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2021年4月22日 (木)

宗任神社(2)

ダウンロード -奥州安部・藤原・清原氏系図 abekeizu.pdf

 

宗任神社が下妻に建てられた理由その一は、松本氏と奥州藤原氏が同族であったことです。

人物叢書の「奥州藤原氏四代」(高橋富雄)によると、前九年の役を記した「陸奥話記」で、陸奥守源頼義が藤原経清を「源家累代の家臣」と呼んでおり、経清の父祖が源氏と主従関係を結んでいた時期があることがわかります。

尊卑文脈には藤原経清は秀郷流藤原氏で、父は藤原頼遠で下総国の住人とあります。藤原秀衡を秀郷流とする記述は吾妻鏡にも見えます。高橋氏は平忠常の乱(1028~31)を契機にして、藤原頼遠は源頼義の配下に入ったのではないかと推測しています。

茨城県の鬼怒川以西はかつては下総国でした。宗任神社がある豊田郷は鬼怒川の東にありますが、川からは数㎞しか離れていません。当時は鬼怒川の支流が縦横に走っていましたので厳密な国境は無かったでしょう。藤原頼遠が下総国の住民で、下妻の辺りに住んでいた可能性もあるでしょう。

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宗任神社の縁起によると、松本氏がこの地にたどり着いた経緯はこうです。

天仁二年(1109)、安部氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により、旧臣二十余名とともに宗任公着用の甲冑の青龍と遺物を奉じて、奥羽の鳥海山のふもとから、当地(旧黒巣の里)来住して鎮祭した。

鎮座するにあたって宗任公の霊は「天道・人道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人は健やかに、地は栄えるようになるであろう」と告げたので、以来この地は宗道の地となった。

宗道には宗任の首塚と称されるものもあります。しかし安部宗任は西国に流されて七十歳で亡くなっていますので、この地に首塚があるのは不思議です。しかし1109年は宗任の亡くなった時期に近いです。

 

まず、秀郷流の根拠地は関東、しかも常陸や下妻の辺りでしたので、松本氏がそのつてを頼って下妻に落ち延びた可能性は高いのではないでしょうか。

 

後三年の役が終わり、源義家が陸奥守を解任されたのが寛治元年(1087)です。嘉保三年(1096)には源義家が朝廷に年貢を未進した記事があり、源義家は破産しています。この後しばらく多田源氏は落ち目になります。それに反して、安部宗任の甥にあたる藤原清衡は、奥州安部氏の後継者として奥六郡を掌握し、さらに後三年の役で清原氏の仙北三郡も掌握して、陸奥国の覇者になりました。

宗任神社ができたのが1109年ですので、奥州藤原氏が盤石となって、安部氏の縁者が復権できたのがその頃なのかもしれません。

藤原清衡は、子息の基衡の妻に安部宗任の娘を迎えます。奥州安部氏の後継者としての地位を固めるためでしょう。秀衡が生まれたのが1122年ですので、宗任の娘が平泉に入ったのはちょうど1109年頃です。この頃清衡は盛んに摂関家に貢物をしています。もちろん官位をもらって立場を固めるためですが、安部氏の縁者の恩赦も頼んだのかもしれません。

私は源氏が失脚した1090年頃に安部宗任は西国から関東に入り、その時に生まれた娘が基衡の妻になったのではないかと思うのです。だから宗任の墓が下妻にあるのではないでしょうか。藤原清衡の父祖の地である下妻に宗任を匿ったのではないでしょうか。それによって奥州の武士の心をつかんだと言ったらどうでしょうか。

基衡と宗任の娘の間に生まれたのが藤原秀衡です。ですから秀衡は安部宗任の孫なのです。

 

次回は下妻に残る古代の信仰の痕跡です。

2021年4月19日 (月)

宗任神社(1)

茨城県下妻市の宗任神社(むねとうじんじゃ)へお参りしてきました。御祭神は安部宗任。

 

ダウンロード -奥州安部・清原・藤原氏系図 abekeizu.pdf

 

安部宗任とは前九年の役(1051-1062)で陸奥守源頼義・義家に敗北した奥州安部一族です。奥州安倍氏は奥六郡(今の岩手県)の支配していました。鎮守府(京都の朝廷の出先機関)と融和的であったのですが、源頼義と対立し、十数年にわたる戦いの末に敗れます。

前九年の役の際の奥州安倍氏の当主は安部頼時、戦いで先頭に立って奮戦したのは長男の安部貞任でした。安部貞任は大河ドラマの「炎立つ」で村田雄浩さんが熱演されていたので覚えている方もいるかもしれません。

しかし、奥州安部氏の嫡男は三男の安部宗任だったと言われています。それは宗任の母が仙北三郡(秋田県)の長である清原氏の出身だったからです。鳥海の柵を任されていた安部宗任は途中で源氏に降伏し、筑前国宗像に流されました。連行された京都で梅の花を見せられて、見事な歌を詠んで都人を驚かせたと言われています。

 

安部宗任の家臣松本秀則と秀元は、源氏の追っ手を振り切って逃げて、会津から鬼怒川を下って下妻の豊田に流れ着いて住みつきました。そしてその地にかつての主君を偲んで宗任神社を建てたとされています。

神社の由来では神のお告げでたどり着いたことになっていますが、松本氏がこの地に土着したのは二つの理由から必然でした。それをまず松本氏と奥州藤原氏の関係、そして下妻に残る古代の信仰の痕跡から解明していきましょう。

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宗任神社参道

2013年5月25日 (土)

レコンキスタ

 mixiで中世キリスト教のことを議論していて、レコンキスタについて面白いことに気がつきました。

 レコンキスタは8世紀初頭に始まり、約800年間にわたって展開された、イベリア半島からのムスリム駆逐運動です。7世紀に誕生したイスラム教は急激に信徒を伸ばし、イスラム帝国は周辺諸国を侵略していきます。
 
 ムハンマドが啓示を受けてから100年ほどで北アフリカはすっかりイスラム帝国の版図となり、ウマイヤ朝はジブラルタル半島を越えてイベリア半島に攻め込み、今のポルトガルとスペインのほとんどは、イスラム帝国の支配下に入ってしまいました。

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2012年11月 3日 (土)

詩経勝手読み(六十)・・・簡兮

 簡兮は衛救援の連合軍を指揮する覇者桓公の詩です。第四聯に歌われている「西方美人」は桓公の姉もしくは妹に当たる衛の宣姜です。

 斉の桓公の母は衛の公女です。衛の物語の影の主役、宣姜は斉の僖公の娘です。つまり桓公と宣姜は姉弟です。斉と衛は従兄妹同士が結婚して、通婚を重ねています。従って、宣姜の母も衛の公女、つまり桓公と宣姜は同母姉弟である可能性が高いです。

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2011年5月21日 (土)

摂関政治全盛期の藤原氏の諱と菅原道真の失脚

 地山兼で「兼」という文字が「横取りする」という意味を持つことがわかりました。となると面白いことに気がつきます。

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2011年1月20日 (木)

網野史観

十二月十七日【大寒】

 網野善彦先生の「日本の歴史を読み直す」を読んでいます。網野先生の史観が分かりやすく説明されていてとても面白いです。

 多分学生時代に叩き込まれた唯物史観の影響なんだろうと思いますが、どうも網野先生の頭の中では原始社会が一神教によって解消されて、やがて市民革命が起きて身分がなくなるのがあるべき姿で、日本はまだ遅れている云々と言う私見が所々に出てくるのが多少鼻につきますが、所々おまけのように出てくるそれをのぞけば、よけいな価値判断の全くない実証的な研究成果の紹介が続きます。

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2010年8月23日 (月)

日本の所有権の発達(五)・・・母系と父系のハーモニー・下

陰暦 七月十四日 【処暑】

 以上のことから私は古代日本では財産は母系で継承し、社会的地位は父系で継承されていたのではないかと考えています。

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2010年8月22日 (日)

日本の所有権の発達(四)・・・母系と父系のハーモニー・中

陰暦 七月十三日

 一番わかりやすいのが有名な中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)で、中大兄皇子は葛城皇子、河内皇子という別名を持っていて、子供にも河内 の地名を関した名前の人たちがいて、河内から飛鳥にかけて基盤を持っていたと推測されています。このあたりは帰化人の痕跡も多く、中大兄皇子は百済救援の 大遠征を行ったり、百済の亡命者を大量に受け入れたりと、朝鮮半島と関わりの深い人物でした。

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2010年8月21日 (土)

日本の所有権の発達について(三)・・・母系と父系のハーモニー・上

陰暦 七月十二日

 古代の社会は母系制であったとは良く聞かれる言説です。なるほど、日本でも支那でも東洋の国の王朝史を見ていると、妃の実家の発言力がとても強く、時代を遡れば遡るほどその傾向は強くなります。

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2010年8月14日 (土)

日本の所有権の発達について(二)・・・「名」とは

 本来の均田制は収税単位は個人で、個人に土地が配分されて、その個人が年貢を払います。ですが、個人の力量を無視した一律の税率では実態にそぐわないために裕福になる人と困窮する人が生じてくる上に、災害や疫病などで農村が荒廃してくると、決まり通りに土地を配分することが不可能になり、担税能力を持つ生産力がある農民が、複数の土地の経営を請け負って税金を納めるようになります。

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