宗任神社(2)
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宗任神社が下妻に建てられた理由その一は、松本氏と奥州藤原氏が同族であったことです。
人物叢書の「奥州藤原氏四代」(高橋富雄)によると、前九年の役を記した「陸奥話記」で、陸奥守源頼義が藤原経清を「源家累代の家臣」と呼んでおり、経清の父祖が源氏と主従関係を結んでいた時期があることがわかります。
尊卑文脈には藤原経清は秀郷流藤原氏で、父は藤原頼遠で下総国の住人とあります。藤原秀衡を秀郷流とする記述は吾妻鏡にも見えます。高橋氏は平忠常の乱(1028~31)を契機にして、藤原頼遠は源頼義の配下に入ったのではないかと推測しています。
茨城県の鬼怒川以西はかつては下総国でした。宗任神社がある豊田郷は鬼怒川の東にありますが、川からは数㎞しか離れていません。当時は鬼怒川の支流が縦横に走っていましたので厳密な国境は無かったでしょう。藤原頼遠が下総国の住民で、下妻の辺りに住んでいた可能性もあるでしょう。
宗任神社の縁起によると、松本氏がこの地にたどり着いた経緯はこうです。
天仁二年(1109)、安部氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により、旧臣二十余名とともに宗任公着用の甲冑の青龍と遺物を奉じて、奥羽の鳥海山のふもとから、当地(旧黒巣の里)来住して鎮祭した。
鎮座するにあたって宗任公の霊は「天道・人道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人は健やかに、地は栄えるようになるであろう」と告げたので、以来この地は宗道の地となった。
宗道には宗任の首塚と称されるものもあります。しかし安部宗任は西国に流されて七十歳で亡くなっていますので、この地に首塚があるのは不思議です。しかし1109年は宗任の亡くなった時期に近いです。
まず、秀郷流の根拠地は関東、しかも常陸や下妻の辺りでしたので、松本氏がそのつてを頼って下妻に落ち延びた可能性は高いのではないでしょうか。
後三年の役が終わり、源義家が陸奥守を解任されたのが寛治元年(1087)です。嘉保三年(1096)には源義家が朝廷に年貢を未進した記事があり、源義家は破産しています。この後しばらく多田源氏は落ち目になります。それに反して、安部宗任の甥にあたる藤原清衡は、奥州安部氏の後継者として奥六郡を掌握し、さらに後三年の役で清原氏の仙北三郡も掌握して、陸奥国の覇者になりました。
宗任神社ができたのが1109年ですので、奥州藤原氏が盤石となって、安部氏の縁者が復権できたのがその頃なのかもしれません。
藤原清衡は、子息の基衡の妻に安部宗任の娘を迎えます。奥州安部氏の後継者としての地位を固めるためでしょう。秀衡が生まれたのが1122年ですので、宗任の娘が平泉に入ったのはちょうど1109年頃です。この頃清衡は盛んに摂関家に貢物をしています。もちろん官位をもらって立場を固めるためですが、安部氏の縁者の恩赦も頼んだのかもしれません。
私は源氏が失脚した1090年頃に安部宗任は西国から関東に入り、その時に生まれた娘が基衡の妻になったのではないかと思うのです。だから宗任の墓が下妻にあるのではないでしょうか。藤原清衡の父祖の地である下妻に宗任を匿ったのではないでしょうか。それによって奥州の武士の心をつかんだと言ったらどうでしょうか。
基衡と宗任の娘の間に生まれたのが藤原秀衡です。ですから秀衡は安部宗任の孫なのです。
次回は下妻に残る古代の信仰の痕跡です。
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