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2021年2月 6日 (土)

稲毛三郎重成(源頼朝の弟たち)

稲毛三郎重成は鎌倉時代初期の御家人です。武蔵国で強い勢力を誇った秩父氏で、今の川崎市宮前区、多摩区、麻生区を領地としていました。源頼朝と同時代の人物です。

 

稲毛重成は坂東武士の鑑と讃えられた畠山重忠と従兄弟でした。源平合戦では、畠山重忠の弟分としていつも一緒に戦っていたと言われています。さらに稲毛重成の妻は北条政子の妹でした。つまり稲毛重成は初代将軍源頼朝と義兄弟です。

 

この時代の重要人物を秩父氏を骨格としてまとめた系図です。

ダウンロード - gokeninkeizu01.pdf

秩父氏は北条氏、多田源氏(清和源氏)、比企氏といった名族と姻戚関係を結んでいました。それは秩父氏が武蔵国国司の代理である検校という役職に代々就任していたからです。実質的に現地のトップとして、武蔵国の国衙領(朝廷の直轄領)を管理していました。秩父は鉱業や養蚕で豊かでしたので、周辺の武将は秩父氏と血縁関係を結ぶことを望んだのです。

 

しかし、秩父氏は源氏と北条氏によって弱体化させられます。まず源義経と血縁関係を結んでいた河越氏が源頼朝によって滅ぼされます。河越氏は武蔵国検校職を持つ秩父氏の棟梁でした。次いで畠山重忠が北条時政に謀殺されます。その際には、時政の娘婿である稲毛重成も心ならずも北条氏に加担してしまいます。さらに稲毛重成も重忠を殺した罪を着せられて殺されます。武蔵国検校職は再び河越氏に戻りましたが、昔日の面影はなかったと言います。

 

というわけで身近な御家人稲毛氏の関連の史跡を回ってみました。

 

(1)枡方城跡

小田急向ヶ丘遊園駅から南に200m行くと丘陵があります。これが稲毛氏の城塞枡形城の跡地です。高さは50mくらいですが、東京23区と川崎市南部を見下ろすことができる要害の地です。跡地は生田緑地として公園になっています。

Masugata02

公園には展望台があります。東は筑波山、東京スカイツリー、新宿副都心、西は丹沢富士山まで見通すことができます。

Masugata01

見張り小屋があった場所からの長めです。都心のビル群が見えます。

枡形城は関東北部の勢力から鎌倉を守る要でした。

 

(2)広福寺

枡形城の北側には広福寺というお寺があります。ここは飛鳥時代からの由緒あるお寺で、鎌倉時代に稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)を弔うために、自分の館をお寺に改装したと言われています。

 

広福寺の境内の石碑から書き写した由緒書きです。

 

当寺は平安時代仁明三年承和四年慈光大師(圓仁)の開山。開基は狛江郷主の一族刑部広主(広福長者)の妻直刀自が主人為建立の寺。

中興は鎌倉時代源頼朝の御家人稲毛庄長者(現川崎市現稲城市)稲毛三郎重成の館となる(

 ・父は現町田市の領主小山田別当有重

 ・母は現宇都宮市の領主宇都宮宗綱の娘

 ・重成は畠山重忠とは従兄弟)

重成の内室は北条四郎時政の娘で将軍頼朝の妻政子の実妹。

然后建久六年七月重成妻病没。悲しみに堪えず入道館を氏寺として広福寺を中興する。

建久九年十二月廿八日相模川に架橋(馬入橋)て妻の冥福を祈る。将軍橋の渡り初めに臨み落馬して翌正治元年正月死亡する。

後稲毛、畠山(秩父一族)北条氏の陰謀により元久二年六月滅亡する。当寺広福寺は初めは稲毛館により稲毛寺と称す。

天正時代に信州松本氏一族が入山し、松本山とも称す。

永正元年九月北条早雲今川氏親の軍当寺に座陣。永禄十二年六月武田信玄の軍当寺に攻め寄せ、横山式部少輔弘成防戦する。

      稲毛山広福寺第四十一世勝健代

 

この寺の創建は平安時代で狛江の領主が願主になったそうです。狛江の領主といえば、飛鳥時代に調布市の深大寺を創建した一族と同じです。深大寺は織物業と深いつながりがあるお寺ですが、その一族が橘郡まで勢力を伸ばしていたのでしょう。そして、平安時代末期の御家人もその基盤を受け継いでいたと言えます。

また、稲毛重成は源頼朝の死因となった相模川の橋を架けた願主であったこともわかります。稲毛重成が亡き妻を供養するために、寄付して架けた橋でした。その落成記念には義理の兄である頼朝も出席しないわけにはいきません。ただしその後、落成供養の主宰者である稲毛重成が何ら咎めを受けていないところを見ると、頼朝の落馬は純粋な事故なのかもしれません。

実は頼朝が落馬したという伝説は世田谷区の駒繋神社にもあります。頼朝はもしかしたら乗馬があまり上手ではなかったのかもしれません。弓の名手だったという伝承はあるのですが、馬についてはあまり良い評判が残っていません。頼朝があまり戦いに出たがらなかった原因かもしれません。

升形城(広福寺)が要害の地であったことは、戦国時代にも有名な武将が立てこもっていたことからもわかります。

広福寺は稲毛準西国観音霊場の第一番札所です。

 

(3)妙楽寺

広福寺の南東の長尾丘陵には妙楽寺という天台宗のお寺があります。ここは平安時代初期の文徳天皇の時代に創建された威徳寺の跡地なのではないかといわれています。

Nagaoji01

威徳寺には源頼朝の弟で義経の同母兄である阿野全成が住職となっていて、源氏の祈願寺として重視されました。

Nagaoji02

長尾に行ってみればすぐにわかりますが、ここは多摩川からちょっとした崖になっていまして、やはり要害の地です。頼朝は、弟である阿野全成(僧侶だった)をこの寺に配置することで、鎌倉の守りを固めようとしたと考えられます。

 Nagaoji03

妙楽寺は現在は紫陽花寺として親しまれています。

 

(4)寿福寺・九郎明神社

川崎市麻生区の読売ランドから新百合ヶ丘にかけては、源義経の伝説が残っています。

読売ランドの東麓にある寿福寺には、逃亡途中の義経が立ち寄ってお経を奉納したという伝説があり、新百合ヶ丘の九郎明神社は義経を祀っています。そのほかにも二枚橋など多く伝承が残ります。これは義経の家臣がこの土地を領地としていたためそのような伝説が残ったのでしょう。

※真偽は不明ですが、関東で源氏は犬養系(犬飼)の集団を取り込んでいったという考察がありました。http://www.raifuku.net/special/wolf/wolf_top.html

また、 たまプラーザ駅付近には「犬蔵」という地名があります。光明皇后の母親である縣犬養美千代(橘美千代)と影向寺の繋がりを調べる過程で、武蔵の国にも犬養氏がいたことが浮かび上がってきたのですが、源氏と犬養というのも気になる説です。

 

このように、川崎市北部には稲毛重成、阿野全成、源義経という源頼朝の義理と実の弟が三人配置されていました。頼朝は当初は、鎌倉の北の守りを、弟たちに任せるつもりだったのかもしれません。現在の埼玉県東部を支配していた秩父氏としても、神奈川県北部に住む稲毛氏や河越氏と源氏の間に血縁関係を結ぶことによって、鎌倉との間に緩衝地帯を作りたかったのかもしれません。しかし運命のいたずらか、やがて彼らは頼朝自身の手により、あるいは北条氏の手にかかって、次々と討ち取られてしまったのでした。

2020年8月22日 (土)

小御門神社

成田市北部の小御門神社(こみかどじんじゃ)に参拝しました。この神社に祀られているのは贈太政大臣花山院師賢です。

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小御門神社鳥居

花山院師賢は、藤原北家師実流の公家です。花山院家の祖である藤原家忠は、関白藤原師実の次男でした。父の師実と兄の師通が相次いで死去し、甥にあたる北家嫡流の藤原忠実が白河上皇の不興をかって長年失脚していたため、院政期に花山院家は重用されて清華家(最高で太政大臣までなれる家柄)として確立しました。

小御門神社の御祭神になった花山院師賢は鎌倉時代末期の人です。彼は生前に後醍醐天皇に重用されました。嘉歴二年(1327)に正二位大納言となります。そして後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵をあげた元弘元年(1331)の元弘の乱において、幕府軍を引き付けるために天皇の変装をして比叡山に上ります。延暦寺の僧兵を味方につけようとするも、それには失敗しました。しかし幕府の目を比叡山に引き付けることに成功し、後醍醐天皇はその隙に京都を脱出して大和に入ります。

比叡山から逃亡した師賢は、笠置山で後醍醐天皇(正確に言うとこの時点では廃帝)と合流し、幕府軍と戦いますが、衆寡敵せず、六波羅に敗れて捕らえられてしまいます。師賢は出家します。法名は素貞。下総に流罪となり、千葉貞胤に預けられました。

元弘二年(1332)の10月に配所にて病死。しかし死因には疑義があります。それというのも、半年前の4月には楠木正成が千早赤阪城を奪還して鎌倉幕府への抵抗を再開しています。今回は周辺の豪族も参加していたために、六波羅は鎮圧にてこずりました。そして9月20日に北条高時が坂東八カ国の御家人に楠木正成討伐令を出しています。師賢の死は正成討伐令の直後ですから、楠木正成と呼応することを恐れた幕府によって内密に始末された可能性があります。

その後鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が復位しました。史実を正確にいうと光厳天皇の即位がなかったことにされました。そのようなわけで、師賢の死は無駄にはなりませんでした。天皇は6月3日に帰京し、6月23日には師賢に太政大臣を贈っています。天皇から文貞公と贈り名されました。天皇が師賢を高く評価していたことが見て取れるでしょう。

 

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坂東三十三ヶ所二十八番龍正院(滑河観音)の裏手、この辺りに建武二年建立の供養塔がある(実物の写真は撮りませんでした)。当時の人が作った師賢の供養塔かもしれません。

 

明治政府は国に功績があった人物を神として祀る制度を作りました。別格官弊社です。明治五年以降、楠木正成(湊川神社)、徳川家康(東照宮)、豊臣秀吉(皇国大明神)などが列格されます。明治十二年には靖国神社も加わります。

明治九年から、南朝に功績があった人たちの神社が別格官弊社に列せられました。新田義貞、肥後の菊池氏、名和長年、北畠顕家、親房、結城宗宏ときて、明治十五年に最後に神社ができたのが師賢でした。見てもわかるように祀られているのは武家ばかりです。北畠家も室町時代に伊勢に土着して戦国大名になっています。別格官弊社に祀られた純粋な公家は師賢が初めてでした。後醍醐天皇から鎌倉幕府討伐の最高の功績者とされた花山院師賢が入っていないのはおかしいという公家からの意見があって、明治政府もそれを認めたのだと思われます。明治天皇の外祖父である中山忠能は花山院家の分家ですから、それも影響したかもしれません。

別格官弊社という制度は、これ以降は華族がご先祖様を顕彰するための制度になっていきます。

 

戦前の総理大臣近衛文麿はことのほかこの神社に愛着を感じていたと言われています。鳥居横の社号は彼の揮毫です。

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公爵近衛文麿と書いてありますね。

 

近衛文麿が愛好した神社ということで、怖いもの見たさもあって参拝してきました。成田線の久住駅から歩いて二時間くらいでした。滑河駅の方が近いのですが、周辺の景色や史跡も見たかったので、わざと遠回りをしました。

当の小御門神社ですが、特別な感じは受けませんでした。大木に囲まれた境内は静かで、厳かな雰囲気があります。御祭神の文貞公が後醍醐天皇の身代わりになったことから、災難から信者を守ってくれる身代わりの神様として信仰を集めているそうです。

 

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小御門神社の社務所

 

個人的な想像ですけれども、文貞公は自分の人生に悔いはなかったのではないでしょうか。主君の身代わりとなって幕府と戦って殉じたのですから、男子の本懐を遂げたと言えます。後醍醐天皇のように遠島ではなくて関東に流されていますので、幕府も忠臣として敬意をもって遇したといえます。幸いにして?建武の新政を見ることなく亡くなったので、後醍醐天皇に幻滅することもありませんでした。当時としては、満足のいく人生を送ることができた人と言えるのではないかと思います。

神社からは特に怨念とかは感じ取れませんでした。近衛文麿もこの気負わない雰囲気が好きだったのではないでしょうか。

2010年12月 8日 (水)

正しい時代劇

十一月三日

 黒澤明の映画を見たら、ちゃんと人買いとか奴隷とか追い剥ぎとかが出ているじゃないか。七人の侍では、話の構成上惣村なのに武装していなかったという抜けはあるけれど、野武士を撃退しているし、ほかの映画を見たら食い詰めて他国に侵攻する百姓とかも出てくるし、ちゃんと正しい時代劇になっている。

 教科書には載っていなかったかもしれないけれど、その頃までは年寄りから聞いた伝承とかで歴史の正しい姿を日本人も知っていたということなんでしょう、

 てことはおそらく八十年代以降の大河ドラマが日本人の歴史理解をおかしくしたんだろうな。

2010年11月22日 (月)

神田明神が江戸の町の守り神なわけ

十月十七日 【小雪】

 近くの古本屋で小学館の「マンガ・人物日本の歴史」が大安売りしていたので買ってきました。

 これ、有名な人物もさることながら悪党とか一揆とか江戸っ子とか庶民の生活を描いた巻に名作が多いんですよね。歴史の勉強を抜きにして物語として秀逸だと思うのです。

 「平将門」を読んでふと思ったのは、徳川幕府が神田明神を江戸の鎮守にしたのは京都の朝廷にプレッシャーをかける意味合いもあったんだろうなと言うことです。初めて朝廷に本格的な反乱を起こしていい線までいった人物を神様として祀っていたと言うことですからね。お前らあんまり無理難題をふっかけるとどうなるか分かっているんだろうなと言う関東の無言の圧力だったのでしょう。

2010年9月 7日 (火)

日本の所有権の発達(九)・・・大名貸し

陰暦 七月二十九日

 手元の資料で数値をチェックしてみます。 「一目でわかる江戸時代」(小学館)によりますと、慶長三年(1598)の全国の石高が1,851万石。正保 二年(1645)が2,455万石。50年間で30%増加。その後は気候の寒冷化によって停滞し、2,500万石前後を推移。天保に再び成長して 3,000万石を突破します。

 江戸開府の頃の総人口は1,200〜1,800万人の間。初めて全国規模の人口調査が行われた享保六年(1721)の町方の人口は2,600万人。その後は2,400〜2,600万人の間を推移しています。このほかに武士が300万人くらいいるので総人口は約3千万人です。

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2010年9月 6日 (月)

日本の所有権の発達(八)・・・商人から税を取り立てる

陰暦 七月二十八日

 仕事やら趣味やらゲームやらで忙しくてブログがお留守になってすみませんでした。

 地面に生える作物や、草原に群がる牛馬と違って、商業活動で得られる富はどれだけ利益が得られたのか外からは計測がしにくい難点があります。さらに土地は権力者によって所有に規制をかけやすいのに対して商業活動は場所を選ばないので規制がしにくい面があります。

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2010年8月31日 (火)

日本の所有権の発達(七)・・・太閤検地

陰暦 七月二十二日

 太閤検地の目的は、戦国大名と土豪との間に結ばれた土地の所有関係の確認の契約を解いて、土豪の土地所有権は豊臣政権が保障し、大名をただの行政機関に することにありました。織田信長ー織田家の武将ー土豪という支配関係を全国に広げたのです。大名の仕事は、外征や謀反人の処罰といった中央からの命令によ る軍事行動と産業振興などに限定し、これまでの政治の最大の仕事であった土地の所有権の確認は今の言葉で言えば「民事」として行政は不介入する方針を豊臣 秀吉は徹底しました。

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2010年8月30日 (月)

日本の所有権の発達(六)・・・戦国大名の登場

陰暦 七月二十一日

 どうも前回のエントリーは説明不足だった気がしたので、もうちょっと補足します。荘園制と太閤検地の間には戦国大名による領国制があります。戦国大名によって律令制的土地制度が葬られ、太閤検地によって農民の土地所有権が確立するまでも見ていきましょう。

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2010年5月23日 (日)

三河 松平一族

陰暦 四月十日

 本屋で新書形式の「三河 松平一族」(平野明夫著 洋泉社)という本を見つけて面白そうだからとカウンターへ持っていったら1900円で目の玉が飛び出てしまいました。古い本の復刊で印刷数も少ない小さな会社だかららしいのですが、あんまり直感に反するような商品は作らないで欲しいなと思った次第。

 とはいえ、この本はなかなか面白いです。初代親長が流浪の職人だったこと(まあこれは松平氏の伝説を知っている人にはだいたい想像がつくことですが)、元々松平氏は武家ではなく流通業者に近い家で最初の百年くらいは戦いではなくて買い取りで所有地を増やしていったらしいこと、足利将軍の執事である伊勢氏の被官であったことなどがあります。三代目の信光まで読んだところです。

 伊勢氏というと後北条氏もその一派ですから、後年家康が北条氏と同盟を結んだことは草創期の松平氏が北条氏と関係が深かった名残なのかもしれません。それと、伊勢氏と今川氏は微妙な関係にあって、伊勢氏は今川氏や吉良氏などの守護の力を削ぐために三河の土豪に反乱を起こさせたりしていますし、後北条と今川も長い間緊張状態が続いていました。だとすると、本来三河というのは反今川の感情がある場所で、今川義元の代に三河に今川氏が進出して竹千代(家康)が人質に取られたことも、従来説明されていたように松平氏が今川方だったからではなく、今川氏が三河の土豪を全く信用しておらず、弾圧政策だったのかもしれないと思いました。竹千代が織田方に誘拐されたのも松平氏の本意が反今川だったからかもしれません。桶狭間で義元が呆気なく討たれたこととその後の今川が奮わなかったことは、三河にあった反今川の風潮を考慮に入れた方がよいのかもしれません。

 また、この本によると奥三河には「伊賀村」という集落があって松平氏とも関係があるようです。家康は伊賀の忍びと繋がりが深いといわれているのですが、これは家康が上方に侵出するようになってからなってからできた一朝一夕の繋がりではなく、相当に長い繋がりなのかもしれません。

 中世後期に出てきた侍身分、あるいは土豪が発展し戦国大名になっていったモデルケースを詳述した本でもあります。

2010年1月10日 (日)

桓武平氏の内訌

陰暦 十一月二十六日

 立川の古本市で仕入れた「相模三浦一族」(奥富敬之著、新人物往来社刊)を読んでいたら面白いことが分かりました。ものすごく基本的なことなんですが・・・

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