将軍義澄の従兄弟です。しかし政元は後で他家から養子を迎えたことを悔いて、阿波細川家の澄元を養子に取りました。

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2007年2月12日 (月)

「応仁の乱後の畿内(四)」

暦 十二月廿五日

 ですので、戦国時代になって、守護が任地で邪険に扱われるようになったとはいえ、それがそれまでの状態と百八十度変わったかというと少々事情が異なります。

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2007年2月10日 (土)

「応仁の乱後の畿内(三)」

陰暦 十二月廿三日

 戦国時代の"下克上"の実態について考えてみようと思います。

 まず室町時代の守護というのは、基本的に任地には赴任しませんでした。京都に滞在することが義務づけられていました。関東の守護は鎌倉滞在を義務づけられていました。任地には守護代を任命して実際の統治を任せました。

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2007年2月 8日 (木)

「応仁の乱後の畿内(二)」

陰暦 十二月廿一日 【針供養】

 まず文明九年(1477)に京都での戦闘が終了。その後も畠山氏は近畿で家督争いを続けます。将軍になれなかった足利義視は土岐成頼に保護されて美濃に落ち延びました。成頼は斎藤道三に国を追われた頼芸の祖父です。

 その後織田信長が上洛するまで南近江の六角氏が絶えず幕府に反抗します。これは近江に残る荘園というのは公家と幕府の財政にとって最後の砦であり、これを押領されてしまうと京都の生活が成り立たなくなるため、幕府としては絶対に六角氏による近江の領国化は防ぎたかったため、幕府と六角が激しく対立したからでしょう。

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2007年2月 7日 (水)

「応仁の乱後の畿内(一)」

陰暦 十二月廿日

 学校で習う歴史では応仁の乱の次は武田信玄や織田信長まで飛んでしまいます。加賀の一向一揆が長享元年(1487)で京における応仁の乱終結から十年後にあたり、北条早雲が三浦氏を滅ぼして相模国を手中に収めたのが永正十三年(1516)でした。従って蓮如や伊勢新九郎(北条早雲)が生きた時代は応仁の乱の前後にまたがっていますけれども、彼等の活躍は次の時代の主役である戦国大名の発展との関わりで語られるのが普通です。室町幕府がどのように衰退したかの詳しい解説はあまりありません。

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2006年10月15日 (日)

南海の斎藤道三(三)

陰暦 八月廿四日 【新宮熊野速玉大社祭】【天理石上神宮例祭】【姫路喧嘩祭】

 十月に入ったにもかかわらず二十五度近い日が続いています。でも旧暦だと今年は閏月が入ったのでまだ八月、ということはお彼岸と同じくらいの暑さでもおかしくはないことになります。旧暦は良くできている。

さて

 もうちょっと調べてみた所、伊作忠良の祖父の久逸は一応相州家の出ということになっているみたいです。

 しかし、wikipediaの記事を信用すると、久逸の経歴は

相州家→伊作家→伊東氏被官→相州家と戦→相州家に敗北→伊作家

 ということになってはっきりいって変です。伊東氏の被官よりも伊作家当主の方が上のはずなのに何で「伊作家に帰ってこい」という相州家からの呼び かけを拒否して伊東氏と一緒に伊作・相州連合軍と戦わなければならないんだ?これは久逸には、本来は伊作家を継承する権利がなかったのに、伊東氏と一緒に 島津と戦って伊作家を乗っ取ったと考えた方が自然ではないのか?

 しかも、子供の善久は30くらいで下男に殺害されており、数年後に久逸も戦死している。そして善久の未亡人が子供(忠良)が相州家を継承するとい う条件で、相州家の島津運久に嫁入りして、忠良が成長してめでたく相州家を嗣いだとなっていて、話が出来すぎではないのか?素直に信じる気にはあまりなれない。しかも忠良は途中まで寺の小僧だったというではないか、これではますます斎藤道三である。

 きっと忠良の母 親というのが鍵なんだろうな。実家が富裕な土豪で零落していた島津家が争って嫁に引き込んだのだろう。忠良が善久の落とし胤というのも、丁度忠良が生まれたころに伊作家が断絶したのを利用した後付だろう。ていうか善久を撲殺した下男が忠良の実父なんだろう、話の筋から言うと。密通がばれた間男が旦那(善久)を殺したんだな。それで不義の子である忠良は寺に預けられたけれど、実力で島津家を乗っ取ったのだろう。

 というわけで伊作久逸ー善久ー忠良は島津家かどうかすら怪しいので、忠良が南海の斎藤道三という主張はそのままにしておきます。

私が作った系図。(検証はしていないので半分飛んでもです)

伊作教久(伊作家断絶)


伊作久逸(伊東氏被官?)

善久←無関係→○=女=島津運久
        |
        伊作忠良
        |
        島津貴久
        |
        島津義久、義弘

 応仁の乱後の世界というのは想像以上に無秩序だったのかもしれません。守護や守護代は名跡は続いているものの、血縁関係は滅茶苦茶みたいです。司馬遼太郎の「国盗り物語」よりももっとアナーキーだったのではなかろうか。織田信長の織田家も、実は斎部氏で、守護代の被官の織田家を乗っ取ったらしいし。斎藤道三や伊作忠良を主人公にした冒険活劇なんか作ったら面白いかもしれませんね。

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2006年10月12日 (木)

南海の斎藤道三(二)

 文章だけではわかりにくいと思いましたので、系図を作りました。

島津家略系図

 このくらい遠縁が守護大名家を嗣ぐのは戦国末期では珍しいことではありません。長尾輝虎(上杉謙信)に関東管領を譲った上杉憲政は扇ヶ谷家の傍流ですので山内家からはかなり離れていますし、細川藤孝(幽斎)は傍流の和泉守護家から公家の三淵家に養子に入って戻っています。

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2006年10月 8日 (日)

南海の斎藤道三

 最近読んだ「守護・戦国大名事典」(東京堂出版、西ヶ谷恭弘 編)に書いてあったんですが、戦国大名の島津氏と御家人の島津氏はほとんど無関係らしい。

 これによると、鎌倉末期に島津久経の子供の久長が伊作氏を名乗り(ッていうかこれって承久の乱で宮方について九州に流された奥州伊達氏の本家の伊佐氏では!?)、その七代目の伊作忠良が相州島津家の養子に入り、更に子供の貴久が本家の奥州島津家の養子に入り(乗っ取り?)、奥州島津家の係累をやっつけてのし上がったというのが史実らしい。

 なんだこれじゃあ親子二代で守護代の斉藤家を乗っ取った斎藤道三と一緒じゃん!

 室町時代の島津家というのは内紛を繰り返していて、かなり混乱状態にあったらしい。島津家同士で殺し合いをし、どうしようもなくなって、いつの間にか分家の分家から出た貴久が本家を嗣いでいたと言うことだとか。

 しかし貴久とその子供の義久・義弘兄弟が希代の傑物で、南九州に覇を唱える大大名となり南海の雄近世島津氏を作ったとのこと。御家人の島津氏と近世の島津氏はほとんど別物と考えた方が良いみたいです。

 島津氏も下克上とは無縁ではなかったのですね。あと島津氏は源頼朝の御落胤という家系伝説をもっていますが、実際は惟宗氏だそうですから対馬の宗氏と遠い親戚と言うことになります。

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2006年9月 3日 (日)

肉を食べる戦国武将

 今日の「功名が辻」で山内一豊達が陣中で鶏鍋を食べていました。

 時代考証的には正しく大進歩なのですが、時代劇で肉食が出てきたのはこれが初めてではないでしょうか?正直驚きました。

 日本における肉食というのは、今で言うセックスと同じで、みんなやっているけれど、人前では口にできないこと、という扱いでした。明治に肉食が解禁されて大騒ぎになったのは、人前で肉を食べることが大変に破廉恥だったからだと思われます。ふりちんで街中を歩くのと一緒だったのだと思います。

 明治天皇が東京へ移って真っ先に行ったのは皇室専用の牧場を作ることでした。私は公家は飛鳥時代以来ずっと、江戸時代にも牛肉と牛乳を口にしていたと推測しています。精をつけるためには必要だからです。だから明治天皇は率先して肉食ができたのだろうと思います。また孝明天皇は肥満体でした(あの肖像画は嘘)。

 太閤さんは伴天連に呼ばれてビーフステーキを食っていたそうです。農民が鳥獣を食っていたのは公然のことでした。お坊さんも、信徒からの布施であれば肉でも食べます。貰ったものは拒んではいけないことになっているからです。自分が殺さなければいいのです。お釈迦様の死因は腐った豚肉を食べたことによる食中毒です。

 日本史上本当に肉を食うことがなかったのは、あるいは江戸の武士と町人だけかもしれません。江戸の栄養状況はとても悪かったそうですから。

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