麗しの皇妃エリザベト
陰暦 九月四日
古本屋で見つけた「麗しの皇妃エリザベト」を読んでいます。エリザベト(エリザベータ、エリザベス、イザベル、エカチェリーナ)という名前の有名な王族 は何人かいるのですが、この本は19世紀後半のオーストリア・ハンガリア二重帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザベトについてです。
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陰暦 九月四日
古本屋で見つけた「麗しの皇妃エリザベト」を読んでいます。エリザベト(エリザベータ、エリザベス、イザベル、エカチェリーナ)という名前の有名な王族 は何人かいるのですが、この本は19世紀後半のオーストリア・ハンガリア二重帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザベトについてです。
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ふと思ったんだが、戦前の歴史の研究がいまいち本質に踏み込めないのは、対華二十一箇条をつきつけて大陸進出の足がかりをつけたのが早稲田大学の 創設者の大隈重信であえり、ついでにいうと日銀が外から来た高橋是清を追い出して、生え抜きが進めた政策がデフレ不況を招来し、結局高橋是清に尻拭いを頼 まざるを得なかったこの二つが何となく後々まで学者や銀行家のトラウマになっているような気がした。
脱亜入欧にしたって最初に言い始めたのは慶応の福沢諭吉で、彼は李朝の壮士を匿ったりしています、福沢は朝鮮進出に大いに関わっているんですね。 福沢が三浦梧楼らと一緒になって進めた朝鮮政策をぬきに日清戦争を語ろうとするから、歴史が分かりにくくなるのです。大陸進出というのは元々軍ではなくて 在野の学者とか新聞人が言い始めたことなんです。
原敬や高橋是清を評価すると、どうしても大隈や福沢が民衆を煽動していたことや日銀の生え抜きが経済運営に失敗したことを表に出さざるを得ない。学者達はこれが嫌なんではないか?
また、やたらと審議会を濫立させて学者を取り込んで政治を進める手法を生み出したのは近衛文麿です。ですので近衛文麿は学者受けが非常に良かった。日本の近代史において、学者というのはろくな影響を与えていないんです。
昭和金融恐慌と財閥の肥大化において三田閥が果たした役割と国家総動員態勢作りにおいて帝大閥が果たした役割はもっと研究されて然るべきです。
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陰暦 四月十五日 【望】
古本屋で見つけた松浦行真著の「非命の宰相」を読んでいるのだがこれが滅法面白い。
原敬と高橋是清と近衛文麿の伝記なのだが、この三人についてはなぜか戦後の学者先生はあまり触れてくれないため、適当な伝記がない。当時の学界とかメディアが政党政治をさんざんこき下ろしていて、その御本尊である原や高橋を今さら褒めるわけにもいかないのと、戦前の日本は暗黒時代で民主主義なんかなかったという自説にヒビが入るからなんだろうと思う。学者なんて当てにならないもんだ。
まあ原敬についてはちらほら研究が出てきたが高橋是清はまだない。大きな政府の分が悪かったからだろうが、これからは高橋是清も評価が変わるだろう。近衛文麿についてはまだ読んでいないから分からない。
それにしても高橋是清の人生の上がり下がりの激しさは大した物である。騙されて奴隷として米国に売り飛ばされた思えば、開成学校の英語教師、しかし芸伎に狂って果てはポン引き、とてもじゃないが大蔵大臣や日銀総裁になれるような経歴ではない。明治という時代が戦国時代並みにシャッフルの激しい時代だったことが窺える。
それとこの三人には共通の要素があって、揃いも揃って芸伎にもてたらしい。戦前の政治史を知る上で、芸者遊びは一つのキーであるのだが、何が面白いのかさっぱり分からない。知り合いに京都の祇園に遊びに行った人の話を聞いたことがあるが、本人もよく分からないといっていた。
最終到達点が"あれ"であるのは分かるけれども、そこにたどり着くまでなぜあそこまで頑張るのかがよく分からない。思うに今の水商売の女性は芸者も含めて、客を楽しませるための技術が不足しているんではないかと思う。今の歓楽街で繰り広げられているのは戦前の"遊び"の劣化コピーであって、本物を今の水商売から類推するのは間違いなのではなかろうか。
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陰暦 四月九日 【憲法記念日】
オランダ独立の父にして現オランダ王家の祖である「オラニエ公ウィレム」の伝記に感動しました。特にレイデンの攻防戦の下りは涙が出てきそうになりまし た。
徳川家康はおそらく、豊後臼杵に漂流し、徳川家康の外交顧問となったオランダ人ヤン・ヨーステンからオラニエ公の事績を聞いていたと思うのですが、だとしたら、オラ ンダが置かれている立場、スペインの実態、イングランドやフランスの立ち位置等、当時の欧州の情勢がたちどころに理解ができたのではなかろうかと思いま す。
なんでかというと、オラニエ公というのは個性も立場も独立運動で果たした役割も非常に足利尊氏と似ているからです。本来後醍醐天皇の忠実な臣下であったはずの足利尊氏が、後醍醐天皇とその近臣の現実を無視した政策によって、武士達から期待を 一身に集めていき、朝廷に反旗を翻すことを余儀なくされるまでの筋書きは、南朝を旧教国、北 朝を新教国に当てはめて、スペイン王フェリペ二世のネーデルランドの現実を無視した旧教押しつけ政策に よって、本来ハプスブルグ家最良の家臣となるはずであったオラニエ公を反乱軍の指導者に押し上げていくまでの話に瓜二つです。
徳川幕府は、オランダ独立戦争を太平記に照らし合わせて、欧州情勢を理解したのではないか?そのように考えたくなりました。
時間があれば、詳しい解説を書きます。
ちなみに日本はオランダが正式な独立国として欧州全体から認められた1648年よりもずっと前から国交を結んでいる国です。ナポレオン戦争の時も、本国は消滅したのに、長崎の出島にはオランダ国旗がはためいていました。オランダも植民地を取られたなんてケチなことばかりにこだわらずに、こういった歴史をきちんと自国民に教えてもらいたいものです。
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陰暦 三月十二日 【法然上人誕生会】
つまらない疑問です。第二次世界大戦の本を読んでいると、昭和二十年四月に急にルーズベルトが死んだ話が出てきます。あれほどの歴史を動かした大人物の死だというのに、どういうなくなり方をしたのか、何か言い残したことはなかったのかが全然語られることがありません。
東條とヒトラーの首を墓前に捧げろとか、三年間喪を秘するべしとか言わなかったのでしょうか。
あるいは逸話を残すような暇もなく、急死してしまったのかもしれません。
しかしルーズベルトは重病人でしたので、前もってなんらかの遺言を残していたのではないかと思うのですが、それが語られることはありません。不思議です。
だれか歴史家が調べて解明してくれないだろうかと思っています。なんか隠しているだろうとかそう言う意味ではなく、あれほどの大物がどのように死んだのか、それを知りたいという純粋に知的な興味です。
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陰暦 十一月廿四日 【冬至】【納めの大師】
「日本人の目から見たチベット通史」によると、チベットは大まかに言って東西二大勢力に別れていて、東側の前蔵がダライ・ラマを奉じ、西側の後蔵がパンチェン・ラマを奉じているそうです。
外交方針は八百年前の元の時代から伝統的に、前蔵が独立志向が強くて支那とは折り合いが悪く、後蔵は支那と協力しようという傾向が強いようです。そしてモンゴル・支那・インド(英国)それぞれの力関係に会わせて、ダライ・ラマとパンチェン・ラマが交代して政権を握るという方法で生き残りを図ってきたいらしいです。
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陰暦 十一月十六日【望】
先週録画しておいた「男装の麗人」を視聴した。近頃のテレビドラマとしては非常に力が入っていた。脚本も良かったし、役者の演技も上手だった、音楽も効果的であった。テレビ局もやればできるではないか。
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世界史の用語に「価格革命」というものがあります。16世紀から17世紀前半にかけて、世界中で継続的に銀の価格が下落(商品価格が上昇)した現象です。原因は、南米で発見されが銀鉱山と日本の石見銀山から大量の銀が世界中に流出したからです。
産出元の南米は無尽蔵の銀で安く本国のスペイン・ポルトガルから生活用品を手に入れることができました。やがてイベリア半島で銀が十分に行き渡って、価 格差の旨味がなくなると、スペイン人はイタリアやドイツといったまだ銀が高値で取引される地域で物を買うようになります。
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陰暦 十月廿一日
「ヒトラーが恐れた男」レオポルド・トレッペル著、堀内一郎訳 三笠書房 を読んでいます。1939年から42年にかけてドイツとその占領地でスパイ網「赤いオーケストラ」を組織して枢軸国の国家機密を次々とソ連にリークしてドイツを震撼させたスパイの自伝です。
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陰暦 七月廿四日 【地蔵盆】【秩父四萬部寺大施食会】
昨日の夜からまた熱が出て今日の午前中まで死ぬ思いをしました。このような風邪は二年ぶりです。二時頃には痰も切れ、熱も引いてきました。固い食べ物を口にできるようになりました、なんとか明日は会社へ行くことができそうです。
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陰暦 四月十四日 【浅草三社祭】
「重臣達の昭和史」勝田龍夫著 文藝春秋 を読んでいます。
あのひどい時代に西園寺公や原田熊男のような立派な人もいたことに少しほっとしましたが、それにしても当時の日本の指導者の無責任ぶりには呆れてしまいました。良いことをやった人から順に暗殺されてしまったので、権力者が萎縮してしまったのは仕方がないとはいうものの、それにしても情けない。
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陰暦 一月廿六日
古本屋で「若き将軍の朝鮮戦争」(白善燁、草思社)をみつけました。朝鮮戦争で勇名を馳せた韓国の将軍の半生を口述筆記した本です。細かい地名とか兵器のことは全然分かりませんが、軍隊というのは大変に大きな組織で、ちょっと動くだけで、準備が大変でそう簡単にはいかないのだなと言うことが分かりました。なるほどだから軍隊というのは四六時中訓練をしているのか。
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陰暦 十二月三日
リッペンドロップの伝記(「ヒトラーの外交官ーリッペンドロップは、なぜ悪魔に仕えたか」ジョン・ワイツ著、久保田誠一訳 サイマル出版会)を読んでいたら、オーストリア併合の下りで映画「サウンド・オブ・ミュージック」に関連する話が不意に出てきました。
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10月26日(金)
陰暦 九月十六日 【宮崎神宮例祭】
「アジアの海の大英帝国」横井勝彦著 講談社学術文庫 を読みました。英国がどのようにして海洋支配を築いていったかを追った本です。そこにでてくる"海軍"というものは私達がイメージしている"軍隊"とはだいぶ様子が違います。
一言で言ってしまうと、海軍は商船の護衛部隊を出発点としています。
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【国際赤十字デー】
陰暦 三月廿二日
フランスでサルコジ氏が大統領に当選しました。主要国では初めての"戦後生まれの大統領"だそうです。日本だけでなく、世界中で政治家の若返りが進んでいます。
日本のマスコミはサルコジ氏について偏った情報しか伝えていません。彼はハンガリー難民とユダヤ人の混血です。彼が非難しているのは、移民先の社会に馴染まずに破壊的な行動をする"不逞移民"であって、決して人種差別をしているわけではありません。生粋のフランス人が移民を迫害しているのとはわけが違うのです。逆にそのようなバックグランドを持っているからこそ、移民に遠慮ない物言いができるのだと言えるでしょう。
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日本近代史最大の謎が解けました。
"昭和天皇"とはいったい何であったのか、不思議です。立憲君主であったようで、専制君主への未練も口にしていますし、「四方のうちみなはらから」とか言っておきながら、戦闘に勝ったら至極満悦だったりします。何を考えているのかよく分かりません。振り回された人も多いです。
全てを解明する真実に気がつきました。そう、昭和天皇は日本史上最大の「ツンデレ」であったのです。
立憲君主というのは、かいつまんで言うと「わたし(君主)はそんなことしたくないんだけど、あなた(国民)が望むのならやってあげる」というツンデレを機関化したものですが、模範的立憲君主を目指した昭和天皇は、鍛錬の甲斐あって史上最強のツンデレと化したのです。
ツンデレは自分の本心を見破られたらお仕舞いです。ツンデレが言い寄る男(この場合政治家や軍人や高官)をはね除けて「みんな(国民)のわたし(天皇)」であり続けるためには、自分の本心を隠さなければなりません。かくして、自分がして欲しいことをやってくれた政治家を冷たくあしらったり、無能だけど逆らわないヘタレ軍人を下僕として重用したりしたのです。
末期の大日本帝国は、ツンデレサークルクラッシャーに振り回されて、崩壊した文化系サークルだったのだ!な、なんだってーΩΩ Ω
ツンデレ・ロリコンは日本人の弱点ですので、ツンデレが受肉した昭和天皇が今なお我々の魂を揺さぶるのは当然であるのです。
孝明天皇も日本史上一二を争うツンデレでしたが、ストーカーの水戸藩と長州藩に嫌気がさし、身も心もイケメン松平容保の「デレ」になった瞬間に、振られた喪男ストーカー長州藩の逆恨みを買ってパトロンの徳川幕府を滅ぼす羽目に陥りました。長州藩は喪男なので天皇を密室に閉じこめて愛でることにしました。しかし閉じこめていたつもりが、いつの間にかストーカーの方が下僕に成り下がっていたのです。
嗚呼恐るべし天皇のツンデレパワー。やっぱり女帝は駄目です。これで本当に天皇が若くて可愛い女の子だった日にゃぁ、憲法なんて役に立たないでしょう、大乱が起きること間違いなし。
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わたくし、茨城県出身ながら徳川慶喜という人が今までどうにも理解ができませんでした。今日「幕末閣僚伝」という本を読んでやっと分かりました、
徳川慶喜は文久二年(1862)七月六日に将軍後見職に任命され、翌文久三年一月に入京して朝廷との折衝役を務めます。そして慶応四年(1868)一月に大坂を退去するまでの五年半が彼の公的な活動期間です。慶喜の仕事は京都で将軍の名代として働くことでした。
しかし、江戸からは水戸・長州・薩摩と結託して幕府を転覆するつもりなのではないかと疑われ、朝廷や長州からは幕府が尊攘派を懐柔するために送り込んだスパイと疑われ身動きが取れなくなりました。さらに、慶喜には覇気がなかったので、承久の乱における北条泰時のように幕府の先兵となって薩長を討ち滅ぼして幕府を復興することも、足利尊氏のように朝廷に寝返って幕府を倒すこともできず、京都と江戸の板挟みになって保身するに終始してしまいました。
優秀ではあったけれど、人の上に立つ人間ではなかったのでしょう。ただし人死にを最小限に食い止めたのだけは評価できるかもしれません。理解はできましたが、やはり尊敬できるような人間ではありませんでした。
私は慶喜なんかよりも徳川家茂の方がよっぽど偉いと思っています。それと和宮。それに家茂が生きていれば、明治天皇の叔父に当たりますから、徳川幕府があんな潰され方をされるはずはなかったでしょう。
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陰暦 閏七月廿三日 石清水八幡宮祭
村田清風は人材育成に心を砕きました。偉くなってからも、一丁声(一丁先にも届くばかでかい声)で若者を叱咤激励し続けました。
「病翁の宇和言(うわごと)」には「國に人無し人なしと申し候へども、私は更に合点が参らず候。東西五百里南北百里の、この蜻蜒州(日本)に、天地よりその國を治むる程の人を産せずということは、これあるまじくと考へ候。加藤清正は鍛冶屋の子、福島正則は桶大工の子、小西行長は薬屋の息子達、唯人の才能を見て活用するにあるべし。」人材がいないのではない、人材発掘をしていないのだ、育てていないのだというのです。
まず天保十一年(1840)に文学興隆令を発令し、身分にかかわらず、有為の才を学校に入れるべきであると、勧学奨励を進めました。つづいて江戸在藩の士の師弟のために櫻田邸内に文学修養所を設立します。
天保十二年(1842)に、藩主毛利敬親は明倫館拡充の大施策を発表します。国家老益田元宣を学校惣奉行とし、村田清風を明倫館重建手元役とし、嘉永二年(1849)に竣工をみました。聖廟、講堂、学校御殿、剣術、槍術、礼式、天文、算数、兵学、写術、水練池、練兵場と師と学生を収容する学舎をそろえた国内五指に入る堂々たる学館が整備されたのでした。テキストの改定も進められます。これは清風の死後に実現しました。
清風は引退してからも、三隅の邸宅で近所の師弟に学問をつけました。
もう一つ、清風の人材育成として忘れてはならないのは吉田松陰との関わりです。ここには私の推測も入るのですが、長州藩は学問の興隆を図るために、俊英吉田虎之助(寅次郎・松蔭)をアイドルとして演出します。11歳の時に藩主敬親に山鹿流軍学を講義し、鮮烈なデビューを飾らせます。それ以後も平戸や江戸などへの遊学を援助、佐久間象山に弟子入りさせるなど、寅次郎の学問を藩で全面的にバックアップしました。
学問をすれば出世ができる、長州藩には若くして日本一の大学者と肩を並べる俊才がいる、ということで長州藩を元気にする意味合いがあったと考えられます。寅次郎は藩の期待に良く応えました、それどころか長州藩を超えて日本全国を動かす大人物に寅次郎は育っていくのです。
村田清風と吉田松陰の間には数通の書簡といくつかのエピソードがあるのですが、私が一番好きなのは、松蔭が密航に失敗して幕府に捕らわれた時に清風が松蔭に「はやる気持ちは分かるが命を大切にしなさい」という手紙を送った話です。
幕末の長州藩というと、身の危険を顧みずに次々と若者達が命を落としていき、見ている方はやりきれません、松蔭は私が先に死んで模範を示す、みたいなことすら言っています。どうもこの死を軽んずる風に私は付いていけません。そんな中、松蔭の身の心配をした清風の優しさに触れるとほっとさせられます。このエピソードを知ったのが、私が長州藩を見直すことになったきっかけでした。
松蔭は野山獄で清風の死を知らされ、追悼の詩「前の参政、村田翁を挽す」を作りました。その率直な悲しみの言葉に、松蔭にとって清風がいかに大きな存在であったかを感じないではいられません。
それでは最後に清風の気概に触れて、村田清風のシリーズを終わりにさせたいと思います。
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陰暦 閏七月六日
長州は三方を海に囲まれています。村田清風は迫り来る西洋列強の圧力をひしひしと感じていました。
しかし交易が盛んで当時としては開明的ともいえる藩風を持った長州藩であっても、やはり長い泰平の時に馴れ、蛸壺的なお国自慢に流れて進取の心、そして尚武の気風を失っていたのでした。清風にはそれが歯痒く感じられました。「村田清風入門」から清風が説いた「四峠の論」を抜き出します。
「萩というところはな、おぬし達も知ってのとおり、海に向かって開けているものの、三方山に囲まれている。これは、山からの外敵を防ぎ、海からの侵略を水際に於いて打ち破るには都合がよいが、残念ながら人の行き来を阻み、文化の流入まで妨げてしまうのじゃ」
「此処から出ようとすれば、城下を取り巻く四つの峠を越えねばならぬ」
「時勢の進歩に後れぬ為には、この自然の防塞の中で眠りを貪り慢心していてはだめじゃ」
隠居してからの清風は、屋根から飛び降りて敵船に飛び移る訓練をしたり、村人をつかまえては外寇が近いことを説いたので「戦爺(いくさじじい)」と呼ばれていたそうです。
と言っても、精神論ばかり唱えていたわけではなく、きちんと長州藩を武士団本来の姿に戻すための改革も進めています。清風にとっては、藩の財政を立て直すのも、一朝事あれば日本のために奉公できる長州藩を作るためでした。
これは近世の凡ての藩政改革に共通することです。いくら近世の藩が国産品を売り捌く総合商社の様相を呈していたとしても、武士団の究極の目的は國を守ることにあります。時代に合わせた改革は必要ですが、本来の目的を忘れた組織というのは、必ず腐るものです。藩政立て直しと兵制改革は必ずセットです。
質に出した武具を買い戻すための資金援助という清風らしい地道な政策で一般武士の装備を調えさせました。天保十二年に幕府が高島秋帆に命じて行ったオランダ兵器製造と洋風軍学による操練に藩士を送って研究させています。そして天保十四年に羽賀台の大操練を成功に導きました。
他にも軍学者の跡取りの吉田寅之助(松蔭)の学問をバックアップさせたのも清風でした(これは次回取り上げます)。甥である山田公章に命じて日本海側の巡検もさせましています。海防僧月性と情報交換をしていました。若き日の横井小楠をやりこめたこともありました。
更に、麻生の長州屋敷に食糧や武器を貯蔵し、江戸の護りに役立てるために準備しておきました。これがペリー来航の時に役立ちます。幕府に沿岸警備を命じられて右往左往する諸藩を尻目に、長州藩は整然と江戸湾警備に就き、「長州藩侮り難し」の評判をとりました。
意見書「海防献芹」では瀬戸内海全域の海防態勢を構築する必要性を説いています。清風の視野は長州藩を飛び出して「日本」を見ていました。
幕末に長州藩が戦闘集団として気炎を吐くことができたのは、清風の兵制改革があったからこそでした。
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陰暦 閏七月三日
中共や韓国との史観を巡る戦いは小泉政権によって決着が付きました。日本は中共の横槍を排除して好きなように自分の国の歴史を著述する態勢ができました。しかしここに来て遊就館の展示を米国が快く思っていないというような声が俄に高まっています。昔はともかく、今の遊就館の展示にははっきり言って反米的な要素はありません。どうやら彼等(米国その物なのか、"米国”を使って勢力を伸ばしたい日本人なのかは不明)が問題にしているのは「遊就館史観」といつのまにか呼ばれるようになった歴史理解その物らしいのです。
面白いことに、彼等が撤去せよ、といってきた展示は東京裁判の受刑者を顕彰したコーナーではなくてルーズベルト政権が経済運営で行き詰まっていたという記述でした。これは一体何を意味しているのでしょうか?
「持てる国と持たざる国」という色分けがそもそも歴史の理解を誤らせる罠であるのです。日独伊が当時の列強の中では貧乏国で持たざる国であったことに異論はありません。当然持たざる国なのですから富を奪おうとするわけです。帝国主義の時代では珍しくもないことです。(戦争中にあったかもしれない残虐行為はこれとは関係ありません)
米国は「持てる国」に分類されています。だから持たざる国の侵略から欧州・支那・東南アジアを守ったという構図が成り立つわけです。しかし当時の米国というのは生産力と資本は世界一でしたが市場については持たざる国でした。英仏のブロック経済構築で困っていたのは米国も同じでした。
また、米英に1930年代から協力関係が成り立っていたというのも現在の彼等の緊密な関係から来る誤解です。米英が信頼関係を持てるようになったのは、英国の弱体化が決定的となり米国の敵ではなくなったのが確定したサッチャー政権以降です。それまでは米英は足を引っ張り合っています。アラブとイスラエルの問題を米国に押しつけたのは英国であり、スエズ動乱では米国は英国を屋根の上に上げてからハシゴを外して見殺しにしていますね。1930年代の米国は、ポンド支配を崩すために英国に経済戦争を仕掛けていました。
米国がナチスを不倶戴天の敵とみなすようになったのは、ドイツ復興のために莫大な投資をしてきたのに、ナチスがそれを踏み倒したからです。そして借金漬けのくせに、基軸通貨ポンドを握っているために、自由にならない英国を忌々しく思っていました。米国からすると、英国とナチスは商道徳を踏みにじる泥棒でした。
結局1930年代の世界で自由貿易を行っていたのは日本と米国だけでした。日本が米国に頼っていたことはみなさまご存じの通りです。鉄・石油・棉などの戦略物資の半分以上を米国から仕入れていました。満洲も支那も消費地であり、大して資源はありませんでした。日本が満洲や支那を侵略しようとしたのは市場を欲したからであり、資源が欲しかったからではありません。
北進論は米国と友好関係を保ちつつ満洲と支那を市場として開拓し、ソ連の極東侵略に備えるという戦略であり、南進論は東南アジアの資源を確保してアメリカと対決するという戦略です。北進論の陣営が東京裁判で醜態を演じてしまい、対する南進論の陣営が占領軍と円滑な関係を樹立したために、北進論が対米戦の犯人であったかのようなねじれた歴史理解が戦後に広まってしまいましたが、それは違います。
日本は米国に頸まで漬かっていましたが、米国も日本に膝まで漬かっていました。1930年代後半の米国の輸出先を調べると鉄も石油も棉も日本が3〜5番目くらいの輸出国で20%くらい売っています。日本は1番ではありませんが、米国の生産物のほとんど全部の2〜3割を買ってくれるお得意様でした。米国としても日本を失うわけにはいかなかったのです。日米の経済一体化は既に1930年代に始まっていました。経済が一体化していた日米が大戦争に突入したのは二十世紀最大の謎かもしれません。多分当時の日本人も米国人も不思議だったでしょう(実際そのような証言は多い)。
つまり1930年代の米国というのは、莫大な資本を抱えていたのに、英仏独の意地悪によって倒産しかけていた"金持ちな持たざる国"です。だから内戦で権力の空白が生じていた支那とナチスの欧州席巻で本国が滅んで力の空白状態となった東南アジアを市場として欲したのです。
ですから当時の日米は実は協力関係になる可能性を持っていました。今までは「軍人が頑なで、戦争の成果を米国と共有することに大反対したから、米国と険悪になったのだ」ということになっていました。当時の日米は今の日米と逆で、日本が血を流し、米国がその成果をモリモリ食べていました。血を流さないで、自由貿易の果実だけ貪る米国への不満が日本にあったのは事実です。しかし陸軍がそれを代表していたという説を丸ごと信じるのは表面的に過ぎるのではないかなと思います。
当時の米国はこのまま中程度の貿易相手国として日本を泳がせておくか、日本が支那を支配することを脅威とみなしてそれを妨害して支那を自分の勢力範囲に取り込むべきかで、意見が割れていたと私は考えています。1930年代の共和党の動向を研究した書物でもあれば疑問を解消できるのですが・・・
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陰暦 七月廿一日
倹約も大事ですが、倹約だけではなかなか財政の好転は望めません。出るを制した次は入りを増やさなければなりません。
長州藩は元々殖産興業に積極的でした。これは司馬作品でも良く触れられている話ですが、毛利家は中国五カ国百五十万石(小早川家などの親藩も入れれば二百万石強!)から関ヶ原の責任を取らされて防長二カ国に押し込められました。そのため毛利家は大リストラの必要に迫られ、多くの武士が農民や商人となり殖産興業に勤めました。
この話は司馬先生の誇張ではなく「毛利重就」「村田清風入門」でも書いてありました。このようないきさつがあるため、長州は武士と町人の間の階級的な行き来が活発でした。武士もあまり商賈に対して偏見を持っていなかったのです。功労として武士が開拓予定地を賜り、新田開発を行ったりしています。
殖産興業は「撫育方」でも触れたように、毛利重就が力を入れていましたが、村田清風も殖産興業の強化を行います。当時の長州の名産品は紙蝋米塩(しろうべえ)と呼ばれていました。楮(こうぞ)から作られる和紙、櫨(はぜ)から作られる蝋、遠浅の海岸を干拓して作った水田で収穫される米、そしてこれもまた瀬戸内海の静かな海で作られる塩です。四つとも白いので歴史学ではこれらの生産強化を「四白政策」と呼んでいます。
楮は藩が金を出して植林が推進されました。櫨の植林も奨励されました。藩士は庭にまで植えることが命じられました。米も藩士にボーナスとして荒れ地の開拓権を与える形で開拓を奨励しました。ただしこれは半ば成功半ば失敗で、開拓というのは零細経営では失敗するものでして、後で藩が開拓権を買い上げて大規模開拓をする形に変わっていきます。山口県だけで80万石もの米を生産していたのですから驚きです。
塩は瀬戸内海全域で塩田が作られたために生産過剰になって一時期暴落します。そのため生産調整がされるようになって値が持ち直したそうです。いわゆるカルテルですが、瀬戸内海全域の藩と生産者、農民を巻き込んだ大カルテルです。江戸時代ってすごいですね。こういう経済のダイナミズムがあったことを知ると、江戸時代のいわゆる「隠密」なるもの、もしかして企業スパイみたいなものではなかったろうかと考えたくなってきます。
殖産興業の中で村田清風最大の業績は、藩の専売制を已めて村役人層に自由売買の権限を与えたことにあります。藩は商人から売上税のようなものを徴収することにしました。これによって、市場をよく知らない武士が低い値で特産品を売ることもなくなり、販売権が与えられたことで農民の利益も増えるので生産意欲の刺激にもなりました。ここら辺、奄美大島の島民の生活をコルホーズ並みに管理してサトウキビの生産統制を行った薩摩藩との違いが出ています。薩摩藩のサトウキビ政策のすさまじさと長州藩とは違った意味での近代的先取性についてもいずれ。
生産拡大だけではなく、先進生産地から講師を呼んだりして品質向上にも努めたのは言うまでもありません。
紙蝋米塩以外の特産品作りも奨励されました、「一村一品運動」の走りといえるかもしれません。副業に補助金も出しました。干し柿、干し大根、干し鮎、塩鮎、干しイカ、干しフグ、干し海鼠、干し鯖、干し鰯、鯨肉の塩漬け・みそ漬け・粕漬けフナの塩漬けなどの水産加工品に於いては大阪町人の人気を独占していました。他にも舟木櫛、赤間硯、蒲鉾、砂糖、石材なども有名でした。
また、清風は越荷方貿易を始めます。当時は保存技術が進んでいませんでしたので、時期によって物資の価格が今よりも激しく変動しました。清風はそこに目をつけ、瀬戸内海と日本海の結節点である下関で藩営の倉庫業を始めたのです。商人は下関の倉庫に商品を預けます。そして市場価格が上昇する時に倉庫から出して売るわけです。
別に下関じゃなくても大阪で良いではないかと思うかもしれません。しかし下関には、九州・日本海側・瀬戸内などの中心にあったので、どこにでもすぐに商品を運べるという利点がありました。市場価格は激しく変動します。あまり運搬に時間をかけすぎると時機を逸しますし、荷が傷みます。昔の船は木製ですから、水に漬かっていて湿気が常に高い船底というのは船荷が腐りやすかったのですね。船底はひどい匂いがしたといわれています。
越荷方は大成功しました。倉庫を維持するだけなので世間知らずの武士でも可能です。売る時期は商人が考えてくれます。幕末に高杉晋作を支えた白石正一郎は、この時に清風から越荷方の運営を任された商人の一人です。白石正一郎にとっては、藩から戴いたお金を凡て藩にお返ししたつもりだったのでしょう。
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陰暦 七月五日
土曜日ですし、機嫌もいいのでいっちょレスがつけやすそうな話題を振ってみようと思います。
真珠湾攻撃はフランクリン・ルーズベルト大統領の陰謀という俗説が昔からあります。日本に先制攻撃をさせて米国世論の激昂を狙ったという話です。この説には一つ誰もが忘れている不思議な点があります、ルーズベルトが日本軍の奇襲攻撃を誘ったとして、果たして艦載機による軍港爆撃を想定したかです。
理論上はともかく、戦闘機の性能についてはまだ誰もが半信半疑な時代でした。詳しい人の話によると、一部の飛行機マニアの間では、空母から飛行機を飛ばせて敵艦隊を撃滅する作戦は研究されていたそうですが、軍の外に確証を持って進言されるような話ではありません。ただの先行研究です。
ですから、現地時間12月7日(日)朝に、ルーズベルト大統領が日本軍の攻撃を想定していたはずがないのです。
現地時間12月8日(月)以降に、ハワイ沖で艦隊決戦を狙っていた、というのならまだ話は分かります。ハワイの住民にも見える場所で戦えば危機意識の喚起には充分でしょうし、連合艦隊は長征で燃料も心許ないはずですので、米軍が勝てる可能性も高くなります。
ルーズベルト大統領が、日本の零戦に真珠湾を攻撃させることを狙っていた、という話は、知らないうちにルーズベルトを神にも等しい英知を備えた存在に祭り上げていると同じことなのでした。
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陰暦 七月三日
すっかり週刊ペースになってしまいました。週に二回くらいは更新したいと思っているのですが、ちょこちょこと忙しいのでままなりません。そもそもブログは気晴らしにやるものですから、負担となっても仕方がないのでしばらくはこの調子でやっていくことになると思います。
村田清風に戻ります。村田清風が取り組んだ藩立て直し策の一つに下級藩士の救済がありました。近世初期と比べて物価は上昇していたにもかかわらず、ほとんどの藩士の俸給は据え置きでした。それどころか「御馳走米」と称して、俸禄の半分以上も藩が天引きをしていました。藩庫増収策としてお手軽だったからです。
武士はやがて日々の生活費にも行き詰まり、刀剣・槍・甲冑・馬に到るまで質入れしてやりくりする有様と成り果てました。
それに反して、上級武士や功績のあった武士は、藩から開墾の権利を与えられたり、下級藩士に金貸しをすることで裕福になっていました。さらに、先週見たように長州藩は撫育方という秘密会計を持っており、撫育方が黒字であることは明らかでした。撫育方もまた藩士相手に金貸しをしていました。
このように藩士や町人の一部が富み、藩を支えるべき藩士大多数が困窮する状態を清風は、「弟の物を取って兄に喰わせるような『四民貸殺』の制度」「同士食い経済」と糾弾しています。いざというときに兵士となって戦う藩士がこれではいくら撫育方に金が貯まっても意味はありません。
そこで清風は天保十四年(1843)、三十七ヶ年賦皆済仕法を発令します。
この方法は、藩庁から借りたお金は棒引きにしてやる、返さなくともよい、そのかわり今後は藩から(公借のこと)一切借金をしてはならない、なお商人から借りたお金(私借のこと)は藩が肩代わりして、藩が借りたことにし、藩は利子だけは毎年債権者に支払うが元金は37年支払い延期して、商人に待たせるという方法でした。
鎌倉時代の徳政や薩摩藩の更始(借金踏み倒しあるいは低利への借り換え?)と比べて穏当なモラトリアム宣言ですが、大阪や防長の金融業者は恐慌をきたしました。彼等は清風の反対派である坪井九右衛門と江戸藩邸の女性たちを援助して三十七ヶ年賦皆済仕法撤回を求めました。それは成功してしまい、翌天保十五年に「公内借捌法」が改めて施行されます。
これは公借を無借とし、私借も藩が立て替えるというものでした。結局藩は大阪の商人から五千貫も借りることになります。藩の歳入とほぼ同額です。撫育方を担保にしたと考えられます。
しかし、せっかく八万貫から半分近くにまで減っていた借金が増えてしまい、これは失敗であったということで坪井派は弘化三年(1846)に処罰されました。
けれども「村田清風入門」の著者は書いていませんが、公内借捌法によって藩士は相当息がつけて、藩に感謝をしたのではないかと思います。幕末に日本中を敵に回した時も、長州藩から内応者が出なかったのは、この時に藩が下級武士を助けたのを藩士が忘れなかったのも一因ではないかと私は考えます。
また、薩摩や熊本のように更始をしなかったことにより、上方で長州藩の評判は上がり、これもまた幕末に長州が京大阪で活動する時に大いに役立ったのではないでしょうか。
天保期の薩長を調べていて面白いのは、長州藩の方が律儀で藩士や町人との約束をよく守っているのに対して、薩摩藩は藩士や農民から搾り取ったり、町人との約束を破ることを屁とも思っていないのが見えてくることです。長州=軽薄、薩摩=実直という明治時代に作られたイメージがありますが、これは実態を表していません。あるいはこれは個人に当てはまるものであって、藩全体としては、薩長は後世に作られたイメージとは全く違っていた可能性があります。
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陰暦 六月廿五日 【土用】
村田清風を語るためには、萩藩中興の祖毛利重就を知る必要があると思った私は、吉川弘文館の人物叢書の「毛利重就」(小川国治著)を買ってまいりました。なぜなら「撫育方」という世にもユニークな制度を抜きにして近世後期の萩を語ることはできないからです。
毛利重就は萩藩の支藩長府毛利の家に生まれました。享保期の萩では藩主が相次いで亡くなり、輝元の長系が断絶、長府毛利氏から入った養子も断絶したため、長府毛利氏の支藩である清末毛利氏から、元平が、長府毛利を経て二段飛びで藩主になりました。重就は元平の五男です。長兄の師就が早世したために世継ぎとなったのでした。
つまり重就は、本来ならば、本藩>長府>清末、と三段目に位置する家の部屋住みとなる所、思いもかけず藩主となることができた幸運な人物です。江戸時代の大名家では時々このようなシンデレラボーイが登場します。上杉治憲(鷹山)や井伊直弼がそうです。養子という制度の妙です。そして、養子の中には世のために私心なく働いた人が多い。光格天皇を入れてもいいかもしれません。
防長の総石高は当時82万石でしたが、長府・徳山・岩国・清末の四末家に183,000石を分知。諸臣の給地として197,200石を与えていました。残る蔵入高(直轄地の石高)は447,000石になります。そこから荒廃地・寺社領・庄屋への給地を26,000石を除くと421,000石が残ります。それに税率(32.5%)を書けたのが年貢米で136,700石が藩庁が使える収入となります。
加えて雑収入と馳走米(藩士や町人から強制的に徴収した米、一種の所得税)があり、247,000石の収入がありました。ここから参勤交代の費用、領内の土木工事の費用、江戸での付き合い費、幕府のお手伝い普請の費用、天皇の即位の礼の献上金などを捻出しなければなりませんでした。総支出は282,000石。差し引き35,000石ですが、諸郡新古入替米(古くなった備蓄米の売り払い代金)と借米等借戻米(藩士や町人に貸し与えていた米の利子)があるので最終的な不足高は10,900石でした。
これに加えて、銀の方は不足高正銀9,566貫目、札銀1,438貫目。
13万石の収入に対して、年間1万石の赤字を出していました。村田清風が現れた天保期ほどではありませんが、大変な状態です。これに対して重就は主に
・検地による増収
・製紙業と製塩業の生産強化
・干拓事業
で対処します。検地は宝暦十一年(1761)〜十三年(1763)にかけて実施されました。これによって51,000石の増加がありました。今まで自助努力で増やしてきた田畑が課税対象になったわけですので、この検地は藩士にも農民にも非常に評判が悪いものでした。
そして重就の特質は、この増収を藩の財政には繰り入れずに、「撫育方」という別会計を作って、その財源としたことです。その後撫育方によって数多くの事業が行われます。
・干拓
・生産強化によって荒廃した製紙業を立て直すためのに楮植林
・蝋産業を興すための櫨増産
・塩田の開発
・石炭の増産
・港湾整備
・倉庫業(越荷方)
ただし負の面として、撫育方のお金を使って、重就の隠居屋敷建設、芝居興行も行われました。けれども芝居興行は、新しく作った町の振興策の意味合いもありましたし、屋敷建設で町人は潤いますので、全くの無駄遣いとは言えません。
撫育方の会計は秘密でしたが、明治四年(1871)に萩藩主毛利元徳が70万両明治政府に献上しており、これは撫育方から出たと見られています。天保期に行われた藩士救済、四白政策、幕末の浦賀防備、京都周旋、銃砲購入の代金も撫育方から出ました。撫育方というユニークな制度が、長州を読み解くためのキーです。
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陰暦 六月十二日 【小暑】【成田不動尊祇園会】
毛利敬親が再三にわたって重臣達に示した財政改革のビジョンを平川氏は次の四項目にまとめています。
一、藩士住民の物心全般の救済を図り、士気を高揚し誠実勤勉の藩の美風を取り戻すこと
一、武備を整え、武芸を奨励し外国勢力の侵犯に対する防備態勢を打ち立てること
一、紙蝋米塩の四白政策を基本として殖産興業を大いに奨励すること
一、財政の立て直しは全てに優先する、藩政にへばりつく妖怪を勇断を持って退治すること
倹約政策を、経済に詳しい現代の人士は莫迦にされてしまう傾向がありますが、「武士の家計簿」という本を読めば分かるように、江戸時代の武士の生活というのは儀式とそれに伴う贈答が全てのような所があり、体面を保つために嫌々ながらも借金をすることを彼等は社会から強いられていました。
それに武士は親戚や同僚からの贈り物を当てにして生活している面もありますから、ある家だけ贈り物を已めるわけにもいかないのです。とくに魚や鹿猪といった蛋白源の摂取は贈答に頼っていましたので、贈答が止まってしまうと、場合によっては基礎的な栄養さえ確保できないと言うことにもなりかねません。
「武士の家計簿」に取り上げられている金沢の藩士は財政家の家系なのですが、その財政の専門家からして、家計が破綻をすることを重々承知しながら三代続けて借金を重ねて家格を保ちます。家の人間が才能を発揮して出世すればするほどに出費がかさみ、やがて破産します。破産して初めて儀式の質を落とすのですが、それでも涙ぐましい努力をして儀式や贈答を挙行し続ける姿が描写されています。贅沢と言っても現代人とは覚悟が違うわけです。
江戸時代の武士は家格を保つことが家のため、ひいては藩のためだと信じていました。ですから上から倹約令を出さないと止められないわけです。江戸時代の倹約令にはきちんと意味も効果もあったのでした。
当時の長州藩は、藩主の襲封儀式のお金にも事欠く有様でした。国家老の益田元宣から財政実態を知らされた敬親は、派手な演出を已め、籠を已めて馬に乗り、木綿の紋付きで国入り道中をして藩政立て直しにかける決意を示しました。藩主が木綿の服を着て藩内を練り歩くなど、当時の感覚とすれば、恥づかしさのあまり憤死してもおかしくないほど破天荒な出来事でした。藩士と領民は涙が止まらなかったと言います。
そして萩に入りいよいよ財政立て直しの会議をしばしば開き解決策を講じようとします。ここで注意して欲しいのは、敬親は必ず自分の前で会議を開かせて重臣達に様々な意見を出させた上で、自分で決断を下していることです。村田清風グループの政策を取り入れることが勿論多かったのですが、反対派である坪井九右衛門グループの政策を取り入れることもありました。必ず最終的決断は藩主である敬親が下しています。
重臣の方も、幕末のように藩士を動かして示威行為をしたり、軍を動かして反対派を幽閉などということはしていません。藩政が正常に動いている限り、藩士は自由に意見を敬親の前で戦わせることができましたし、敬親は道理に基づいて決断を下し、藩主のお墨付きを得た政策に藩が一団となって従う体制が出来ていました。
倹約をし、無駄な儀式や役人を減らしていくことで徐々に藩の財政状況は改善していきます。敬親と清風がひと味違ったのは、江戸や国元での奥、つまり藩主一族の女性達にも倹約を徹底させたことです。
歴代藩主の正妻は将軍家をはじめとして蒼々たる家柄から来ていましたから倹約という物を知りません。また奥というのは不満分子が付け入る隙となりやすいもので、長州に限らず、いくつもの藩で財政改革を巡る権力闘争がいつの間にかお家騒動に成り代わって、政策の優劣とは関係ないことで藩士が罰せられる悲劇が多発しています。こうしたことが起きると人心が腐り、藩内に深刻な亀裂を残します。
敬親は奥の女性達の不満を押さえて清風を支え続けました。これをみても敬親が凡愚ではなかったことが分かると思います。
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陰暦 六月九日 【上弦】
ちょっとした手違いでプロバイダーへ料金未払いになってしまい、しばらく回線を切られていました。いやはや情けない話です(^^;A
江戸時代も中頃を過ぎるとどの藩でも財政赤字に苦しむようになっていたのは皆様よくご存じかと思います。参勤交代やお手伝い普請(幕府の命による公共事業)による出費がかさんだのに対して、歳入が米に偏っていたために、税収が元禄以降ほとんど伸びなかったことが直接の原因です。
江戸時代には商業が大いに発展したにもかかわらず、諸藩は商人からあまり税を取りませんでした。あるいは当時の日本の為政者は、関銭と株仲間(同業者組合)からの運上金以外に有効な商人からの税金の取り方を知らなかったのかもしれません。江戸時代には関銭を取ることは禁止されていました。株仲間を作らせたとしても、そこから上がる運上金は定額なので経済の拡大を反映しませんから、やはり有効な財源とはいえません。
検地も江戸初期以降ほとんど行われませんでしたから、諸藩は農民の所得の実情も把握していませんでした。いわば経済の規模が倍になって出費も倍かそれ以上になったにもかかわらず、税は据え置きだったわけですから、困窮しないはずがありません。
ただし江戸時代の為政者を愚かだったと莫迦にするのも早計でしょう。税が低かったと言うことは庶民が潤っていたことを意味するからです。参勤交代による沿道の発展も大きいですし、お手伝い普請による治水工事は今でも感謝されているほどにしっかりとした物で日本の発展に寄与しました。江戸で武士がひたすら消費をしたお陰で経済は大いに発展します。今風に言えば、内需拡大のために政府が出費をすることで有り余る生産力を吸収していたといえるかもしれません。政府部門が有り余る生産力を吸収せざるを得ない日本経済の現状は江戸時代からの伝統であるのかもしれません。
庶民の方も、よっぽどの飢饉の時はともかくとして、よく言われる農民の困窮というのはあまり実態を正確に映しているとはいえないと最近では言われています。何か少しでも災害があると、これ幸いとばかりに農民は藩に被害を過大に申告していたらしいのです。江戸時代の庶民の現実はまだまだ解明すべき点が多いといえます。
さて長州藩も人並みに赤字にあえいでいたわけですが、天保期に更に追い打ちをかける出来事が相次ぎます。
(一)第十代藩主毛利斉煕が江戸葛飾に十万二千坪の巨大な屋敷を建設
(二)第十二代藩主毛利斉広と将軍家斉の第十八女和姫との婚儀が整い、盛大な婚礼が行われる
(三)天保七年(1836)六月に防長を古来稀な暴風雨が襲う
(四)翌天保八年(1937)、先代斉煕が葛飾邸で死去、後を継いだ斉元が参勤交代で萩帰国中に死去、更にその後を継いだ斉広が江戸の櫻田藩邸で死去。一年のうちに藩主の不幸が三代も続き、藩内の落胆もさることながら、莫大な葬儀代支出を強いられた。
このような長州藩にとって未曾有の危機に毛利敬親は第十三代藩主となりました。毛利敬親は、小説のせいで無能な藩主という評判が立ってしまいましたが、聡明で意志が強い人物でした。幕末に尊攘派の要求に流されていたように見えるのは、彼等がテロにクーデタという非常手段を用いて、敬親に自分たちの意向を有無も言わさず押しつけたからです。敬親が決して凡愚ではなかったことも、おいおい説明していこうと思います。
敬親は村田清風を葛飾手元役から引き抜き、江戸仕組掛に任命しました。江戸仕組掛とは財政改革の実務者のことです。江戸とありますが、江戸国元双方の財政を取り仕切る責任者です。これは村田清風を一代家老の地位まで引き上げたことを意味しました。
そのころまでに清風は財政家として何度か藩政立て直しに関わっていたのですが、身分が低いために軽んぜられてうまく行きませんでした。それを見知っていた敬親は、彼に箔をつけて改革の実を挙げようとしたのです。藩という面子が何よりも重んぜられる世界を動かすツボを押さえていたといえるでしょう。
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