レコンキスタ
mixiで中世キリスト教のことを議論していて、レコンキスタについて面白いことに気がつきました。
mixiで中世キリスト教のことを議論していて、レコンキスタについて面白いことに気がつきました。
簡兮は衛救援の連合軍を指揮する覇者桓公の詩です。第四聯に歌われている「西方美人」は桓公の姉もしくは妹に当たる衛の宣姜です。
斉の桓公の母は衛の公女です。衛の物語の影の主役、宣姜は斉の僖公の娘です。つまり桓公と宣姜は姉弟です。斉と衛は従兄妹同士が結婚して、通婚を重ねています。従って、宣姜の母も衛の公女、つまり桓公と宣姜は同母姉弟である可能性が高いです。
地山兼で「兼」という文字が「横取りする」という意味を持つことがわかりました。となると面白いことに気がつきます。
十二月十七日【大寒】
網野善彦先生の「日本の歴史を読み直す」を読んでいます。網野先生の史観が分かりやすく説明されていてとても面白いです。
多分学生時代に叩き込まれた唯物史観の影響なんだろうと思いますが、どうも網野先生の頭の中では原始社会が一神教によって解消されて、やがて市民革命が起きて身分がなくなるのがあるべき姿で、日本はまだ遅れている云々と言う私見が所々に出てくるのが多少鼻につきますが、所々おまけのように出てくるそれをのぞけば、よけいな価値判断の全くない実証的な研究成果の紹介が続きます。
陰暦 七月十四日 【処暑】
以上のことから私は古代日本では財産は母系で継承し、社会的地位は父系で継承されていたのではないかと考えています。
陰暦 七月十三日
一番わかりやすいのが有名な中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)で、中大兄皇子は葛城皇子、河内皇子という別名を持っていて、子供にも河内 の地名を関した名前の人たちがいて、河内から飛鳥にかけて基盤を持っていたと推測されています。このあたりは帰化人の痕跡も多く、中大兄皇子は百済救援の 大遠征を行ったり、百済の亡命者を大量に受け入れたりと、朝鮮半島と関わりの深い人物でした。
陰暦 七月十二日
古代の社会は母系制であったとは良く聞かれる言説です。なるほど、日本でも支那でも東洋の国の王朝史を見ていると、妃の実家の発言力がとても強く、時代を遡れば遡るほどその傾向は強くなります。
本来の均田制は収税単位は個人で、個人に土地が配分されて、その個人が年貢を払います。ですが、個人の力量を無視した一律の税率では実態にそぐわないために裕福になる人と困窮する人が生じてくる上に、災害や疫病などで農村が荒廃してくると、決まり通りに土地を配分することが不可能になり、担税能力を持つ生産力がある農民が、複数の土地の経営を請け負って税金を納めるようになります。
大げさなタイトルですが、着想を整理するための備忘録です。
十年位前から中世日本史のキーである「荘園制」のことを知りたくていろいろと本を読んだり、各地の資料館を訪れた際にもその時代について注意して調べたりしています。けれども荘園制と言うのは、律令制度とか明治になってからの近代化のように,何らかの理念があってそこから体系的に作り出された制度ではなく、手直しや現状追認の集積みたいなものですので、これといった教科書もなく、ここの事例を各自が学んでいって全体像を把握するしかないらしいというのがわかったのが数年前でした。
陰暦 十二月十日
平安時代の天皇家と摂関家の中で長命の家系を系図にまとめました。
外祖父なんてものになるためには長生きしなければなりません。それに古代の官位は年功序列で上がっていくし、大抜擢等というものは滅多になかったので、出世するためには長生きをするのが一番の作戦でした。
孫を天皇にするためには、娘を皇后にしなければなりません。皇族か準皇族でなければなかなか皇后にはなれません。道長は宇多源氏と醍醐源氏(準皇族)から妻を迎えており、しかも両方とも長寿の家系です。
3は個人の努力で多少なんとかなるとして、1と2は努力ではどうにもなりません。道長は1〜3を全て兼ね備えていましたので、必然的に出世する目があったといえます。もしも後期で長生きの妻を意識して選んでいたのだとすると、道長は王朝政治の本質を非常に良く理解していたと言うことになると思います。
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